35. 王太子の苦悩 その1
体力も食欲も戻ってきて、短時間ではあるが鍛錬にも参加できるようになり、なんとか通常の生活に戻りつつあるとき。
突如、アルトゥーロ王太子殿下付きの侍女が、騎士団の宿舎の食堂にやってきた。
もぐもぐと食事をしていた俺の目の前に立った侍女は、ピシリと背筋を伸ばして、俺に向かって口を開いた。
「エドアルド・スマイスさまで、間違いないでしょうか」
「え、はい」
訳がわからないが、とにかく口の中のものを飲み込む。少なくとも名前を確認されたからには、俺に用事があることは間違いない。
なんだなんだと、食堂内にいた騎士たちが、こちらに視線を向けてきているのが目の端に映った。
「えと、なんでしょう」
「アルトゥーロ殿下がお呼びです」
心の底から、口の中になにもなくてよかった、と思った。もしなにか残っていたら、驚きのあまりに噴き出していたかもしれない。
「王太子殿下が、俺……私を、ですか?」
「はい。では私室にて、王太子殿下がお待ちになられておりますので、すぐにお越しください」
こちらの都合はまったく訊くことなく、そう話を打ち切ってきた。
ぺこりと一礼して侍女が食堂から去っていくと、食堂内にいた騎士たちが、いっせいに声を上げながら、わらわらと寄ってきた。
「お前、なにをやらかした?」
「あれだろ、可愛い妹を守ってくれたから、って褒賞がいただけるんじゃないか」
「なに貰えるんだろうなあ」
「領地とか!」
「爵位とか!」
なぜか良いほうの想像しかされず、そんな感じで盛り上がっている。
「いや、そんなまさか。な、なんでしょう?」
呼び出し、と言われると、嫌な予感しかしない。なにせ団長に呼び出されては説教されている身だ。
「俺、なにかしたっけ……」
いや、しているはずがない。だってあの事件から、ほとんど寝たきりで過ごしていたのだ。なんの任務も受けていない。なにか説教されるようなことを引き起こすことは、不可能だと思っていい。
それに、王太子殿下が直接俺を呼び出して説教をする、だなんて考えられない。なにか気に入らないことがあったとしても、ヘルマン団長とか、教育係のドロテアを介して伝えてくるはずだ。
ひょっとすると、イサベリータ殿下の専属騎士を降りろ、とか? いやそれでも、直接命じることはないだろう。
「あっ、もしかして」
一人の騎士が、ひとつ手を叩いた。
「我が妹を救ってくれた君しか任せられる者はいない、妹を生涯守ってくれたまえ、とか?」
「おお!」
それから騎士たちは顔を見合わせ、しばらく口元を引き結んだが、すぐに、それだけは絶対にない、という確信を持った爆笑が起きた。
「そんなことになったら、すっごいけどな!」
「もう伝説だよ、伝説!」
「変なこと言うの、やめてくださいよ……こわ」
冗談でも冷や汗が出る。これって不敬というやつではないのか。
笑いが収まってから、騎士の一人が口を開いた。
「まあ、真面目に考えると、あれじゃないか? 事件のことを詳しく訊きたいって」
「ああ」
なるほど。それならわかる。
あの男の刑を執行するにあたって、王太子殿下も関っていてもおかしくない。なにせあいつは、王族に刃を向けたのだ。
「すぐに、ってことなので、行ってきます」
「粗相するなよ」
「気を付けます」
俺は食べていた食事を下げると、身だしなみを確認しながら、急ぎ足でアルトゥーロ殿下の私室に向かった。
◇
「エドアルド・スマイス、参上いたしました」
ピシリと背筋を伸ばして、ソファにゆったりと座っているアルトゥーロ殿下の前でそう述べると、彼は眉根を寄せて、はあーっと大きなため息をつく。
心の臓をきゅっと握られたような気がした。
冷や汗を搔きながら、いったいどうして呼び出されたんだろう、と考える。さきほど騎士が推測した、事件のことを訊きたい、ということじゃないかと思っていたのだが、こうして王太子殿下を前にすると、なんとなく違う気がしてきた。
この冷え切ったような雰囲気から考えると、まさか、どうしても自分から直接、物を申したい、と説教が始まるとか?
怖い。
「……まあ、座ってもらえるかい?」
「いえ、私は」
「座ってもらえるかい?」
辞退しようとしたが、有無を言わさぬ声で続けられる。
これはいわゆる、命令というものだと思う。
「で、では失礼します」
指し示された来客用のテーブルセットのソファに、浅く腰掛ける。
それが合図だったかのように、侍女が俺の前に紅茶の入ったカップを置いた。
それを見て思う。
理由はさっぱりわからないが……消されたらどうしよう。
「毒など入っていないから、どうぞ口を付けてくれ」
俺の表情を読んだのか、そう声を掛けられて、ビクリと肩が跳ねた。
「いっ、いえ、そんな、滅相もない」
「そうできれば簡単なんだけどね」
ため息交じりでそう続けられる。
この人、物腰柔らかそうで、ものすごいこと言う人だな。
いやいや、というか、その発言はどういう意味だ。俺、本当に、消されるようなことをしたってこと?
俺の頭の中が混乱の極みと言っていい状態になっていく。
王太子殿下はその綺麗な顔をこちらにチラリと向けて、口を開いた。
「君、ずっと以前に会ったことがあるね?」
「あ、はい。イサベリータ殿下と勉強会をしていたときかと思います」
「そうだったね。そのときは、こんなことになるとは……」
そう零して、また大きなため息をついた。
えええ、こんなことって、どんなことっ?
さらに謎が増えてしまった。