三百年後のあなたへ
はっと、気がついた。
普通、命というものは、二度と元には戻らないはずだ。俺は自分が死ぬのを確かに感じたし、経験した。
だが頬に、さわやかな風を受け、目を覚ました。
日の光が穏やかに差し込む森で、新緑が美しかった。
小鳥のさえずりが聞こえる。
地面を手で押し上半身だけ起き上がると、隣に人がいることに気がついた。
「起きた? おはよう」
知らない女だった。二十代くらいだろうか。
白いワンピースを着て、金色の髪が風に揺れていた。
「誰……だ」声がかすれた。
「分からない?」明瞭な声が発せられ、金色の目が笑い、手に持っていた剣を、俺に見えるように掲げた。
見覚えがある。だがまさか。
「リィナ?」
それはまさしく聖剣だった。
女は頷き、俺の手を引いて立ち上がらせる。
「俺は夢を見ているのか」
「そうかもしれない」
リィナは答えた。
俺は確かに死んだんだ。それに俺の知っているリィナは十代半ばくらいで、大人の女性とは言い難かった。
「あれから、色々あったから」
そう言って、リィナは俺の手を引いて歩かせた。
短い草を踏みながら、木漏れ日の中を二人して歩く。片方に俺の手を、もう片方に聖剣を持ち、歩きながら、彼女は言った。
「この森はクリスが死んだ森。でも見て、魔物がいなくなったから、元の美しい姿を取り戻したんだ」
なら俺は、やはり死んだのだ。なのになぜ蘇っているんだ。疑問は山ほどあったが、一番気になるものからぶつける。
「魔王を、倒したのか」
リィナは微笑む。
「まあ、そうかな。一応は、そう。クリスが死んで、すぐに古城に入った。そこにいた魔王を、やっつけたよ」
まったく気の抜ける話だ。俺が七年かかっても倒せなかったあの魔王を、彼女は聖剣を得てから数週間で倒してしまったのだから。
「どうして俺はまた、生きているんだ。まさか誰かの命を犠牲にしたんじゃないだろうな」
「その疑問には、まだ答えられない。だけど誰も犠牲にはしてないよ」
ついに俺たちは森を抜ける。
かつては気がつかなかったが、森は海へと続いていたようだ。透き通った海が、空の青さを映していた。
立ち止まって、リィナは俺を見上げた。
「人生最良の一日を、あなたと過ごすの」
言って、空を指さす。
「ほら、見て! すぐ来るわ!」
初めは、海鳥かと思えた。それほど小さな点だった。だが瞬く間に点は姿を明確にし、猛スピードで空を渡る別の何かであることが分かった。
一頭ではない。
点は線となり、空を横切る質量に変わる。
「ドラゴンだ……」
太陽の光を受けた鱗は虹色に光り、この世のどんな宝石よりも輝いていた。
数千頭ものドラゴンが空を渡り、太陽を隠し、俺たちに陰を作った。
それらの羽ばたきで風を作り海が荒れ、砂が舞い上がる。
この世のものではないような、圧倒される光景だった。
「すごい! わたしも初めて見たの! すごい! なんて綺麗なんだろう!」
リィナのはしゃぐ声がした。
「どう? クリス、どうだった? すごいでしょう!」
「信じられないくらい、胸が震えてる」
輝くドラゴンたちを見ながら、俺は自分の頬に涙が伝わるのを感じていた。
ドラゴンが過ぎ去り、再び静寂が訪れたころ、リィナが、ぽつりと呟いた。
「あれから、三百年経っているの」
彼女を見ると、俺を見つめる金色の瞳と目が合った。ドラゴンの大移動は、五百年に一度だ。前回が二百年前なのだから、次に見ることができるのは、確かに三百年後だった。
「君は……君に、一体何があったんだ」
「あのね、びっくりしないでほしいんだけど」
リィナが俺の両手を握る。
「わたしね、魔王と、取引したの」
「何を馬鹿なことを!」
魔王は極悪非道だ。それと取引するなど、相手にとっても都合のよい条件だったに違いない。
けれどこの世界に、少なくとも森と海とドラゴンに、邪悪の気配はなかった。
リィナは真剣なまなざしを、なおも俺に向けた。
「聞いてクリス。この世界の成り立ちに関わる根幹の話」
ゆったりとした彼女の声は、俺の心を落ち着かせる。
「昔ね、この世界は、とても発展した世界だったんだって。技術も産業もあって、人間の数も、今よりずっと多かったの。
でもそうなると、今度は資源が枯渇しちゃった。食べ物もなくなって、飢える人が多く出た。
それで、偉い人は考えたんだって。人口を減らそうって。それで魔王を生み出した。正確に言うと、魔物という兵器を生み出す、決して滅びることのない生物を。
どうやって作ったのかは分からないよ。でも核になったのは魔力の高い、一人の女の子だった。無理矢理とかじゃないって、人の役に立てるならって、望んでそうなったって言っていた」
言っていたって、誰が。
「でもね、結果として、すごくよく成果が出ちゃったんだって。人間の数が、想定以上に減っちゃった。偉い人たちが考えていたよりも、人間はずっと弱かったみたい。
だから、聖剣が作られたんだって。その生物は不滅なんだけど、核を傷つければ、復活まで時間がかかる。その時間を稼げるのが聖剣だった。高い魔力を持つ生物だから、同じように高い魔力を、封じ込んだのが聖剣なんだよ。剣は意思を持ち、わたしたちを支配している。
聖剣は、人の命が含まれている。握れるのは、高い精神力を持つ、ほんの一握りの人たちだけだった。それが、今は勇者と呼ばれる人のこと。
バランスが大切なんだって。人間が増えすぎても争いが起こるし、減りすぎては絶滅してしまう。だから聖剣は人が多くなってから魔王が復活するように調節して倒しているし、人が減っている時には増えるまで姿を現さない」
聞きながら、彼女が何をしたのか、少しずつ分かってきた。
「君が出会った魔王が、そう言ったのか」
「友達作ってって、言ってくれたでしょう? だから、魔王と友達になったの」
彼女はさらりとそう言った。
「君は魔王から力をもらったんだろう。殺さない代わりに? 魔王が死にたくないから吐いた、嘘かもしれない」
簡単に信じられる話ではない。
「どっちでもいいかなって、思ったんだ。それに今、世界から魔物は消えて、魔王も復活していない。本当のことだったんだと、思うよ」
リィナは、にこりと笑った。
「魔法には対価が必要でしょう。魔王の核になった女の子は、もう永遠の命にうんざりしていて、わたしにそれをあげるから、人としての生を全うさせてくれって言ったの。彼女は永遠の命と引き換えに、人の寿命を得た。わたしは人の寿命と引き換えに、永い永い命を得た。
仲間達も、それでいいって、納得したんだよ。だって世界のために犠牲になり続けた少女がいたなんて、悲しいでしょう? それにクリスティアンならそんな非道いこと、絶対に許さないはずだからって、みんな言っていた」
まるで過去を懐かしむように目を細め、リィナは海を見つめる。
俺もつられて目を向けるが、凪いだ水面があるだけだった。
「わたし、彼女の死を、看取ったよ。ありがとうって、言っていた。それが最初の友達の話」
ふう、とまるで罪を告白しきった告解人のような息を吐くと、彼女は俺に手を差し出した。
「それじゃ、行こ」
まだ疑問はあった。なぜ俺が再び生きているかについてだ。
だが握り返し、どこに行くんだ、と問いかけようとした時には、すでに雑踏の中にいて、結局それどころではなかった。