30. 王女の命令
どうやら男は、人ごみを抜けると同時に、殿下の元に走り出すつもりだったらしい。だからナイフの刃先を前に向けて握っていた。
俺は、間に合ったのだ。
「ひっ……!」
「きゃああああ!」
「人殺しー!」
喧騒の中に、叫び声が交じる。それはあっという間にあたりに広がっていった。
しかし男はその騒ぎをまるで気にすることなく、殿下のいる方向に視線を移すと、ナイフを引き抜くために柄を握り直した。
俺は咄嗟に、男の手首を両手で握る。そうはさせない。このまま、俺と一緒にいてもらおう。
俺の行動を予測できていなかったのか、男は狼狽えたような声を上げる。
「は……放せ!」
誰が放すかよ、バーカ。
お前は俺の身体からこのナイフを抜いた途端、そのままイサベリータ殿下のところに向かうつもりなんだろう?
そうはいくかよ。お前に殿下の命を左右させるような力は与えたくないんだ。そんな『特別』を、お前なんかに与えてたまるか。
なんなら一緒に死のうか。俺たちは、ある意味、仲間じゃないか。
あの人に囚われて動けない、仲間じゃないか。
「つれない、こと……言うなよ……。このまま一緒に……いよう……」
ふっ、と口から笑いが漏れた。
なんでこんなこと、こんな男に向かって発言しているんだろう。気持ち悪い。
どうせなら……そうだ、どうせなら、あの美しい人に言いたかった。
決して許されはしない、言葉。
「な、なに言ってんだよ、頭おかしいんじゃないのか!」
お前にだけは言われたくないね、とは言い返せなかった。そんな元気は残っていない。
なのに男の口は動き続ける。
「邪魔するなよ、苦しいんだ。もうずっと苦しいんだ。よくわかってるんだよ、手が届かない人だって。でも苦しいんだ。もう何年何年も苦しいんだよ。だからもう殺すしかないんだ。僕もそのあとを追うから、邪魔しないでくれよ」
それは男の心の叫びだった。
よくわかるよ、と言いたくなる。
俺には、お前の気持ちが、痛いほどにわかるんだ。
けれどそれをするのは、お前じゃない。
俺は男の手首を握る手に力を込めようとする。けれど、限界が近いのだ。もう手の力が入らない。いつまでこうして一人でがんばらないといけないんだろう。
どうして誰も来ないんだ。すぐそこまで何人も騎士がやってきているのを感じるのに。そろそろ誰か助けてくれないかな、と思い始めたとき。
「エドアルド!」
ドロテアの悲壮感に溢れた声がする。
すみません。ここまで育ててもらったのに、こんな不始末を起こしてしまいました。
「ダメだ、迂闊に行くな! 抜かれたらエドアルドも危ない!」
ああ、だから誰も来られないのか。これを抜かせたら、出血多量で俺が死ぬのか。抜かずに押し込まれても、それはそれで助からない。だから下手に動けない。
だとしたら、まず先に男を拘束しなければ。動きを止めるんだ。一番近くの俺がやるしかない。
しかし残念ながら、自分の剣を抜くまでの力は残っていない。両手でこいつの手首を握るので精一杯だ。それもいつまでもつか、自分でもわからない。
近くに来ている騎士たちでなんとか拘束できないか。
しかしこの状態で、騎士たちが近寄ってくるのを見たら、男はそれこそ渾身の力でナイフを引き抜いてしまいかねない。
射手はいる。けれどこんな人ごみで矢を使えるわけがない。
では剣は? 背後から近付けば。
視線をちらりと横に向ける。そこに幼い子どもが震えて座り込んでいた。一人だけではない。そこかしこで、誰もが恐怖に表情を凍り付かせている。
こんな中で剣で男を殺したりしたら、どんな混乱に陥るのか予測できない。その中で新たな負傷者が出る可能性もあるし、誰かの一生ものの心の傷を作りかねない。
