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消失  作者: あき
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第Ⅰ部 嗅覚の消失(Ⅰ)

第一章 雨の匂い


雨が降った翌朝の街には、匂いがある。

濡れたアスファルトが熱を失いながら吐き出す、土と油の混ざった匂い。植え込みから立ち上る青い匂い。遠くの川が運んでくる、生ぬるい水の匂い。


私はそれを、名前をつけずに知っていた。

意識しなくても分かる種類の情報として、ずっと身体の奥に入ってきていた。


ところが、その朝は――匂いがしなかった。


正確に言うなら、空気は湿っていた。喉の奥に冷たさが触れ、肺が少し重くなる。髪の毛の先が水を含んで、頬に張りつく。

だから雨が降ったことは、理解できた。


理解できるのに、雨だと“感じない”。


「変だな」


声に出しても、変さは形にならない。

いつもなら、玄関の扉を開けた瞬間に世界が切り替わる。雨上がりの世界は、鼻から先に始まる。なのにその日は、色も音も昨日の延長のままだった。


私は仕事へ向かうために、コンビニに寄った。

いつものようにコーヒーを買う。店内には揚げ物の匂いがあるはずだ。私はそれが少し苦手で、朝の胃を守るために、なるべく深呼吸しないようにしていた。


今日は、何もなかった。


揚げ物も、パンも、洗剤も、すべての境界線が消えている。

「匂いがしない」というより、匂いという情報が最初から存在しないみたいだった。


私はカウンターで、店員が袋に入れる手元を見た。

袋の中に、熱いコーヒーが収まる。湯気が立つ。視覚的には、いつも通りの朝だ。


外に出て一口飲んだ。

苦味がある。舌の上で熱が広がり、喉に落ちていく。


しかし、鼻へ抜ける香りがない。


香りのないコーヒーは、別の飲み物だった。

何かを思い出させるはずのものが、ただの刺激になっている。


私は歩きながら、鼻の奥を意識した。

鼻は詰まっていない。呼吸もできる。風邪の症状もない。

ただ――何も入ってこない。


立ち止まって、深呼吸をした。

雨の匂いは戻らない。


私は自分の手首の内側に鼻を近づけた。

皮膚の匂いがするはずだ。石鹸の匂い、生活の匂い、自分の匂い。


何もない。


胸の奥が、ゆっくり冷えた。

恐怖ではない。パニックでもない。

現象として、ただ「変だ」と理解した。


理解するだけで済むならいい。

私はいつも、そうやって生きてきた。


――この違和感が、何かの始まりだと知るのは、もう少し後だった。


第二章 気のせい、という処方箋


その日の会議は、いつも通りの時間に始まった。

編集部の小さな会議室。机の上には、ペットボトルの水、資料、付箋、そして誰かが持ち込んだ菓子パン。


私は発言の順番を待ちながら、菓子パンを横目で見た。

甘い匂いがするはずだった。クリームの匂い、バターの匂い。

しかし、会議室の空気は無臭だった。


「朝倉さん、ちょっと疲れてない?」


上司が言った。軽い言葉だった。

私の返事も軽くしておいた。


「大丈夫です。寝てます」


嘘ではない。睡眠は取れている。

疲れのせいにできるほど、私の生活は荒れていなかった。


会議が終わってデスクへ戻ると、隣の席の香澄が声をかけてきた。

香澄は同僚で、私より少し年下で、いつも言葉の柔らかい人だった。


「ねえ、朝倉さん。さっきのパン、食べないの?」


「食べるよ」


「じゃあ半分あげる。新作らしい」


彼女は、私の反応を見ていた。

私はその視線に気づいたが、理由は分からないふりをした。


受け取って一口かじる。

甘い。舌には甘味がある。食感も分かる。

だが、匂いがない。


「どう?」


香澄が聞いた。


私は瞬間、言葉を選び損ねた。

「おいしい」と言うには、欠けているものが大きい。

「分からない」と言えば、彼女の善意を踏みにじる。


「普通に、甘いね」


私は最も無難な感想を口にした。

香澄はほんの一瞬、眉の奥を動かした。


「……風邪?」


「ううん。鼻詰まりもない」


「じゃあ、花粉?」


「花粉なら、匂いが“変になる”感じじゃない?」


私は自分の説明が、妙に専門的だと気づいた。

匂いの有無について、私は普段こんな話し方をしない。


香澄は笑って、話題を変えた。

その笑いの裏に、ほんの少し引っかかりが残っている。


午後、私は耳鼻科へ行った。

診察室は消毒の匂いがするはずだった。

しかし、そこにも匂いはなかった。


