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スターター

作者: ナッツ

(プロローグ)

 昔、あるところに伝説のスターターと呼ばれる五人組がいた。

 小さな公立中学のバスケ部に偶然居合わせたその五人は、一年生の時から全員がスターターとして試合に出場、特に強豪でも何でもなかったその学校を地区大会、県大会、そして全国へと勝ち進めて、二年生の夏からは全ての大会を制覇し、奇跡の五人組と呼ばれた。

決してスピードに恵まれているわけではないが、常に正しい状況判断を行い、賢いプレイでチームを引っ張って来た司令塔の中馬、どこのチームのエースに対しても一歩も退かず、点を取り続け、チームを勝利に導いてきた春口、大きな体でゴール下を支配し続けた青木、春口に次ぐ第二の点取り屋で、プレッシャーのかかる場面で無類の勝負強さを見せて来た今出、彼らは今でも中学バスケ界の伝説だ。けれどもあと一人の名前が思い出せない。そう、あと一人の名前が———、


(シーン1)

 春———、長い冬が終わり、植物が芽を吹く。南風が吹いて、海に大きな波を起こす。命が咲いて、その匂いと光に溢れる。今までのことをリセットし、何か新しいことを始めるのには最適な季節だ。

磯部友美は、男子バスケ部のマネージャーになるのはどうかと、放課後、体育館への渡り廊下を歩いていた。地方都市の、彼女の家から少し離れたその高校は、小高い丘の上にあり、校舎へ登る坂道はちょうど桜は見ごろだった。桜のトンネルを抜けて登校する時に、風が吹くと本当に吹雪のように桜が舞うのを初めて見た。

中学生の時、クラスメイトとの小さな関係のもつれから、磯部友美は学校へ通えなくなった。本当は、出席日数は足りていなかったのだけれども、学校に通えていたころには至って真面目な生徒で、気の弱いくせに少し頑固なところがあるくらいで、問題のない生徒であったことが考慮されて、卒業してこの高校へ来ることができた。

さて、彼女は体育館の扉の前で一人、心の中で呟いた。高校生活は絶対素敵なものにするのだ、そう誓ったのだ。

それはある晴れた春の午後、彼女が体育館の中へ入ろうとすると中から大きな歓声が上がった。

(シーン2)

 一人の男が躍動し、点を決め、そして吠えていた。少し見ていれば、周りとの違いは明らかだった。抜群のスピードとバネを活かし、速攻になると多少スタートが遅れても皆を追い越し、ゴールを決めてしまう。今は新入部員の一年生だけで練習をしているのだが、ともかくダンク、またダンク、そしてダンクで活躍しまくっていた。

男の名前は小林勇太。中学時代は陸上の短距離の花形選手で、高校でもそちらを続けていくかと思われていたが、本人曰く「陸上ではモテない」「高校からは球技がやりたかった」とのことで、しかし驚きの出来のデビューを果たしていた。よく見ると、速攻からの得点だけではなく外からのジャンプシュートも決めていて、どうやら身体能力が優れているだけではなくて、器用なところもあるようだ。

それにしてもこの男、明るい。シュートを決めた後はパスをくれたチームメイトに何事かを叫びながらハイタッチをしている。周りを巻き込んで、自然と彼中心に試合が進んで行かざるを得ないような、そんな感覚を抱かせるような、つまりスターの風格を持っていた。

そして———また速攻から点を決めて、何か盛り上がっていた。


(シーン3)

「これ以上、続けても意味がなさそうだな」

コートサイドの背の低い一人の三年生が言った。隣にいたもう一人が、頷いて、笛を鳴らしてコートに入っていく。

「よし、交代だ」

 今は新入生中心で、試合形式で練習をしていたが、今のメンバーだと小林が一人だけ目立ちすぎてしまう。コートに入っていきながら誰と誰が交代、誰が誰のマークに付くかを手際よく指示を出していく。普段からこうした役目を務めていなければ、こうはいかない。その後ろをゆっくりと先ほどの背の低い男がついていく、人間とは面白いもので、高校生の集団であってもしばらく眺めていれば誰が集団の中心にいるのかが分かる。

 今コートに入って行って、指示を出していたのがキャプテンの高橋拓之、落ち着いた雰囲気でチームのまとめ役だ。そしてその後ろをゆっくりと遅れてコートに入っていったのが副キャプテンの高橋亮太。同じ苗字のキャプテンに比べて、こちらは随分と生意気でやんちゃな印象だ。普段はチームを高橋拓之に任せてはいるが、いざという時には彼がチームを動かす。彼こそがこのチームの中心で、エースだ。バスケ部でなくても低い身長で、それでもこの態度なのだからよほど運動神経には自信があるのだろう。これまでチームを引っ張り、一年生の時には先輩とぶつかったりもした二人だが、血縁関係はなく、たまたまよくある苗字同士だったということだ。

