第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅲ)
第十七章 半歩、遅れる
事故と呼ぶには、小さすぎた。
だから誰も、
それを事故だとは思わなかった。
その日、透はゴミを出しに行った。
夕方、日が落ちかける時間帯。
住宅街は静かだった。
車の通りも少ない。
透は、横断歩道のない道を渡ろうとしていた。
左右を確認する。
視界に、車はいない。
――音は?
透は、耳に意識を向けた。
エンジン音は、聞こえない。
大丈夫だ、と判断した。
一歩、踏み出す。
その瞬間――
クラクションが鳴った。
……はずだった。
透がそれを認識したのは、
身体が引き戻されたあとだった。
「危ない!」
誰かの声。
腕を掴まれる感触。
透は、よろめいて後退した。
目の前を、
車が通り過ぎる。
速くはなかった。
乱暴でもなかった。
ただ、
そこにいた。
「何してるんですか!」
運転席から、声が飛ぶ。
怒り混じりの、当然の声だ。
透は、言葉を失った。
「クラクション鳴らしましたよ!」
透は、ただ頷いた。
鳴っていた。
それは、理解している。
だが――
届いていなかった。
腕を掴んだのは、近所の女性だった。
「大丈夫?」
透は、自分の心拍が早いことに気づいた。
それでも、声は落ち着いていた。
「はい。ありがとうございます」
女性は、怪訝そうな顔をした。
「ちゃんと見てた?」
「見てました」
それも、嘘ではない。
女性は納得しない様子だったが、
それ以上は何も言わなかった。
車は行ってしまった。
通りは、また静かになる。
透は、しばらく動けなかった。
今のは――
一歩間違えれば、
説明不能な事故になっていた。
家に戻ると、凪がいた。
「おかえり」
その声が、
少し遠く感じた。
「……ただいま」
凪は、透の顔を見て、すぐに異変に気づいた。
「どうしたの」
透は、少し考えてから言った。
「さっき、車に轢かれかけた」
凪の顔から、血の気が引いた。
「え?」
「クラクション、聞こえなかった」
その一言で、
部屋の空気が変わった。
「聞こえなかったって……」
凪は、声を落とした。
「全然?」
透は首を振った。
「鳴ってたのは分かる。
でも、認識したときには遅かった」
凪は、何も言えなかった。
透は続けた。
「音が、
判断材料にならなくなってる」
凪は、唇を噛んだ。
その夜、透はノートを開いた。
今日の記録。
・道路横断時、クラクションを認識できず
・第三者の介入で回避
・危険度:非常に高い
ペンが、少し震えた。
透は、それを止めなかった。
最後に、書いた。
半歩、遅れる。
それだけで、人は死ぬ。
凪は、ノートを覗き込んでいた。
「……ねえ」
透は顔を上げた。
「これ、
一人で何とかしようとしないで」
その言葉は、
お願いに近かった。
透は、返事をしなかった。
返事ができなかった。
なぜなら――
一人で何とかできる段階は、
もう過ぎていると、
透自身が分かってしまったからだ。




