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あの日助けた猫が恩返しに来たそうです

作者: 百瀬

『ほら、こわくないからこっちにおいで』


それは、満月の月明かりに照らされた幼いころの記憶。

そのころはまだお庭に大きな桜の木があって、わたしは木登りをするのが大の得意だった。

手を伸ばした枝の先。どこから迷い込んでしまったのか、栗色の猫が、怯えるようにこっちを見ている。

だいじょうぶ、こわくないよ。

そう何度も言い聞かせて、必死に手を伸ばして。


『ふふっ、つかまえた! って、わっ……!』


そのふわふわの栗色の毛並みを抱きしめた瞬間で、わたしの記憶は途絶えてしまっている。



  ◇



「うう~ん、なんだか久しぶりに小さいころの夢を見た気がするわ――」

「な、なんですってーー!!!!」


十六歳の誕生日を迎えたその日、わが春原子爵家の朝は、お母様の叫び声で幕を開けた。

身なりを整えるのもそこそこに食堂へ向かえば、わたし以外の家族はすでにみんな揃っていた。けれど食卓には誰一人ついておらず、お父様を取り囲むようにして立っている。


「朝から一体なにがあったのですか!?」


ただごとではない気配を察知してそう問えば、お父様を取り囲んでいたみんなの目が一斉にわたしに集まった。


「あ、ああ……わがいとしの娘、聖乃(きよの)よ……無力な父をどうか許しておくれ……」


よろよろと輪の中心から抜け出すお父様。いつも真ん丸のお顔が、今日はなんだか少しだけこけて見える。

その手に握られているのは白い封筒。真っ赤な封蝋印がちらりと見えたから、きっとうちなんかよりもずっと格式高いお家からの手紙であることは間違いない。


「どうしたのです、お父様……それにみんなも、そんな気まずそうな目でわたしを見て……」


いまにも泣き出してしまいそうなお父様を見るに見かねて、わたしはお母様に助けを求めた。

子爵家の嫡男でありながら気の弱いお父様とは違い、商人気質の男爵家からお嫁に来たサバサバ系淑女のお母様は、こんなときに最も頼りになるのだ。

わたしと視線が合い、お母様は仕方ないとでもいうように大袈裟にため息をついた。


「いいですか、聖乃。落ち着いて聞いてちょうだい」

「はい、お母様」

「あなたに、縁談が来ています」

「縁談……わざわざわたしに、いえ、この春原家にですか?」


そう訊き返したわたしに、お母様は念を押すように大きく頷いた。

そりゃあ、わたしだって子爵家の年頃の令嬢ですから、縁談の一つや二つ来てもおかしくはないと皆様はお思いでしょう。

けれどわたしの生家であるこの春原子爵家の領地は、祖父から父に代替わりをしてから年々すこーしずつの不作が続き、いまや子爵家とは名ばかりの貧乏一家になってしまったのです。


「まさか! 我が家と姻戚関係を結んだところで、得られるメリットなんてひとつもないのに!」

「うう、事実ではあるがそんなにはっきり言わないでおくれ」


幼いころにたくさんいたメイドや料理人にはお給金が支払えなくなり泣く泣く暇を出した(それでも少しでも退職金を持たせてあげようとお父様はなけなしの家財もだいぶ売り払った)。

