36. 王太子の苦悩 その2
いつの間にか控えていた侍女たちはいなくなってしまっていて、広い私室には王太子殿下と俺の二人だけになっている。
もう、いたたまれない。逃げ出したくて仕方ない。しかし王太子殿下の御前から逃げた瞬間、不敬罪で俺の人生が終わることだけは確定している。
殺すのならとっとと殺してほしい、という心境になってきた。
すると、アルトゥーロ殿下はぼそりと話し始めた。
「君には……」
「はっ、はいっ」
「お礼を言わないといけないね」
「えっ」
お礼?
王太子殿下はこちらに顔を向けると、口元に弧を描いた。
「イサベリータを助けてくれて、ありがとう」
「え、あ……」
ふいに優し気な、温かい感情の含まれた声を掛けられて、動きが止まる。
もしかして、そのために? わざわざ? でもよかった。いいことだった。
「いえ。それが仕事ですし。むしろ、迂闊にも怪我をしてしまい、ご迷惑をお掛けしました」
「身体のほうは?」
「もうほとんど元通りと言っていい状態かと思います」
「そう」
短く返してきて、また王太子殿下は黙り込んだ。
あれ。これで話は終わりではないのか。退室を命じられると思ったのに。
でもよく考えれば、着席するよう言われ、目の前には紅茶だ。込み入った話があるはずなのだ。安心するのは早かった。
長い沈黙のあと、また王太子殿下の話が始まる。
「知っているかい?」
「な、なにを、でしょうか」
「王女と騎士の恋物語が、劇場で演じられていること」
「あ、ああ……」
ミゲルさまが教えてくれたやつか。
騎士団の面々は毎日鍛錬に忙しくて、それを観劇したことはなさそうだが、もし目にしたら揶揄われることだろう。
「話には……聞きました」
「観たことは」
「ありません……」
「内容は」
「知りません……」
「そうか」
そしてまた訪れる、沈黙。
その演劇になにか問題があるのだろうか。でも、俺はなにも関わっていない。
あの事件を題材にした王女と騎士の恋物語、ということなら、モデルはイサベリータ殿下と俺……になるのだろうが……、それがまずいのだろうか。いやそれはもちろん、好ましいことではないだろう。王族を題材にするだなんて。しかも王女の相手が俺だなんて。
とはいえ、勝手に始められたものだし、俺に言われても。
と頭の中でぐるぐると言い訳を連ねていたところで、アルトゥーロ殿下はまた重そうな口を開いた。
「知らないようだから教えるが、この演劇が、とんでもなく好評を博していてね」
「そう、なんですか」
まさかとは思うが、これが本題か。
ある意味、説教なのだろうか。お前のせいでこんなことに、って?
「毎日のように、嘆願書が大量に届けられているんだよ」
「嘆願書、ですか」
「そう」
なんの? と訊きたかったが、もちろん俺が口を挟めるはずもない。
「内容を読めばね、どうも現実とは違って、演劇の話を真に受けたようなものも多いんだが……まあ大筋は変わらないから、どう否定していいものかもわからないし」
演劇の話を真に受けた、ということは、王女と騎士の恋物語を信じているということだろうか。
だとしたら……本当にまずいのでは……。なにより、イサベリータ殿下に申し訳ない……。
今までの話を総合するに、嘆願書とは、王女と騎士の仲を認めてくれ、というものなのでは。
いやそれは、演劇の中の話で、現実とは違うから!
確かに俺のほうは、身の程知らずの恋慕を抱いているわけだが、あくまで一方的なものだ。それが現実というものだ。
殿下の今後の縁談とかに影響があったらどう責任をとればいいんだ。なにせすでに、ミゲルさまとの縁談に影響があったのだ。
蒼白になっていく俺には目もくれず、王太子殿下は喋り続ける。
「こうなると、どんな大国の王子だろうともう、悪役になってしまう……。二人を認めない王家も、同然にだ」
え、そんなに?