結局のところ、有効な手立てを皆が探っている状況なのだ。
ヘルマン団長、すみません。
『危険に晒す前に止めろというのは忘れるな』
もっと早く男に気付いていたら、こんなことにはなっていませんでした。団長の言う通りでした。不出来な生徒で申し訳ありません。
俺は震えている子どもに視線を移す。
ああ、ごめんな。俺に力がなかったばかりに、こんな光景を見せてしまった。
もう、いいか。
そう思った。
醜い心を持つ俺が、奇跡のような幸運に恵まれて、イサベリータ殿下の近くにこんなに長くいることができた。
それだけで、俺の人生は素晴らしかったと言えるだろう。
だから、もう、いい。
この手の力を緩めたら俺という枷がなくなって、騎士たちがいっせいに男の動きを止められるだろう。
イサベリータ殿下をお守りして死ねるなら、本望というものだ。
そう覚悟を決めて、手の力を緩めようとしたときだ。
「控えなさい」
底冷えするような、声がした。
決して大きな声ではないのに、それは、あたりの空気を支配する。
あれだけの混乱が、その一声で治まってしまっている。
そんなことが可能なのか。やっぱり王女というのはすごいものだな、なんて、こんな状態なのに感心してしまった。
「痴れ者が。その薄汚い手を放しなさい」
「ひ、姫さま、僕は……」
目の前の男が、おろおろと動揺し始める。
しかし静かな声がそれに答えた。
「聞こえないの? このわたくしが、放せと言っているの」
「姫さま……」
「早くなさい」
男のナイフの柄を握る手の力が弱まる。
さすが、イサベリータ殿下だ。
もうなんの力も残っていないのに、口の端だけは上がった。
俺の好きになった人は、こんなにも気高く、美しく、そして強い。
男の手から逃れた俺は、同時に支柱を失い、その場に倒れ込む。
その途端。
「確保ー!」
「拘束しろ!」
バタバタとした足音が周辺に満ちる。
ああ、よかった。これで、イサベリータ殿下に危険が及ぶことはない。
俺の心は、静かな湖のように澄み渡り、そして満ち足りていた。
神さまが落とした種が作ったという、クラナ湖のように。
◇
「エド! エド!」
声が聞こえる。肩を掴まれてガクガクと揺さぶられている。
痛い。息ができない。身体が熱い。気持ち悪い。それなのに、妙に眠い。そっとしておいて欲しい。
しかし揺さぶる手は止まらない。いやちょっと本当にやめて。
「目を開けなさい! エド!」
イサベリータ殿下の声だ。
でも、そんなことを言われても。
「命令よ、目を開けるの!」
命令、という言葉が耳に入ると、反射的に身体が動いた。
とはいえ、それは指先がピクリと動いた程度のものだったと思う。
「エド、お前、なぜわたくしの命令を聞かなかったの!」
命令……って、なんだ? なにか命じられたかな、とぼんやりと思う。
「わたくしを守って怪我するなと言ったでしょう!」
ああ、あれか。
『エドアルド、お前、わたくしを守って怪我などしないように』
子どもの頃に、そう命じられたのだった。あれは、殿下の誕生会のときだった。
よく思い出したな、と自分を褒めたくなる。
そして、よく覚えていたな、と嬉しくなる。
パタリ、と頰になにか水滴が落ちたのを感じた。それに応えるように、うっすらと目を開ける。
間近に、深い海の色。輝きが浮かんでは、パタパタと頰に落ちてくる。
「泣かないで……ください……」
それだけを絞り出すと、また目を閉じた。眠くて仕方ない。
「エドが起きれば泣かないわ!」
そのあと、わんわんと子どものような泣き声が響いた。
そうか、それなら起きないと。眠っている場合じゃない。
そうは思うが、どうしても身体が動かず、意識は混濁しながら暗い場所へと落ちていった。