なろう小説は貴族主義であり、貴族とは神のことである。
なろう小説の多くは貴族主義を否定していないどころかむしろ肯定しているように思う。というか、多くの日本における小説は貴族主義を肯定しているように思う。
貴族主義とは、人は生まれながらに価値が決まっており、人の価値は平等ではないという思想だ。
そういうと、今の日本の民主主義からすれば、否定されてしまうところだろう。人の価値は誰でも平等であり、その価値は平等であるというのが、現代社会のおける建前であるからだ。
しかしながら、現実問題として格差社会は存在し、価値のない「自分」は存在している。
ネットの発達によって、自分の立ち位置が可視化されている現代社会においては、自分の立ち位置がいかなるものかというのは、わりと早期に理解されてしまう。
そのような世界において、自分が人間としての価値が平等であると叫んだところで、むなしさや怨みや嫉妬がつのるだけだ。
――この不平等の実態。
いや、人間に価値の差があるという実態は、ネットでも顕著にあらわれているだろう。ユーチューバーやそうでない人も、ここなろうでも、いいねの数やお気に入りの数が、人間の価値と等価だと思ってる人は多い。
その価値観自体は必ずしも悪いものではない。人間の価値を共産主義的に等価であると捉えてしまうということは、自分自身を高めようとしたり、他者に対して施そうとしたりすることをやめてしまいがちだからだ。
戦前は「国」が神さまだった。
つまり、お国のために死んでいくのが善であり正しいことだとされていた。
そういうイデオロギーで統一されていた。
しかし、神はバラバラになってしまい、イデオロギーは霧散した。
この状態は正常な人間にとっては、非常に座りが悪い。何が正しくて何がまちがっているかのお墨付きがないからだ。人間ひとりひとりが判断を下していく必要があるからだ。
やむなく導入されたのが資本主義的な世界観である。
つまり、お金を持っている者が偉く、貧しい人間は卑しい。
この考え方はいまも趨勢を誇っており、人間の多数派はお金持ちになりたいと思っている。
しかし、お金という偽神は、戦前のイデオロギーに比べると弱い神だったらしい。国や人種といった幻想と比べて、金にはそこまでの魅力がないのかもしれない。拝金主義者が破滅する物語なんて、腐るほど見てきてだろう。
だから補助的に多数派の承認を求めたというのが今の社会の構図である。あるいはお金よりもそちらを主神としている人間のほうが多いかもしれない。
多数派の承認を神としている現実は、いまでもネットを見ればいくらでも散見される。
最近ではスシローペロペロ事件もその一種だろう。ペロリストが多数の承認を得たかったというのを言いたいのではない。むしろ、多数派がネットで炎上しているのを見て、「こいつは叩いてもいいやつ」というふうに承認されているのが、そうではないか。
ペロリストが悪くないとか、そういうことが言いたいわけではない。ペロリストがいいとか悪いとかは主題ではない。
現代日本人の神の所在が多数派による承認にあるのではないかと言いたい。
ネットはあるいは大衆という名の神はお墨付きを与えたのである。
ペロリストは異常であり排斥してもよいという思想は、逆に言えば、正常であるというのは他者との同質性――わかりやすくいえば「みんなと同じ」ということで担保されている。
ああ、しかし。
しかし、世の大多数は有名でもなければ、金持ちでもない。
多数の承認を得られる人は極一部である。
ここにきて、「わたし」の心の中では内部分裂が起こっている。
みんなと同じになりたいと願いながら、しかし、異常個体にもなりたいのだ。
異常という言葉は、例えば、お金持ちだったり天才と呼ばれることだ。
ただ、お金持ちとか天才とかは相対的概念だから、世の平均とくらべてお金持ちだったり、頭がよかったりしても、その人のなかでは満足できないということもあるだろう。
いずれにしろ、多数の人間は心の中に生じた内部分裂に対して、どうにかして折り合いをつけなければならない。
抑圧という方向で、これを成立させようとするのが「ルサンチマン」である。
ルサンチマンというのは、怨みのことである。持たざる者が持てる者に対して怨みをいだき、見返してやろうという心のことである。
ルサンチマンは抑圧であるから、必ず解放されることを願っている。
ルサンチマンからの解放は以下の三種。
一、持たざる者が持てる者を打倒する
二、持たざる者が持てる者になる
三、持たざる者が他の言葉によって、わずかに抑圧を解放する。
一や二は明快なのでわかりやすいと思うが三については、少し補足が必要だろうか。三番目はなぐさめあるいは言い訳である。
