第24話 痛み
マルクと別れてしまったルミナ。
彼女はこの辛い現実を、どう受け入れるのか……
バルナ王国による皇帝の暗殺は、あえなく失敗に終わった。
敗因は、皇帝はじめから同盟など結ぶ気はなく、バルナを滅ぼすべく兵を動かしていた為だった。バルナ王国は、"千里眼"の異名を持つ帝国四天王の一人、シュダの見抜きにより暗殺計画の全てを読まれてしまった。結果、王国の中枢である王の間が血で染まり、国王は非業の死を遂げた。そしてマルクは、同じく帝国四天王である"剛剣"ガンツに捕らえられ、帝国の手へと渡った。
……マルクを捕えた皇帝の目的は、果たしてなんなのだろうか。
——それから数日が経った。
薄暗い天井が、徐々に意識を取り戻しつつあったルミナの視界に映る。
寝台に横たわる彼女の周囲は静かで、微かに薬草の匂いがした。
「……ん」
身じろぎしながらゆっくりと身体を起こすと、扉のそばにいた一人の従者が頭を下げた。
「お目覚めですか。こちら、お飲み物を」
丁寧に水の入った銀の器を差し出し、従者は礼儀正しく退出した。
ルミナはぼんやりとその背を目で追いながら、混濁していた意識の中に、少しずつ過去の記憶が蘇ってくるのを感じていた。燃え上がる城、絶望の中の叫び声、結界の中のマルクの姿……。
「……マルク」
かすかに呟いたその名に、返答するかのように扉がノックもなく静かに開いた。
「起きたか、ルミナ」
入ってきたのは、見覚えのある長身の男──アバンだった。
ルミナはアバンの姿を見て、思わずぽつりと名を口にする。
「……アバン」
「ああ、俺だ。安心しろ、ここはギルバディアの王都。お前は、助かったんだ」
そう言って、アバンは彼女の傍らの椅子に腰掛け、穏やかな声で話しかける。
だがルミナはその言葉を聞いても、すぐには心を安らげることができなかった。
「……そう、だった……っけ……」
呟くように目を伏せたその瞬間、激しい記憶が胸を締めつける。
王の間の地獄、マルクの危機、ガンツの剣、シュダの冷笑──そして、マルクが最後に言い残した言葉。
「マルクは……っ」
跳ね起きたルミナが、アバンの腕を掴んで声を荒げる。
「マルクは、どこ!? 無事なの!? ……お願い、教えて……!」
アバンはその必死な問いに、静かに息を吐いた。
その顔には、どう答えるかを迷う色が一瞬浮かんだが、やがて静かに口を開いた。
「……マルクは、帝国に……捕らえられた」
その言葉に、ルミナの手から力が抜ける。
小さな身体が震え、再び布団へと崩れ落ちた。
「うそ……」
それ以上の言葉は、声にならず、アバンの言葉を聞いたあと、ルミナは何も返さなかった。
ただ布団に膝を抱え、沈黙したまま下を向いていた。
部屋に満ちる重い空気。窓から差し込む光は暖かく、なのにその光のぬくもりさえも、今の彼女には届かない。
数分の沈黙の後、ルミナはゆっくりと立ち上がった。
ローブを手に取り、慣れた手つきで羽織ると、壁に立てかけてあった杖を掴む。
「待て」
アバンが腕を伸ばし、ルミナの手首を掴んだ。
「……どこへ行く」
「決まってる。マルクを助けに行くの」
ルミナはかすれた声でそう答えた。
その瞳はうるみ、しかし確かな光を宿していた。
「落ち着け。……まず今は、体を休める事だけを考えるんだ」
だがその言葉の直後、叫ぶように声を荒げた。
「このままじゃ!……マルクが……殺されるわ!!」
アバンの声はルミナには届かず、無視するようにして部屋を出ようとするルミナ。
——その瞬間、アバンは怒りに任せるようにルミナを壁に押し付けた。
瞳を見開いたまま、彼は低く唸るように、しかしはっきりと言葉を叩きつける。
「馬鹿野郎……! お前が今行っても、犬死にするだけだ! 現実を見ろ……!」
「……!」
「お前は……弱い。まだ未熟で、何もできない。そんな人間が、帝国に踏み込んで、何ができるって言うんだ……!」
その言葉に、ルミナは一瞬、怯えたような表情を浮かべた。
押しつけられた壁の冷たさも、アバンの怒声も、まるで鼓膜を震わせるだけの音のように感じられた。
「…………わかってる」
ぽつりと、震える声がこぼれた。
ルミナは視線を落とし、悔しさに唇を噛み締めながら、ぽつり、ぽつりと続けた。
「嘘じゃないってことも……何もできないってことも……私が弱いってことも……全部……」
目尻から流れた涙が、頬を伝ってローブの襟元に染み込む。
自分が足手まといであることなど、ずっと心のどこかでわかっていた。
「それでも、……私は……それでも」
それでも、マルクと一緒にいることで、何かの役に立てると信じたかった。けれど——現実は残酷だった。
ルミナはアバンの手を振りほどくと、杖を力任せに床に叩きつけ、部屋を飛び出した。
「ルミナ!」
呼びかける声も振り返らず、彼女はただ廊下を走る。
行く先など、どこでもよかった。ただ、この痛みに耐え切れず、心の叫びをどこかにぶつけたかった。
何度も、何度も、頭の中でマルクの名を呼んだ。
走っても走っても、その姿には届かない。それどころか、鼓動が激しくなり、息が荒くなる。
やがて、庭に出たところで足がもつれた。
石畳に膝を打ちつけ、ルミナは転んだ。
「っ……!」
すりむいた膝から血が滲み、痛みが脳へと走る。
目を閉じても、現実は変わらない。夢でも幻でもないことが、こうして確かに刻まれる。
結界の向こうにいたマルク。触れられなかった手。
守りたかった命が、もう目の前にはいない。
ルミナは震える腕で這いつくばるように起き上がろうとしたが、そのまま力尽き、崩れ落ちた。
「マルク……」
かすれた声が、風に乗って消えていく。
「マルクぅ……!!」
心の底から、魂を裂くような叫びが、空に響き渡った。
それでも返ってくる声はなかった。彼女の手は、誰の温もりもつかめなかった。