わたしは女学校にも通わずお母様と内職に精を出す日々。

さらには、最近ではついに管理しきれなくなった別邸の土地まで手放して、なんとか一族郎党、路頭に迷わず生きているというのに。


「お相手は……そう、こんな信じられない縁談を申し込まれてきたお相手は、一体どなたなのですか!?」

「あっ、ちょっと、聖乃……!」


もうこうなったら、自分の目で確かめるしかない。わたしはなりふりかまわず、貴族令嬢らしからぬ俊敏な動きで、お父様の手に握られている手紙を奪い取った。


「…………うそ、でしょ」


封筒の中には、正式な縁談申込書が入っていた。

宛名はわたし、春原聖乃。

そして申込人の欄に書かれていた名前は。


宍戸(ししど)彰斗(あきと)、さま……?」


そのお名前を、この帝都で知らないものはいないだろう。

由緒正しい宍戸公爵家のご嫡男でありながら、帝国軍の司令補佐官まで実力で上り詰めたお方。


「そんな……社交デビューしていないわたしでさえ知っているわ。軍本部のお方でありながら、文官にも匹敵するほどの学もあり、さらには眉目秀麗でいらっしゃるって」


軍部のお仕事を理由に社交や夜会の場に姿を現すのはごく稀だというけれど、そのお姿から令嬢にも大層人気があると聞いたこともある。

まさに家柄、業績、容姿、すべてが完璧で、縁談なんて引く手あまたでしょうに。


「あの、お父様……この縁談、なにかの間違いではありませんか?」

「う、うん? それはどうだろう、こうしてはっきりと聖乃の名前が書かれているし」

「けれどうちは子爵家とは名ばかりの貧乏貴族ですし、たとえ裕福であっても、公爵家とは家格が釣り合いません」

「ええっと……どこかで聖乃を見初められたとか!」

「……社交界デビューもしていない、女学校さえ通っていない、毎日内職漬けのわたしが?」

「ウッッッ……」


お母様譲りのキツい視線をわざと向ければ、お父様は頭を抱えてしまった。


「とにかく、この縁談は間違いではないのか、そうでなかったとしても公爵様は我が家の内情を知らないのではないか、早急にお手紙を出して確認すべきですわ」

「そ、それがだな……」


もっとも合理的かつ常識的に思われたわたしの意見は、けれど早々に出鼻を挫かれる。


「じつはこの縁談が来たの、二週間も前のことでな……」

「は?」

「同封されてた結納金、屋根の修理と農道の舗装に使っちゃって……」

「は??」

「おまけに、公爵様に指定されている顔合わせの日程が今日なのだ……」

「はぁ???」


たしかに、つい先日まで雨漏りのひどかった西側の廊下が、おとといの雨では一滴も濡れなかったのが不思議だった。

たしかに、領民のみなさまが少しでも働きやすいように農道を舗装してあげたいね、って話はしてた。

いやいや、でもさ。手紙が来た時点でわたしに教えてくれても――というかこれはもう家族会議レベルだし。

おまけに今日いきなり公爵家へ行けと言われても、よそ行きの服なんて女性はすぐに用意できないし。

そりゃあ、お母様も朝っぱらから叫ぶはずだわ。


「お父様……?」

「は、はいぃ……」

「報・連・相は、大人の基本でしょうがーー!!!!」


ついには我慢できず、春原子爵家に本日二度目の怒声が響いたことは言うまでもない。



  ◇



『宍戸公爵家の彰斗さまなァ。軍人として武勲を積んで国王陛下にも認められてはいるけンど、戦場では女子供にも容赦ないって話で、陰では『冷徹無慈悲の鉄仮面』なんて呼ばれてんだ。おまけにあの宍戸家、公にはしてねえがなんかの獣人の家系らしくてな、彰斗さまはその先祖返りがあるうえに、強すぎるその力をいまだにうまく制御できないって噂だぜ。……って、お嬢ちゃんもあの美形に惚れた口かァ? どーせ相手になんかされねえんだから、悪いことは言わねえからやめときな』


