File30 -ここにあった未来
――おや、いらっしゃい。
来ていたのか、気づかなかったよ。
私は意外と気づく方なのなのだが、今日は全くだったね。
存在感が無い、ということは……ないよね。
だって、ここに来られるんだから。
そうだ、今日はあの話にしよう。
タイトルは「ここにあった未来」。
◇◆◇◆◇◆
ある一人の女性がいた。
彼女は常日頃から、ある事に悩まされていた。
それは、自分がこの世界に「いる」ということに、確信が持てないという悩みだった。
なんでも、昔からよく「存在感が薄い」と言われていたそうでね。
友人と遊びに行っていても、近くに居たはずなのに、「どこに行った?」と探されるほどに。
存在感――そんな曖昧な言葉で片付けられるには、あまりにも根源的な不安だった。
さて、そんな彼女にも転機が訪れる。
カウンセラーとの出会いだ。
彼女は自らの希薄さを語る中で、ある結論にたどり着いたそうだ。
曰く、「世界には総容量がある」という仮説だ。
たとえば、世界の存在容量が10だとしよう。
10人いれば、それぞれ1ずつ分配される――わけではない。
芸能人や政治家のように強烈な存在感を持つ者には、3や4が振られ、残りを一般人が奪い合う。
つまり、自分に割り当てられた容量が少ないから、存在感が希薄なのだと。
彼女はそう考えるようになった。
……いや、私も正直わからないんだ。
カウンセラーとどういう話をしたら、そんな結論に至るのか。
ともかく、そう至った彼女は「自己の存在容量を増やす」ことを決めた。
とはいえ、誰かの容量を奪う――つまり殺しをする気はない。
ならばどうするか?
答えは単純。「世界全体の容量を増やす」ことにしたのさ。
どうやって?
パソコンを思い浮かべてほしい。
最初に購入した時、容量は決まっている。
だが、足りなければUSBメモリのような外部ストレージを繋げばいい。
彼女はそれと同じ発想で、何処から容量を拝借しようと考えた。
そして彼女はなぜか、ハイデガーに目をつけたのさ。
マルティン・ハイデガー。
難解とされながらも、今なお読み継がれる20世紀最大級の哲学者だ。
そして彼の著書『存在と時間』に惹かれていった。
噛み砕いて言えば、ハイデガーはこう考える。
「現存在」としての人間が、自らの死をどう理解し、自分自身としての在り方をどう確立するかが問題となる。
人は、自分が「死にゆく存在」であると自覚することで、「いま、ここ」の在り方を問い直し、初めて自己本来の存在に目覚める、と。
彼女はそこに注目した。
……だが彼女は、この思想をある意味で誤解した。
「死に直面することで、自己の在り方が浮かび上がる」という思想を、
「死ねば、周囲の視線が集まり、存在感が上がる」と解釈してしまったのだ。
彼女がとった行動は、愚かにも、自らの命を絶つことだった。
……けれど皮肉なことに、その行為は彼女にとっては「正解」だったのかもしれない。
人が死ねば葬儀が営まれる。
家族や友人、関係者が集まり、故人について語る。
そうなれば彼女に注目が集まる。
彼女はそれを、「世界における存在容量の回復」とみなしたのだ。
だが――
死によって自己の在り方を示すという考えは、ハイデガーが説いた
「本来的な生の覚醒」とはまったく別物だ。
彼のが語る死とは、「死を想うことによって、生を自覚する」ためのものであり、死そのものに意味があるわけじゃない。
けれど、彼女の勘違い。
その認知の歪みこそが、彼女にとっての「存在証明」だったのだろう。
満足したのか、あるいは救われたのか――それは誰にもわからない。
私には、理解できないけどね。
◇◆◇◆◇◆
さて、今回の話はここまでだ。
……難しい話だった、か。
それはそうだ。
今回柄にもなく哲学を語ってしまったからね。
ただ彼女を語るには、それが必要であった。それに尽きるんだよ。
そういう意味では、自己の希薄を覆せていたのかもね。
タイトルの意味かい?
ハイデガーも提言していただろう?
"自分が「死にゆく存在」であると自覚することで、
「いま、ここ」の在り方を問い直し、初めて自己本来の存在に目覚める"。
彼女は「いま、ここ」のあり方を問い直せなかった。
それ故にあったはずの未来に、ということさ。
思想というのは人それぞれで、凝り固まると視野が狭くなる。
扱いを誤ればとても危うい。
けれど、人が考え、悩み、迷い込むその過程自体が――
「我々に対する存在証明」、なのかもしれない。




