第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅴ)
第十九章 うなずく練習
最初は、意識していなかった。
ただ、
聞き返さなくなっただけだ。
「え?」と言わない。
「今なんて?」と言わない。
代わりに、うなずく。
相手の口の動き。
文脈。
会話の流れ。
それらを、
音の代わりに使う。
透は、それを「工夫」だと思った。
適応だ。
今までも、そうやって生きてきた。
嗅覚が消えたときも。
味覚が消えたときも。
だから今回も、
できると思った。
職場で、上司が話しかけてくる。
「今日、打ち合わせ、三時からね」
透は、即座にうなずいた。
「はい」
声の調子からして、
確認事項だ。
問題ない。
三時。
透は会議室に向かわなかった。
正確には、
別の会議室に向かった。
そこに、
人はいなかった。
透は、立ち止まった。
スマホを見る。
カレンダー。
――三時半。
時間も、
場所も、
ズレている。
透は、息を吸った。
これは、
聞き逃しではない。
聞こえていなかった。
会議が終わったあと、
香澄が声をかけてきた。
「透さん、来なかったね」
透は、少し笑った。
「別件だと思ってた」
嘘だった。
だが、
完全な嘘でもなかった。
自分の中では、
そう処理するしかなかった。
「そっか」
香澄は、それ以上追及しなかった。
その“追及しなさ”が、
透を助けてしまう。
家に帰ると、凪が言った。
「今日さ、
スーパーで呼んだのに、
気づかなかったよね」
透は靴を脱ぎながら答えた。
「え? そう?」
凪は、少し黙った。
「後ろから、名前呼んだ」
透は、
言葉を選ばなかった。
「考え事してた」
それは、
便利な嘘だった。
反証できない。
責められない。
凪は、それ以上言わなかった。
だが、
その沈黙は、
納得ではなかった。
夜、透はノートを開かなかった。
書けば、
自分で自分を否定することになる。
今日は、
問題が起きた。
だが、
誰も死んでいない。
誰も怪我していない。
だから――
まだ、大丈夫だ。
そう、結論づけた。
数日後、
本当に小さなミスが起きた。
コピー機の警告音。
紙詰まり。
透は、
周囲がざわつくまで、
気づかなかった。
「音、鳴ってたよ?」
誰かが言う。
透は、笑って答えた。
「ごめん、気づかなかった」
その言葉は、
初めての半分の告白だった。
だが、
誰も深くは追及しない。
それが、
いちばん危ない。
透は、
自分が何をしているか、
分かっていた。
聞こえないふりをしているのではない。
聞こえている人のふりをしている。
それは、
世界との接続を保つための、
最後の細い糸だった。
だが、
糸は細すぎる。
ある日、
それは必ず、切れる。
透は、
その予感だけは、
はっきりと聞こえていた。




