第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅶ)
第二十一章 呼ばれていない
最初に気づいたのは、
「呼ばれなくなった」ことだった。
透が気づいた、のではない。
世界のほうが、透に声をかけるのをやめた。
会社の廊下で、
人がすれ違う。
視線が動く。
口が動く。
透は、それを「会話だ」と理解する。
だが、
内容は来ない。
音としては、
かろうじて存在している。
振動として、空気が揺れているのも分かる。
けれどそれは、
意味を運ばない。
デスクに戻ると、
香澄が立っていた。
透は、
少し遅れてそれに気づいた。
「……」
香澄の口が動いている。
透は、
一瞬、待った。
続きが来るかどうかを。
来なかった。
「……何?」
透は、
自分の声の震えを、
喉の奥で感じた。
香澄は、
一瞬だけ表情を固めた。
そして、
チャットを開いた。
《さっき声かけたんだけど》
文字が出る。
透は、
胸の奥が静かに沈むのを感じた。
「ごめん」
それは、
反射ではなかった。
会議室。
人が集まる。
椅子が引かれる。
資料が配られる。
すべて、
視覚情報として入ってくる。
だが、
開始の合図が分からない。
誰かが話し始めてから、
「始まった」と理解する。
透は、
完全に一拍遅れている。
途中で、
上司の視線がこちらを向く。
透は、
何かを求められていると察する。
口が動く。
だが、
音は、届かない。
「……すみません」
透は言った。
「今、
誰か、
僕に向けて話しましたか」
会議室が、
一瞬、静まる。
誰も責めない。
誰も怒らない。
それが、
いちばん残酷だった。
会議後、
人事から声をかけられた。
……声を、ではない。
立ち止まられた。
透は、
それで気づいた。
小さな会議室。
ガラス張り。
「少し、
お時間いいですか」
人事は、
ゆっくり口を動かした。
透は、
一つ一つを、
読み取るように理解した。
「業務の進め方について、
調整を」
その言葉は、
チャットで補足された。
《安全のためです》
安全。
またその言葉だ。
「会議参加と、
対面での調整業務を、
一度外れてもらいたい」
透は、
即答しなかった。
理解に、
少し時間がかかった。
外れる。
つまり――
呼ばれない。
「……分かりました」
透は、
ようやく言った。
デスクに戻る。
通知音が、
鳴らない。
それに、
少し安心している自分に気づく。
もう、
聞き逃すこともない。
もう、
気づけなかった自分を
責めなくていい。
その代わりに、
世界との距離が、
一段離れた。
帰宅後。
凪が、
玄関で待っていた。
姿が、
目に入る。
透は、
それだけで少し安心した。
凪は、
口を動かした。
透は、
すぐには返事をしなかった。
一拍。
二拍。
そして、
凪がスマホを掲げる。
《今日、どうだった?》
透は、
その文字を見て、
ようやく答えた。
「……仕事、
外れた」
凪の表情が、
一瞬、崩れる。
だが、
すぐに整えられた。
夜、
ノートを開く。
今日の記録。
・聴覚:意味として機能せず
・対面コミュニケーション不可
・業務制限開始
透は、
一行、付け足した。
聞こえないとは、
音がないことじゃない。
世界が、
私を待たなくなることだ。
ペンを置く。
透は、
まだそこにいる。
だが、
世界の会話からは、
確実に外れ始めている。
それを、
誰のせいにもできなかった。