アルトゥーロ殿下は俺のほうに視線を向けて、問い掛けてくる。
「君。君をモデルにした役を、誰が演じているか知っているかい?」
「いえ……」
「ヘレミアス・ウルバノというんだが」
まるで聞き覚えがない。
俺が知っていて当然の人なんだろうか。いや、演じているというからには役者だろう。だとしたら門外漢だ。
「申し訳ありません、そういうことに疎いもので……」
だろうね、という感情を瞳に滲ませて、王太子殿下は教えてくれた。
「当代きっての色男と評判の役者だよ」
「そうなんですか」
「彼が出演する舞台はそれでなくとも行列が絶えず、彼と目が合っただけで、何人ものご婦人たちが失神してしまうとか」
「ひっ」
なんか変な音が口から漏れ出た。
王太子殿下の御前でなければ、間違いなく頭を抱えていただろう。
どうやら劇場の舞台の上では、美男美女の二人が熱烈な愛の物語を繰り広げているらしい。
イサベリータ殿下以上の美女はなかなかいないだろうからそちらは心配ないとしても、男優のほうは……本物、つまり俺を見た人は失望するんじゃないだろうか。
いや、失望するくらいならまだいい。騙された、と怒りだす可能性もある。なんて理不尽な。
唖然とする俺を横目に、王太子殿下は口を動かし続ける。胸に溜まっていたものを、ひとつ残らず吐き出そうとしているかのようだった。
「しかも劇団は、国内巡演の旅に出てしまった」
「ああ……」
「さらに言えば、その劇団だけじゃない。最初の劇団が盛況だったものだから、我も我もと似たような演劇がいくらでも湧いて出る」
そして王太子殿下は俺のほうに顔を向け、なにやら含んだ笑みを浮かべた。
「ちなみに、君が死亡したという結末のものもあるよ?」
この人絶対、そうだったらよかったのにな、と思ってる。そんな顔してる。
嘆願書が寄せられるのは仕方ないとして、もしすでに、俺が死んでいたとしたら……それじゃあどうしようもない、と話は丸く収まったのか。
こわ……本当に一服盛られる心配のほうをしないといけなかったのか……。念のため、この目の前の紅茶には絶対に口をつけないようにしよう。
「不敬だ、と止めることもできなくはないが、おそらくそれをしたら、もっと酷いことになる。遅すぎたんだ……」
そこまで語ると、王太子殿下はガックリと肩を落としてうなだれた。
俺のせいじゃない、と強く主張はしたいが、なんだか申し訳ない気持ちにもなってくる。
殿下は気を取り直したように身体を起こすと、引き締まった声を出した。
「そういうわけだから、君の行動によっては、それが王家への信頼の瑕疵となる可能性もある。心して過ごすように」
なんと本題は、まさかの説教だった。
「肝に銘じます」
「君の言動については、逐一報告させるから」
そこまでするのか……。
「了解しました」
とはいえ、騎士という身分は本来、常に見られているという意識を持って、清廉潔白であり続けなければならないものだ。
だから、監視されたところで一向に困らない……わけはない。俺はそんな完璧超人じゃない。
そんなに厳しくないといいなあ、と心の中で祈る。
アルトゥーロ殿下は、なにやら口の中でブツブツと呟いていた。
「まあ……可愛い妹を命がけで守ってくれたわけだから……」
「可愛いんですね」
少し意外に感じて、思わずそのまま返す。
すると彼は、パッと俺の顔を見返してきた。
まずい、つい口を挟んでしまった。
「……見えないか?」
「あの……不躾ながら……」
「そうか」
弁解もなにも口にすることなく、王太子殿下は、ふっと小さく笑う。
これはどうやら、本当に可愛いと思っているらしい。
機会があったらイサベリータ殿下に教えてあげよう。きっと喜ぶ。
「とにかく、これからもイサベリータを頼む」
「了解しました」
ということは、イサベリータ殿下の専属騎士から降ろされることはないようだ。
演劇の影響でそんなことになったら、と心配していたが、安心した。
「これからも、イサベリータ殿下の騎士として、誠心誠意、尽くして参る所存です」
そう述べると、なぜか王太子殿下は、胡乱げな表情になった。
なぜだ。なにか変なことを口走ってはいない……と思うのだが。
すると王太子殿下は口元に手を当て、ぼそりと呟いた。
「ああ……まだなのか」
「え?」
意味がわからず、次の言葉を待っていると、王太子殿下はひらひらと顔の前で手を振った。
「いや、なんでもない。よくわかった。退室していいよ」
「はっ」
どうやら解放されるらしい。俺は慌てて立ち上がり、腰を深く折る。
頭を上げたとき、面白そうに目を細める王太子殿下がそこにいた。
「とにかく、悪い人間ではなさそうで、安心したよ」
「あ、ありがとうございます」
そう答えて、踵を返して歩き出す。
最後に、「失礼しました」と一礼して、扉を開けて外に出て、もう一度室内に向けて頭を下げる。
アルトゥーロ殿下は、まだソファに腰掛けたままで、なにやら考え込んでいるようだった。
もう声を掛けないほうがいいだろう、と静かに扉を引く。
「……本当に、いいんだろうか……」
扉が閉まる瞬間、そんな声が発されたのが聞こえた。
もちろん、なにが? とは訊き返せなかった。
明日(2025/7/8)の夕方ごろ、完結します。
どうぞよろしくお願いします。




