第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅵ)
第二十章 異例
再診の予約は、
「キャンセルが出たので」という理由で前倒しされた。
透は、その電話を受けながら、
相手の声が少し慎重すぎることに気づいた。
それだけで、
胸の奥が静かに冷えた。
診察室に入ると、
城戸はすぐにカルテを閉じた。
「今日は、検査結果の説明というより」
そう前置きしてから、
言葉を探すように視線を落とす。
「状況整理をしたいと思います」
透は頷いた。
「お願いします」
声は、落ち着いていた。
城戸は、
これまでの経過を一つずつ確認した。
嗅覚の消失。
味覚の消失。
聴覚の違和感と、警告音の不認識。
生活上の事故未遂。
すべて、
淡々と読み上げられる。
その淡々さが、
今回は少し違っていた。
「通常であれば」
城戸は言った。
「これらは、それぞれ独立した事象として
扱われる可能性が高いです」
透は、何も言わない。
「ですが」
城戸は、そこで一度言葉を切った。
「ここまで順序立って、
感覚系が脱落していくケースは――」
沈黙。
透は、続きを待った。
「……異例です」
その言葉は、
診察室の空気を、
確実に変えた。
異例。
それは、
前例がない、という意味ではない。
想定の外、という意味だ。
「病名は、まだつけられません」
城戸は、すぐに続けた。
「ですが、
経過としては、
注意深く追う必要があります」
「それは」
透は、はっきり聞いた。
「進行性、という理解でいいですか」
城戸は、否定しなかった。
「可能性としては」
その言葉を挟んでから、
言い直す。
「無視できない段階に来ています」
透は、
その言葉を頭の中で整理した。
無視できない。
やっと、そこまで来た。
「追加検査をします」
城戸は言った。
「神経伝導、脳幹反応、
専門科へのコンサルも入れます」
透は、少しだけ息を吐いた。
検査が増えることは、
悪いことじゃない。
少なくとも、
“偶然”ではなくなった。
「一つ、確認させてください」
城戸は、
初めてカルテから目を上げた。
「最近、
聞こえないことを
隠していませんか」
透は、
即答できなかった。
その沈黙が、
答えだった。
「……はい」
城戸は、責めなかった。
「よくあることです」
その言葉が、
透の胸を少しだけ締めつけた。
「ですが」
城戸は続ける。
「この段階でそれを続けるのは、
危険です」
「分かっています」
透は、正直に言った。
「でも、
どこまでが“無理”なのか、
自分でも分からない」
城戸は、頷いた。
「それも、異例です」
透は、目を閉じた。
異例が、
自分の代名詞になりつつある。
帰り道、
透は駅のホームに立った。
警告音は、
今日も聞こえない。
だが、
以前よりも、
怖くはなかった。
理由は分かっている。
これは病気だと、
誰かが言葉にしたからだ。
まだ名前はない。
だが、
無視される段階は終わった。
透は、ノートを開いた。
今日の記録。
・医師の評価:「異例」
・進行性の可能性:高
・隠蔽行動:自覚あり
・今後:検査・制限が必要
最後に、
透はこう書いた。
異例とは、
私が間違っているという意味ではない。
世界の想定が、私に追いついていないだけだ。
ペンを置く。
凪が、
ドアの向こうで待っている。
これから先、
一人で判断することは、
もう許されない。
透は、
その事実を、
はっきりと理解していた。




