26. 第一王女の婚約
第一王女、フロレンシア殿下の婚約が成立した。
隣国、ハンネスタの王太子殿下と結婚するのだそうだ。
俺にとっては寝耳に水の話だが、どうやらずいぶん前から調整は行っていたらしい。そして晴れて、公表することになったのだ。
ずっと緊張状態にあったハンネスタ王国ではあったが、小競り合いが続くだけで両国が疲弊するばかりの状況から抜け出そうと、同盟を結ぶことになったそうだ。
それには、二国ともに接しているエストーリナ王国の躍進が目に付くようになった、ということが関係していると聞いた。
要は、新たな脅威に対抗するべく二国が手を結ぼう、という話なのだ。
そしてわかりやすく、両王家が婚姻関係を結ぶ。エストーリナ王国への牽制だ。
本当にめでたい話なのかはわからないが、表向き、誰もが喜んでいるし、国中が浮き立っているように見える。
そんな中イサベリータ殿下は、フロレンシア殿下から二人きりのお茶会に呼ばれた。
二人きりとはいえ、当然、騎士が何人か付いている。
こちらからは、俺とドロテア。
あちらも男女一人ずつ、という小規模なお茶会だった。
そして第一王女の男性騎士は、以前、食堂で話しかけてきた、あの騎士だった。
口元を引き結び、背筋を伸ばしてフロレンシア殿下を見守っている。その表情からは、なにも読み取れない。
それは、騎士が模範とするべき姿だった。
着席したイサベリータ殿下は、頭を下げて祝辞を述べる。
「フロレンシアお姉さま、ご婚約、おめでとうございます」
「ありがとう」
そう礼を返すと、紅茶の入ったカップを口に付け、ソーサーの上に戻したあと、第一王女は小さく笑った。
「知っていて? 我がクルーメル王家は、最初はイサベリータを売りつけようとしていたのよ」
そんな風に、明け透けな物言いをしてみせる。
確か、あの幼い頃のお披露目舞踏会には、ハンネスタの関係者も来ていたという話だった。
あんなに前から、二国の王家の結婚話が出てきていたのだ。
「聞き及んでは……おります」
イサベリータ殿下は、小さく答えた。
あのとき殿下が、あの舞踏会が品評会であると理解していたように感じたことを、思い出す。
それが変更になったのはなぜか。
「嫁ぐのがわたくしになったのはね、イサベリータはあちらの王太子殿下とは年が離れすぎていて、世継ぎを望むには難しいと判断されたの。それだけではなく最近は、特に城外での活動が増えたでしょう。民草からの人気が高すぎて、国外に出すわけにはいかなくなったのよ」
それは良かった、とまた胸の内で暗い感情が顔を出してきた。
本当に、どうかしている。嫌悪感は湧いてくるのに、この鬱屈した気持ちを消し去ることができない。
「それに」
と、フロレンシア殿下は付け加える。
「あなたはまだ、頼りないわ。二国を繋ぐ橋として立ち回れるかと問われると、不安しかない」
それを聞いて、イサベリータ殿下は口元をきゅっと引き結んでから、顔を上げる。
「わたくしでは、クルーメル王家の期待に沿うことはできないとの判断ですね」
「ありていに言えば、そうね」
口の端を上げ、フロレンシア殿下が答える。
「仕方ないわ。こればかりは経験がものを言う。十一歳まで閉じ込められていたイサベリータにそれを求めるのは酷というものよ。社交で揉まれた経験がないのですもの」
そう話すと、肩を竦める。
「お父さまも、お兄さまも、他の王族も、あなたの美貌にばかり目を向けるからこうなるのだわ。これから王女として生きていけるのか、わたくしですら心配になる」
物憂げに語る第一王女に、イサベリータ殿下は問い掛けた。
「だから、お姉さまはわたくしに、厳しく接してくださったのでしょう?」
「まさか」
間髪を入れずに否定の言葉を発して、フロレンシア殿下はまた紅茶を口につける。
「単純に、見ているとイライラして仕方なかったのよ」
「そう、なんですか」
「ええ。黙って俯いていれば、なにもかも解決するって思っているのかしらって。自分ではなにもせず、被害者のような顔をしてばかり。外見が美しいから、周りも庇ってくれるものね」
「……手厳しいですね」
「そう? こんなもの、可愛いものだと思うけれど」
カップをソーサーに戻すと、フロレンシア殿下は顔を上げ、まっすぐにイサベリータ殿下を見据える。
「でももう、わたくしになにを言われても俯かないのね」
「それではいけない、と思うようになりましたの」
「あらそう、なんの影響かしら」
「それは秘密です」
口元に立てた人差し指を当て、イサベリータ殿下はおどけたように両の口の端を上げた。
それを聞いて、フロレンシア殿下は楽しそうにコロコロと笑う。
「強くなっていたのね、イサベリータ」
「お姉さまにお褒めいただけるなんて、光栄ですわ」
「そうね、光栄に思うといいわ」
そう返すと、彼女は真剣な顔つきをして背筋を伸ばした。
「でもその程度では、王女として生き残ることはできなくてよ」
「はい」
「誰にも負けてはいけないわ。わたくしたちの背中には、国があるのよ」
「はい」
力強く頷くイサベリータ殿下に、フロレンシア殿下は続ける。
「あなたが王女として認められたのは、政略の駒として使えると思われたこともあるの。最初は、こんな俯いてばかりの美しいだけの王女は駒になんてなれないわ、と思ったものだけれど」
そこまで語って、そっと机上に手を置いて立ち上がる。それが、どうやらお開きの合図らしい。
「駒以上の働きを見せてくれることを期待しているわ」
そして第一王女は歩き出す。
「わたくしは、駒として最大限の働きをしてみせてよ」
こちら側に歩いてきたフロレンシア殿下に、慌てて頭を深く下げて見送っていると、目の前に靴が止まったのが見えた。騎士の足だ。
顔を上げると、あの第一王女の男性騎士が、こちらを見つめていた。
そして口元に小さく悲し気に笑みを浮かべると、なにも口にすることなく立ち去っていく。
彼はフロレンシア殿下の背中に小走りで追いつくと、付き従って静かに歩みを進めていた。
なにが言いたかったのか、なんとなくはわかった。だが仮に問うても、彼は決して答えはしないだろう。
俺は思う。
なんと高潔なのだろう。
そして自分は、なんと醜いのだろう。
俺はもう、イサベリータ殿下に侍る資格など、持ち合わせてはいないのかもしれない。
◇
その後、その騎士がハンネスタへの同行を願い出たが、フロレンシア殿下がクルーメル側からの騎士の追従を良しとしなかったらしく、ハンネスタ王城での別れとなったとのことだった。
王女自身の、ハンネスタで生きていく、という意思表示のように感じられ、あちら側もそれを好意的に受け取ったという話らしい。
彼は第一王女を見送ったあとも、騎士団にいる。けれど王族の護衛をすることはほとんどなく、城下の見回りなどをして忙しくしているようだ。
その姿は、まるでなにかを忘れようとしているかのように、見えた。