大学受験で志望校に受からなかった者が、今まで積み上げてきた勉強は無駄にならないと言ってみたり、なろう小説でランキング上位になれない者が自分みたいなのがいるからランキング上位のやつらが存在できると、うそぶいてみたり。そういう概念操作のことである。
多くの人間は現実原則の前に敗北をする。敗北を知らないまま死んだ人間のほうが少ない。
人間が普遍的に持つ悲劇性を表現するのには三番目のルサンチマンが適している。文学性がここに現れると言ってもよいだろう。
なろう小説はどうかというと、三番目の方法をとることは少ないと思われる。基本的には持たざる者が持てる者を打倒するか、あるいは持たざる者が持てる者になるパターンが多い。
基本的になろう小説は不正の力を借りて、現実に相対することが多いからだ。
ここで、三番目のような挫折がないことに、言い換えればカンタンにルサンチマンが解消されてしまうことに、「安易」とか「低俗」という評価をくだしている者がいる。
ただ、わたしとしては、一番目や二番目のルサンチマンも三番目のルサンチマンも、同じルサンチマンであろうから、ここで短絡的に「安易」や「低俗」という評価を下すのは早計だと思う。
ともかく、ここまでの論をまとめよう。
人間の多くは現実原則の前に敗北し挫折を経験している。
そのため、ルサンチマンが生まれ、その抑圧状態を解放したいと多くの人間は願っている。
なろうについて言えば、言葉による慰めではなく、より直接的にルサンチマンを解放する様式が好まれる。
ここまではいいだろうか。
一応、付言すると、この論については裾野についてはほとんど見ていない。ランキング上位にあたる作品の傾向について述べている。
さて、なろう小説がルサンチマンを直接的に解消するという構造を下支えする以上、現実原則に打ち勝てるための力が必要になる。
その力こそがチートであり、チートとは偶然性による異常な力のことである。
言うまでもないが、なろう小説を肯定する層はチート能力についても肯定している。
偶然性あるいは所与のものとしてチートは存在する。
まるで親ガチャのように。
親ガチャは偶然性によってレアリティが決定されるが、これと同様にチートも偶然性によってレアリティが決定される。
実際になろう小説も、聖女だったり妖精の姫君だったり、あるいは精霊だったり、あるいは生まれながらに王だったりと、生まれがそのままチートであることも多い。
よって、チートが肯定されるなろう小説においては、人は生まれながらに価値が決まっており、人の価値は平等ではないという思想をも肯定している。
なろう小説は貴族主義といえるのではないだろうか。
ここまでは前段の話。
たぶん、あんまり論じなくても、そう言われればそうかもーくらいの感覚で捉えてもらってかまわない。
わたしが本当に述べたいのは、ここでいう貴族というのは神であるということだ。そういうと日本人は最終的に神様になりたいの?って話に捉えられるかもしれないので、そうではないと言っておく。
ここでいう神とは日本の神のことだ。
日本の神は、日本人ならたぶんなんとなくわかると思うが、清濁が混成されている存在だと思う。神は清浄なる場所におわします。しかし、荒神は汚れた場所に存在する。イザナミの一日千人殺すというエピソードを知らない日本人は、まあたぶんほとんどいないだろう。
イザナミは言うまでもないが、国母であり、生と死を司る。
神とは両義的な存在なのである。
それで、同じようになろう小説もチートによって、あるいは生まれによって異常個体なのが最初から保証されているわけだが、先に述べたようにそもそものルサンチマンの因果は、多数の承認を神としたことから始まったわけである。
要するに主人公は、生まれを肯定しながらも、大衆という外部の神をも承認してしまっているわけだ。貴族主義でありながら、大衆主義者なのである。
ああ、もちろん――矛盾している。
しかし、そもそもそういったケガレを何千年も前から受け入れてきたのが日本人である。
だから、なろう小説は貴族主義であり、貴族とは神のことである。
なんか言葉にするとよくわからんだろうから、とてもわかりやすく言います。
なろうって、清純派AV女優みたいなもんなんだよ!
以上、現場からお送りしました。
神だとして何って話だが、要は大衆と自己の間に引き裂かれているというケガレの属性があるから、貴族社会でも人の価値をうたってみたり、革命を起こすわけでもないけれども、主人公なりの倫理観を発揮するというところに、文学性があるんじゃないのかなぁというのを思い描いています。ふんわりと。