なけなしの財産をはたいて雇った辻馬車のご老人は、貴族間ではおよそ噂にもなっていないいろんなことを、ご丁寧にも教えてくれた。


「冷徹無慈悲の鉄仮面に、獣人の先祖返り……?」


いままで耳にしたこともない新情報、おまけに目の前に現れた我が家の数倍はあるだろう公爵家の敷地に、わたしの頭はショート寸前だった。


「春原聖乃さまですね。ようこそお越しくださいました。我が主人がお待ちですので、どうぞこちらへ」


門を叩くよりも早く現れた使用人らしき男性は、柔和な笑みを携えていた。

けれど、彼に案内されて辿り着いた応接室にいたのは。


「……お待ちしておりました、聖乃嬢。このような姿でのご挨拶になり申し訳ない」

「へっ、あ、あの……?」

「俺が宍戸家現当主、宍戸彰斗です」


すらっと高い背に似合う仕立てのいいスーツ。さすがは軍人さんと言えばいいのか、細身ではあるけれどスーツの下に隠れている筋肉質な身体。

黄金色に輝く髪に、知性を感じさせる銀縁の眼鏡。耳触りのいい少し低めのお声まで。

彼を構成するそのひとつひとつの要素が、帝都内外の貴族のご令嬢がたを惹きつけてやまないのも納得だ。

けれど。

一切動かない表情筋に、じっと値踏みするような真っすぐな目。

わたしは震える唇をなんとか押さえて、深々と礼をした。


「は、春原家が長女、聖乃にございます。あの、こちらこそ、このような場に小紋での訪問となりましたこと、まことに申し訳ございません」

「……どうやらあなたにも、そしてもちろん俺にも。お互いに話さなければならない事情がありそうですね」


自己紹介を終えて、わたしたちはお互いに見つめ合った。

結局お母様の一張羅のワンピースではわたしには大きく、かといって振袖なんてもう着る機会もないだろうからと売り払ってしまったわたしが唯一用意できたのは、この小紋の着物だけ。

このような場にはまったく格がそぐわない、いわゆるちょっとしたお出かけ用の普段着だ。


「あなたのお家の事情はだいたい調べさせていただいています。本日は俺の都合でお呼び立てしましたので、着物についてはお気になさらず」

「は、はい……」


そうは言われても曲がりなりにも子爵家令嬢。そこらへんの常識はあるだけに、ますます肩身は狭くなる。

対して彰斗さまのお姿は。

さきほども述べた通りの、公爵家たる完璧な装いだ。

……ただ一点を除いては。


「それよりも、俺のこの出で立ちのほうを説明すべきですね。失礼ですが聖乃嬢は、獣人をご覧になったことはありますか?」

「……いいえ。はじめて、拝見しました」


わたしの声にわずかに反応したように、頭の上にピンと立つお耳がピクリと動いた。

黄金色の髪をかき分けるように立ち上がっている栗色の獣耳は、やっぱりどうやら本物らしい。驚きのあまりぱちぱちとまばたきしたわたしに、彰斗さまは獣人について、またご自身のことについて、詳しく説明をしてくださった。


「獣人というのはその昔、我々の先祖である人間が、より強い力を得るために様々な動物と契約をして得た姿です。

普段の容姿こそ人間と見分けはつきませんが、その力を必要とするとき――いまも昔もそれは戦闘時、が主になってしまうのですが――一時的に耳や尾が出たり、さらには身体中が獣の毛で覆われたり、鋭い牙や爪が生えることがわかっています。

そしてご覧の通り、我が宍戸家にも獣人の血が流れています。先祖代々、当主となる男性に受け継がれるものなのですが、俺は生まれつきその血が少々濃いようでして。

戦闘時ではなくこうした日常生活でも、常に耳と尾が出てしまうのです。もちろん社交の場や軍での仕事中には、獣人を見慣れていない人がほとんどなので、意識をして仕舞えるようになるまで訓練はしたのですが。家に帰ればご覧の通り。この有様です」


ひとつ、小さなため息をつくと、彰斗さまはご自分の耳を軽く叩いた。栗色で少し丸みを帯びたお耳は、一瞬だけ折れ曲がったもののすぐにピンと立ち上がる。

まさか、辻馬車のご老人の話がここまで本当だったなんて。話の九割は嘘だと思いながら聞いていたけれど、ここまできたらどこまでが真実なのかわからなくなってきた。

わたしは覚悟を決めて、目の前に座る眉目秀麗な殿方を改めてじっと見つめた。


「宍戸公爵家様、ならびに彰斗さまのご内情は理解いたしました。ですが、それとわたしに縁談をくださった理由とが上手く結びつきません」


きっと外部には漏らしていないだろう情報を、ここまで打ち明けてくださったのだ。わたしも覚悟を決め、残る最大の疑問も解消させてもらおう。

わたしの言葉にまたもやピクリとお耳を動かすと、彰斗さまはわずかに下がった眼鏡を右手の中指でくいっと押し上げた。


「なぜあなたへ求婚をしたのか。その件については、我が家の庭でも歩きながらお話させていただいてもいいでしょうか」

「えっ……は、はい……」


宍戸家の敷地内には広大な日本庭園が存在していた。中心には鯉や亀の泳ぐ池があり、その周囲を細い小道がぐるっと一周している。

……気まずい。何が気まずいって、お話をしてくださるというからついてきたのに、彰斗さまはお庭に出てから一切口を開かない。その割にはおみ足が長くていらっしゃるから、もうすでに池を半周してしまった。