医師は鼻腔を覗き、軽く咳払いをした。


「鼻はきれいですよ。詰まりもない。炎症も強くない。嗅覚検査も、極端に悪いわけじゃない」


「じゃあ、何なんでしょう」


医師は椅子に体重を預けた。

その姿勢は、「重大な話ではない」という態度の一部だった。


「気にしすぎ。ストレスで嗅覚って鈍ることもありますからね。睡眠と、規則正しい生活」


私は思わず聞き返した。


「嗅覚だけが、突然?」


「まあ、そんなこともありますよ。あと、加齢」


加齢。

私はまだ三十代だ。加齢という言葉がここで出てくるのは、説明の放棄に近い。


「不安なら、経過見ましょう。ビタミン剤出しときます」


処方箋が印刷されて、私の手に渡された。

そこには、安心の形をした紙があった。


しかし私は、安心できなかった。

なぜなら、“気にしすぎ”で片づけるには、世界が静かすぎたからだ。


帰り道、私は薬局の前で立ち止まった。

薬局はいつも、薬品と紙と人の匂いが混じった場所だ。

それが、無音のように無臭だった。


――気にしすぎ。

その言葉は、現象の否定ではない。

ただ、私の恐怖だけを切り捨てる言葉だった。


私は思考を整えた。

大丈夫だ。

私はまだ、論理で世界を掴める。


その時点では、本気でそう思っていた。


第三章 境界線が消える


嗅覚がなくなると、生活は少し楽になる。

少なくとも最初は、そう錯覚する。


電車の中の体臭が気にならない。

生ゴミの匂いで顔をしかめなくていい。

トイレの芳香剤にむせなくていい。


便利だ、とさえ思いかけた。


だが、その便利さは、世界の“境界線”も一緒に消す。


境界線がないということは、危険と安全の区別が薄くなるということだ。

私はそれを、頭では理解していた。

そして、身体は理解していなかった。


ある夜、帰宅してコンロに鍋をかけた。

湯を沸かして、インスタントのスープを作る。

私は料理が好きなわけではないが、疲れた日に温かいものがあると、思考が少しだけほどける。


湯気が立ち、鍋が小さく鳴った。

私はスマホの通知に目を落とした。

香澄からメッセージが来ていた。


『耳鼻科どうだった?』


私は返事を打ちかけて、画面から目を上げた。

鍋から湯気が強く立っている。

沸騰しているのに、私はそれを“匂い”で感知できない。

熱い水が沸く匂いはない。

しかし、焦げる匂いはあるはずだ。焦げの匂いは、危険の匂いだ。


――焦げの匂いが、もし分からなかったら?


私は鍋の近くへ顔を寄せた。

何もない。

私は息を吸った。

何もない。


その瞬間、胸が薄く痛んだ。

痛みではなく、理解の速度が上がる感覚だった。


私は蛇口をひねり、鍋の火を止めた。

一つ一つ確認する。

火。ガス。換気扇。窓。


確認しても、身体の奥の不安は消えなかった。


私は思い出した。

小避難訓練の煙。

焦げたトースト。

誰かが鍋を空焚きしたときの、あの強烈な匂い。


あれは、社会が私に配ってくれていた警報だった。

匂いという警報が、今は鳴らない。


香澄に返事を送った。


『異常なし。気にしすぎって言われた』


すぐに既読がついた。

数秒後、返信が来た。


『……それ、いちばん怖いやつだね』


私はその言葉に、妙に救われた。

誰かが怖がってくれたことで、私の怖さが否定されなかったからだ。


しかし救いは短かった。

次の瞬間、私の視界の端で、キッチンの隅がかすかに揺れた。


私は息を止めた。

揺れではない。

透明な、うねり。


ガスの漏れだ。


――匂いがしない。


理解は一瞬で到達したのに、身体が遅れて震えた。

私は元栓を閉め、窓を開け、換気扇を最大にした。

手順は合っている。論理的には正しい。


それでも、私は立ったまま動けなくなった。

怖いのは、ガスではない。


“匂いがないせいで、私は死にかけた”という事実だった。


私はその夜、初めてノートを開いた。

仕事のメモ帳ではない、まっさらなノート。


日付を書き、項目を書いた。


何が分からなかったか


どの状況で危険が増えるか


代わりに何で補うか


私は冷静だった。

文字はまっすぐ並んだ。

思考は澄んでいた。


――だからこそ、私は理解した。


この病気は、私の世界を静かに壊す。

そして壊れたことを、私は最後まで、はっきり分かり続ける。


それは、たぶん。

生きるという行為の中で、最も残酷な形の一つだ。

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