第26話 アリステラ
今回は女神アリステラと騎士レイスのお話です。
二人の切ない恋物語をどうぞ。
またバルナ編の最終話イブでございます。
最終話は明日に公開いたしますのでぜひそちらまでどうぞ。
ルミナは知っていた。
目の前にいるこの老婆が、アリステラの師だったことを。
ヨヨは静かに、懐かしい昔語りを始めた。
「アリステラに初めて会ったのは、あの子がまだ十歳にもならない頃だったよ」
夕暮れの光が差し込む部屋の中で、ヨヨは懐かしむように目を細めて語り始めた。
「私は王家に招かれた魔導の教師として、あの子の指南役を任された。……けどね、教えるのは容易じゃなかったよ」
ルミナは黙って、ヨヨの話に耳を傾けていた。
——火の玉が暴発し、吹き飛んだ木製の机。そこに立っていた銀髪の少女は、唇を噛みしめていた。
『もうやだ……こんなの、なんで私が……っ』
『アリステラ様、お怪我は!?』
『うるさいっ!放っておいて!女神の家に生まれたせいで、全部こんなことに……!』
——アリステラは、いつも泣いていた。
幼くして王家の責任を背負い、母を亡くし、女神の血を継いだことを呪うように。
「それでも……あの子は、日々、少しずつ変わっていった。大人たちの言葉でも、私の導きでもない。たった一人の騎士との出会いが、あの子の心を……」
そこまで言って、ヨヨはそっと目を伏せた。
——あの日、王都から離れた森の廃寺にアリステラは囚われていた。
狙われたのは“女神の系譜”を受けたアリステラの力。抵抗もせず、ただ壁にもたれ、虚ろな目をしていた。
『こんな運命なら、もうどうでもいい……好きにして……』
『アリステラ様!』
——静かに入ってきた青年がいた。剣を背に、泥にまみれた白い外套。アリステラは目だけで彼を見た。
『誰……?』
『私はアリヴェル王国騎士団、レイス。お迎えにあがりました』
『……助けに来たっていうの?』
『もちろん』
『なら帰って。私は助けを求めてなんていない。こんな血筋は、もううんざり』
——アリステラは俯いたまま、目を伏せる。
『女神の力なんて持たなければ……誰も、死ななくて済んだのに』
——そんなアリステラの言葉に、レイスはゆっくりと歩み寄り、膝をついて顔を上げた。
『……あなたが女神の継承者だから助けに来たんじゃない』
『……じゃあ、どうして』
『あなたが、"アリステラ"だからです。私も……皆もあなたを大切に思っています……だから、参りましょう』
——その一言に、アリステラの瞳が大きく揺れた。
ヨヨの声が静かに続いた。
「それからあの子は変わった。女神である前に、自分という人間として、誰かと生きたいと思うようになった。……けどね、それでも……」
——満月の夜、アリステラはそっとヨヨの袖を掴んで言った。
『ねえ、ヨヨ。私……彼を好きになんて、ならなければよかった』
『どうしてだい?』
『だって……あの人は騎士で、私は……“女神の系譜”を受けた者。私たちは、きっと一緒にはなれない……』
——その声は、初めてヨヨが出会った時と同じ、少女のままの泣き声だった。
「……あれほど心の奥から愛を知ったのに、結ばれることはなかった。だからこそ、あの子は誇り高く、強くなったんだろうね。誰にも見せられない涙を、飲み込んで」
静かだったルミナの肩が、かすかに震えていた。
胸の奥に、アリステラと自分が重なっていく。
「ヨヨ婆様……その後、アリステラ様は……どうなったの?」
ルミナがそう問うと、ヨヨは小さく頷き、窓の外に目をやった。
「そうだねぇ……あれは、月のきれいな夜だったよ」
——アリステラは、そっとマントのフードを被り、宮殿の裏門を抜け出していた。
人目を忍び、冷たい石畳を踏みしめながら向かった先は、騎士団の兵舎の一角。灯りの落ちた建物の裏手に、彼はいた。
『……レイス』
声に気づき、剣の手入れをしていた青年が顔を上げる。
それがアリステラだとわかると、彼は驚きと共に立ち上がった。
『アリステラ様……!こんな時間に、ここは危険です』
『“様”なんて、つけないで……。今夜はただの、私……私個人として来たの』
レイスは眉をひそめた。だがその強い瞳の奥には、どこか揺れる光があった。
アリステラは、震える声で言葉を続ける。
『お願い、レイス……もう耐えられないの。私、このままじゃ壊れてしまう……。だったら、いっそ……この国なんて捨てて、あなたと一緒に、どこか遠くへ行きたい……!』
彼女の手が、レイスの胸元を掴む。その目は必死で、涙を浮かべていた。
『……どうしても、だめ?』
しばしの沈黙。
やがて、レイスはゆっくりとアリステラの手を取って、ほどく。
『アリステラ……あなたの願いは、痛いほど伝わってきます。でも、できない。私は、あなたの“騎士”だから』
『……でも、私には、あなたさえいれば、それでいい……!』
アリステラの頬に、一筋の涙が流れる。
それを見て、レイスはまっすぐに言った。
『私は、あなたと結ばれることはできない。けれど……あなたのそばにいたい。だから、アリヴェルで一番の騎士になります。どんな苦難も、敵も、あなたの前に届く前に、俺が薙ぎ払ってみせる』
その言葉に、アリステラは目を見開いた。
『……それが、私たちの“在り方”だと?』
レイスは頷く。
『あなたの使命を、否定したくない。あなたが女神の系譜を背負い、この国を導く存在であるなら……私は、剣として、あなたを一生守り続けます』
アリステラはその場に立ち尽くしたまま、口元を押さえて嗚咽を漏らした。
『……バカ……バカよ、あなた……!』
けれどその頬を伝う涙は、絶望ではなかった。
「その夜以降、あの子は強くなったよ。涙を見せず、騎士たちを導き、民を守る“女神”になった」
ヨヨの語りに、ルミナは深く黙していた。
その胸には、痛いほどの共鳴があった。
「……私」
ぽつりと、ルミナが声を漏らす。
「私、今まで……自分のために、マルクに近づいてただけだったのかも。……好きになって、そばにいたくて……自分の気持ちばっかりで……」
涙が、ゆっくりと頬を伝う。
「でも……マルクの一番の願いは、アリヴェルの復興だった。私は、あの人の隣にいたいってだけで、何も……」
拳をぎゅっと握る。
「……代わりに、叶えたい。マルクの願いを、私が——でも、私なんかに……」
その問いに、ヨヨは即座に答えた。
「できるさ。だってあんたは、もう“誰かのために泣ける人間”になってる」
ヨヨはにっこりと微笑む。
「それにあんたが救えた命も、ちゃんとあるんだよ」
——その言葉と同時に、扉が勢いよく開いた。
「ルミナ!!」
駆け込んできたのは、ルキだった。
息を切らし、目を潤ませたまま、彼はルミナの元へ駆け寄る。
「ルキ……!」
思わずその体を抱きしめた。
「よかった……生きてて、本当に……!」
ルキは、そんなルミナに「泣くなよ」と照れくさそうに言ったが、その目にも涙が溢れていた。
……その姿に、ヨヨは静かに目を細める。
——命は失われる。けれど、そこに残る絆は、確かに誰かを支えていくのだ。