このままではまずい。そう考えたわたしは、小道の少し先にある東屋を指さした。


「彰斗さま、あちらの東屋でしたら、落ち着いてお話しするのにちょうどいいのではないでしょうか!」

「……ええ、そうですね」


わたしたちはふたり並んで、東屋のベンチに腰かけた。

そよ風が通り抜けて、池の水を揺らす。

彰斗さまの細長いしっぽが、タンタンと一定のリズムを刻んでいる。


「……あの~、これはただの興味というか単純な疑問なのですが。彰斗さまは、何の動物の獣人でいらっしゃるんでしょうか」


ベンチに座ってもなかなか本題を切り出さない彰斗さまに代わって、何か世間話でもしようと、ただそう思っただけだった。けれどその質問を口にした瞬間、一定のリズムを刻んでいたしっぽがピタリと止まった。

しまった、これは地雷だったのかも。

そう気づいたわたしは、勢いよく頭を下げた。


「す、すみません! もし嫌なら無理にとは――」

「っ、嫌ではないんです! ただ、大抵の人は俺が獣人だと知ると距離を取られるので、驚いてしまって……」


顔を上げれば、髪の黄金色よりもさらに薄い、飴色の瞳がじっとこちらを見下ろしていた。眼鏡のレンズ越しだというのに、その視線は痛いほど真っすぐだ。


「あなたが興味を持ってくれただけで、こんなにも舞い上がっている自分に驚いているんです」

「あ、きと……さま?」


目の前の彰斗さまは、相変わらずの鉄仮面。それなのに気づけば、いつの間にか長いしっぽがわたしの腰にくるりと巻き付いていた。飴色の瞳は、どこか溶けてしまいそうなほどに熱を持っているように見える。


「できればあなたに当てて欲しい。俺が、何の獣人なのか」

「へっ……!?」


するりと指を絡ませて、あっという間に握られた手は人間の男性のもの。なのにピンと立っているお耳は、犬や猫とも違う肉厚で丸い形。

軍で鍛えたであろう筋肉質なお身体とは裏腹に、わたしに巻きついたしっぽはしゅるりと細く、途中までは短い毛で覆われているのに先端だけはふさふさの毛が生えていて。


「わ、わかりません……とても素敵なお耳としっぽだとは思いますが、わたしはいままでこのような動物を見たことがない、と思います」


年齢の近い、しかもこんなに素敵な男性が間近に迫っている。それだけでわたしはまたもやプチパニックになりながら、一気に言葉を捲し立てた。

その瞬間。目と鼻の先まで迫っていた彰斗さまのお顔がぼんっと、それはまるで一気に茹だったかのように真っ赤に染まり、一瞬だけ目の前が真っ白になって。


「……あなたは、俺を喜ばせる天才か何かですか」

「ふぇ、えええ!? なにこの大きな……動物!? あああ、彰斗さま、どちらにいらっしゃるんですか!!」


およそ一秒の真っ白な視界のあと、目の前にいたのは彰斗さまではなく大きな動物だった。

いままで見たこともないような、大きな獣。栗色の体毛に、なぜか首の周りだけさらにふさふさの毛で覆われている。


「何を言っているんですか、目の前にいますよ」

「そんな、お声は聞こえるのに彰斗さまのお姿はどこにも……もう、いじわるはやめてください! この大きなわんちゃんのようなねこちゃんのような動物、いまにもわたしを食べそうな目で見つめてくるんですけどっ」

