第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅱ)
第十六章 異常なし
検査室は、防音だった。
壁は厚く、扉は重い。
音を遮断するための空間なのに、
透はそこに入った瞬間、理由の分からない不安を覚えた。
ヘッドホンをつけられる。
「聞こえたら、ボタンを押してください」
検査技師の声は、はっきりしていた。
少し大きめで、配慮された声だ。
透は頷いた。
音が鳴る。
高い音。
低い音。
断続的な電子音。
透は、遅れずにボタンを押した。
一度も、迷わなかった。
聞こえている。
事実として。
検査は、問題なく終わった。
診察室で、城戸が結果を確認する。
「聴力、正常範囲です」
その言葉は、予想通りだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「警告音の件ですが」
城戸は続ける。
「特定の周波数だけが聞き取りにくい、
という結果も出ていません」
透は、黙って聞いていた。
「反応速度も、検査上は問題ありません」
城戸は、少し間を置いた。
「正直に言うと、
医学的には“異常なし”です」
その言葉が、
透の中で、はっきりと区切り線を引いた。
異常はある。
だが、異常として扱われない。
「駅で、
他の人は耳を押さえていました」
透は、事実だけを述べた。
「警告音は、確実に鳴っていた」
城戸は頷く。
「はい。記録も残っています」
「でも、私はそれを認識できなかった」
「……」
「それでも、“異常なし”ですか」
城戸は、言葉を選んだ。
「検査で説明できない以上、
現時点では、そう判断せざるを得ません」
透は、理解した。
これは、否定ではない。
保留だ。
嗅覚も、味覚も、
同じ場所を通ってきた。
「また、偶然ですか」
透は聞いた。
城戸は、目を伏せなかった。
「……現段階では」
透は、それ以上何も言わなかった。
病院を出る。
音は、ある。
車。
人。
風。
だが、
どれもが、透を守る音ではない。
危険を知らせる音。
注意を促す音。
逃げろ、と言う音。
それらが、
意味を持たない。
透は歩きながら考えた。
聴覚が完全に消えたわけじゃない。
だからこそ、
誰も止めてくれない。
夜、ノートを開く。
・聴力検査:正常
・警告音:認識不能
・医師判断:説明不能(経過観察)
透は、ページの余白を見つめた。
ここに、
何を書けばいいのか分からない。
最後に、短く書いた。
危険は、
聞こえない形で近づく。
凪が声をかける。
「透?」
透は、少し遅れて振り向いた。
「なに?」
「呼んだのに、返事なかったから」
透は、笑おうとした。
「ごめん。考え事」
凪は、それ以上追及しなかった。
その優しさが、
透にはもう、
音のない警告に思えた。




