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消失  作者: あき
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第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅳ)

第十八章 聞こえていたはずの言葉


その仕事は、透にとって慣れたものだった。


編集会議。

原稿の最終調整。

進行確認。


音声を扱う仕事ではない。

だが、会話の微妙なズレを拾うことは、透の得意分野だった。


「ここ、少しトーン落としたほうがいいですよね」


誰かが言う。

透は、頷いた。


「ですね」


言葉は、噛み合っている。


――はずだった。


会議は、テンポよく進んだ。

笑いも起きた。

空気は悪くない。


透は、議事メモを取りながら、

一つ一つを理解していった。


理解している。

追いついている。


それでも、

どこかで、糸が一本抜けている感覚があった。


透は、その感覚を無視した。

今まで何度も、

「気のせい」で済んできた。


会議の終盤、

上司が言った。


「じゃあ、その件は、差し戻しで」


透は、書き留めた。


差し戻し。


確認のため、顔を上げる。


「……差し戻し、ですよね?」


一瞬、

会議室の空気が止まった。


「いや」


上司が、少し困ったように言った。


「差し替え」


透は、言葉を失った。


差し戻しと差し替え。

音は似ている。

だが、意味は正反対だ。


「……すみません」


透は、すぐに訂正した。


「差し替え、ですね」


上司は、軽く笑った。


「大丈夫、大丈夫」


その笑いは、

問題を小さくするためのものだった。


だが、透の中では、

小さくなかった。


会議が終わり、

香澄が声をかけてきた。


「さっきの、珍しかったね」


責める口調ではない。

事実確認の声だ。


「うん」


透は、短く答えた。


「聞き間違え?」


透は、少し間を置いた。


「……たぶん」


嘘ではない。

だが、正確でもない。


聞き間違えたのではない。

聞こえたものを、正しく選別できなかった。


香澄は、透の顔を見て、

それ以上聞かなかった。


その“聞かない”が、

透の胸を締めつけた。


その日の夕方、

上司からチャットが入った。


「今日の件だけど」


透は、画面を見つめた。


「差し替えのところ、

もし他にも不安あったら、

無理しないで言って」


透は、キーボードに指を置いたまま、

しばらく動けなかった。


不安は、ある。

だが、

どこからが不安なのか分からない。


透は、こう返した。


「ありがとうございます。

気をつけます」


それが、

いちばん安全な言葉だった。


帰宅後、

透はノートを開いた。


今日の記録。


・会議中、「差し戻し/差し替え」を誤認

・周囲に修正される

・自覚あり


ペンが、止まる。


この項目は、

嗅覚や味覚のときと違う。


これは、

能力の低下として扱われる。


透は、書き足した。


聞こえていても、

正しく選べなければ、

仕事は成立しない。


隣の部屋で、凪が電話をしている。

声が、断片的に聞こえる。


……聞こえている。


だが、

言葉の意味が、

頭に入ってこない。


透は、ノートを閉じた。


仕事ができなくなる、

という恐怖は、

死ぬこととは違う。


だが、

生きている理由が、

一つ削られる感覚は、

確かにそこにあった。

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