「……ほう。ある意味では食べたい、と思っているのは本当ですが。こう見えて噛んだりする趣味はありませんよ」

「ええ? さっきから何を……はっ、もしかしてわたしのことを娶るふりをして、この子の餌にしようとか……そういうことですか!?」


目の前には大きな獣しかいないのに、すぐ近くから聞こえる彰斗さまのお声。見たこともない動物が間近に迫り、わたしは堪えきれずぎゅっと目を閉じた。

ああ、お父様お母様ごめんなさい。貧乏だけれどあの家での生活はとっても楽しいものでした……こんなことなら最後にお父様のこと怒鳴ったりしなければよかったわ。

生まれてから今までのことが、走馬灯のように頭を過る。ぎゅっと閉じた瞼から、自然と涙がこぼれ、頬を伝い――


「……えっ」


頬を伝う涙の感覚が途中で途絶え、代わりにざらりとした生暖かなものが頬を撫でた。

思わず目を開けると、さっきまでの大きな動物はどこへやら。彰斗さまのお姿がそこにあった。


「懐かしいですね。あのときも、泣きじゃくるあなたの涙を、俺はこうして舐めとることしか出来なかった」

「あの、とき……?」


彰斗さまの言葉で、先程まで頭の中を駆け抜けていた走馬灯の一つを思い出す。

わたし、確かにこの感触を知っている。

人間の舌とはまったく違う。ざらざらとした舌にたくさん頬を舐められて。

いたいよ、なんて言いながら、いつの間にか涙は引っ込んでいた。


「もしかして、あの日助けた猫ちゃん、なの?」



それは、幼いころの記憶。

まだ我が家の家計にそこそこの余裕があって、お庭に大きな桜の木が生えていたころ。

大きな満月が空に浮かぶとある夜、みゃあみゃあというか細い鳴き声に目を覚ましたわたしは、桜の木の上で身動きの取れなくなっている猫を見つけたのだ。

得意の木登りで猫の近くまで登り、必死に手を伸ばして。


『だいじょうぶ、こわくないからこっちにおいで』


そう何度も話しかけながら、栗色の毛並みにやっと手が届いて。


『ふふっ、つかまえた! って、わっ……!』


猫ちゃんを抱きしめた瞬間、木の枝が折れ、わたしは地面に真っ逆さまに落ちたのだ。



「……猫、ではなく獅子。西洋の言葉ではライオン、とも言います。この国には生息していない動物ですし、まああのときの俺は、まだ毛も生え揃わない子どもでしたから。小さかったあなたに猫だと思われても仕方ありません」


すっと伸びてきた彰斗さまの手が、わたしの前髪をそっと持ち上げる。もうだいぶ痕も薄くなっているけれど、あの日の落下でわたしは額に大きな傷を負ってしまったのだ。


「幼いころの俺は今よりもずっと力が制御できず、人間の姿と獣の姿のコントロールもままなりませんでした。どうして自分には獣人の血が流れているのか。どうして父や祖父のようにうまく力を制御できないのか、悩む日々でした。

家を飛び出して、とにかく遠くへ行きたいと夜の町を駆け抜けて、気づけばあなたの家の庭先にいました。大きな月が美しくて、いまなら手が届きそうな気がして、思わず桜の木に登ってしまったのです」


彼の親指が、優しく傷をなぞる。見上げれば、鉄仮面のようだったお顔は、苦痛に耐えるようにくしゃりと歪んでいた。


「彰斗さま……?」

「俺が……俺があのとき木に登らなければ! あなたにこんな傷を負わせることはなかったのにっ!」

「彰斗さま、だめです! そんなに強く手を握ったら……」


ぎゅっときつく握る手を、わたしはそっと包み込んだ。眼鏡の奥の飴色の瞳は、いまにも泣き出してしまいそうに潤んでいる。


「あなたが助けてくれなければ、俺はそのまま朝を迎えて、見慣れない動物として保健所に収容されていたかもしれない。あなたは俺の命の恩人です。けれど同時に、俺はあなたに傷を作ってしまった罪人でもある」

「そんな……この傷はもう痛みませんし、こうして前髪で上手く隠せていますから……」

「……俺には、包み隠さず話してください。家の金銭的な理由もあるのでしょうが、社交界デビューや女学校へ通っていないのも、その傷を気にされてのことでしょう」

「それ、は……」


言い当てられて、わたしはそのまま口を噤んだ。沈黙は肯定と同義だ。

彰斗さまは自嘲気味に、ふっと息を吐き出した。


「自業自得ですが、おかげであなたを探し出すのにこんなに時間がかかってしまった」

「……えっ?」

「あの日俺は、泣きじゃくるあなたの声に気づいたご両親から隠れるように逃げ帰ってしまったのです。けれど結局迷子になり、朝になってから、一晩中探してくれていたらしい家の者に保護されて意識を失ってしまった。あなたの家に詫びに行こうにも、場所はおろか方角さえわからず。

庭先に桜の木の生えている貴族の邸宅。おおよその年齢で絞り込んで、社交界に名を連ねる令嬢方と女学校の名簿まで裏ルートで手に入れて、しらみ潰しに探してしまいました」

「そ、そんな……」


わたしが落下事故を起こしたことをきっかけに、あのあとすぐにお父様は桜の木を切るよう命じてしまった。

社交デビューもしていなければ女学校にも通っていない令嬢は、いくら貧乏貴族といえども珍しいだろう。


「では彰斗さまは、あの日のことを謝るためにずっとわたしを探してくださっていたんですか? それで、お詫びのためにと貧乏子爵家である我が家に縁談を?」


それならば、いくら年頃とはいえこの傷ものの、貧乏子爵家のわたしに縁談を持ち掛けてくださったことにも納得がいく。

記憶も傷跡もだいぶ薄れてはいるけれど、あの月明かりの下で見た毛並みは確かにこんな風にきれいな栗色だったから。

けれど彰斗さまは、わたしの言葉に申し訳なさそうに眉を下げて、ゆっくりと首を横に振った。


「もちろん、あなたにこうして面と向かって謝罪をするのは目的の一つではありましたが。あなたがどんな家の娘であれ、たとえ没落までしていたとしても、わたしはきっと求婚せずにはいられなかったでしょう」

「そ、れは……どうして……?」


首を傾げたわたしを、彰斗さまはじっと見下ろしている。その指先が頬に触れて、飴色の瞳が焦がれるように熱をもつ。


「あの日から、俺はずっとあなたに恋をしているからです」


そっと囁かれたその言葉は、すっと耳を通って脳を揺さぶった。意味を理解するまでに数秒。それからぼんっと、顔に熱が集まる。


「へっ!? いやでも、あんなに小さかったのに!?」

「関係ありませんよ。抱きしめてくれたあなたの腕の中はなによりも心地よく、何年経ってもあなたの匂いが忘れられなかった」

「に、匂い!?」

「そうです、獣人は鼻も良いですから。好きな人の匂いは、いつまでも忘れませんよ。いまだって、お預けをされている犬のような気分です」


そう言いながら、彰斗さまのざらざらの舌がわたしの首筋を舐め上げた。


「んんっ、……ひゃ、なに、を……っぁ、もう……」


そのまま耳やうなじまで、舐められたり柔らかなキスを落とされて。それだけでわたしの身体には力が入らなくなり、へなへなと彰斗さまの方へもたれ掛かってしまう始末。

逞しい腕にぎゅっと抱きしめられて、細いしっぽが遊ぶようにしゅるりと腰に回される。


「あなたのご実家の援助はもちろんしますし、もし傷跡をさらに薄くする治療をしたければ最高の医者を手配できます。だがそれは、ただ愛するあなたを手に入れたいがため。やっと見つけたあなたを前にして、なりふりなど構っていられないのです。こんな男は、嫌ですか」


縋るような、ねだるような、その甘い声に、心臓は飛び出してしまいそうなほど早鐘を打っている。

見上げれば、顔を真っ赤にした彰斗さまが緊張した面持ちでこちらを見下ろしていた。

冷徹無慈悲な鉄仮面、なんて言ったのは一体どこのどなただろう。いまわたしの目の前にいるのは、不器用ながらも必死に愛を伝えてくれる、素敵な男性に違いなかった。


「嫌だなんて、そんなことあるはずがありません。この傷跡があなたを守った勲章だというのなら、わたしは喜んで一生大事にします。家のことはまあ、お父様は喜ぶでしょうがそれは追々ということで……」

「ええっと、それは、つまり?」

「ふふっ……不束者ですが、よろしくお願いいたします」


深々と頭をさげようとして、けれどわたしの身体は彰斗さまにがばっと抱きしめられていた。そのままひょいっと横抱きに抱きかかえ上げられて。


「えっ、ちょ、あきとさ……んむっ!?」


急に高くなった視界に動揺するのもそこそこに、わたしは唇を塞がれていた。時間にして、きっとたっぷり数十秒。

ファーストキスにしてはちょっと長い口付けから解放されると、またもや身体をぎゅっと抱きしめられて。


「やっとだ……やっと、つかまえた……」


あの日とは逆に抱きしめられたまま、わたしは頭の上に立つ栗色のお耳ごと、彰斗さまを抱きしめ返したのだった。


お読みいただきありがとうございました!

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