「あいつにはオレがつく」と、高橋亮太は小林を指さす。

「それから———、インサイドが一人足りないな、おい、お前」

 もう自分の出番は終わりかと、休んでいたひょろりと背の高い一年生に声をかけた。

「インサイドに入って、あいつのマークについてくれ。」と高橋拓之を指さした。


(シーン4)

 彼らのいる高校は、スポーツ推薦のない、いわゆる普通の私立の学校で、従って野球部が甲子園に行ったことも、サッカー部やバスケ部がインターハイに行ったことも一度もない。しかし、勉学にもそこまで力を入れているわけでもないが、いわゆる普通の私立の高校である。

 高橋亮太の持ち味はスピード、自らガンガン点を取りに行くタイプのガードで、一年生の時から上級生と衝突を繰り返しながら、ついにエースの座を勝ち取った。

 持ち味の分かりやすい高橋亮太に比べ、高橋拓之はいくらか特徴の分かりづらい選手だ。小学校でミニバスを始めて、すぐに彼はこの競技が自分に向いている、と思った。その頃の彼は、コートの誰よりも背が高く、スピードもあり、かつ器用なところもあったので、瞬く間にチームのスターとなった。実際、地区大会レベルでは彼を一対一で止められる選手はいなかった。だが小学校から中学、高校とバスケを続けていく中で、周りの身長が自分に追いつき、追い越し、今ではインサイドの選手としてはむしろ背が低いくらいになった。そしてかつての神童は、いつの間にか平凡な選手になりかけていた。

 それでも彼が光るものを時折見せるのは、たとえば高橋亮太がインサイドに突っ込んできて敵のマークがそちらにそれた時、タイミングよく敵の見えないところからパスを貰いに中に入ってくるのが彼は抜群にうまかった。その時に、高橋亮太のパスが、多少雑で後ろに逸れたり、取りづらいバウンドのパスになったりしても彼はそれをこぼさないし、キャッチしてからシュートに行くまでも速かった。しかし強豪校と当たり、自分より背が高く屈強な体格の相手とマッチアップすると、彼一人の力ではなかなか点には結びつかないのであった。

 強豪校と当たると、苦戦をするのは高橋亮太も一緒で、彼の場合、いくら練習をしても外からのシュートがうまくならなかった。いくらスピードがあるとは言っても、中に突っ込んでくることが読めてしまうと、インサイドにスポーツ推薦組の背の高い選手が揃っていたり、チームディフェンスがしっかりしていてスペースをしっかり消してくる相手だと、途端に苦しくなる。いつからだろう、「外のない高橋亮太、背のない高橋拓之」と相手チームから揶揄され、県大会でも勝ち進めなくなっていた。

 彼らのいる高校は、スポーツ推薦のない、いわゆる普通の私立の学校で、従って野球部が甲子園に行ったことも、サッカー部やバスケ部がインターハイに行ったことも一度もない。高橋拓之も亮太も、これが最後の夏の大会になるのは分かっていたけれども、まさかそんなに勝ち進めるとは彼ら自身考えてもいないのであった。


(シーン5)

 磯部友美は男子バスケ部のマネージャーになるため、ここにやって来た。しかし久しぶりに体育館の床を叩くボールの音、床を擦るバスケットシューズのきゅっきゅっという音、胸が震えて何も考えられず、その場を一歩も動けなくなった。

 もともと、物静かでおとなしい性格といわれていた。けれど、体を動かすことは好きで、中学の時は女子バスケ部のメンバーだった。元気が出ない時でも、体育館に来てボールに触ると、体が自然と動いた。床を叩くボールの音は心臓の鼓動の音、腹の奥から響く、命の音。素人と経験者とでは、決定的に床を叩くその音の強さが違う。命が弾み、躍動する音が聞こえるのだ。

 高校に来てよかった。また学校に通えてよかった。泣きそうだったけれど、何で泣いているのか、周りには分からないだろうから、何とか泣かないようにしなければならなかった。


(シーン6)

 彼らが通うのは、とある地方都市の私立の高校で、学校としては部活動はほどほどに、かと言って勉学にそれほど力を入れているわけでもない、いわゆるよくある普通の学校であって、だからこのバスケットに顧問はいても監督はいないし、その顧問もほとんど練習には顔を出さず、練習メニューを考えるのもそれを仕切るのも、今は高橋拓之と亮太の二人によってだった。

 その高橋亮太が小林相手に左右に揺さぶりをかけながらドリブルで突っかけていく。思った通りだ、と高橋亮太は思った。背は小林勇太の方が十センチ以上高いし、体も一回り以上大きい。しかもスピードもバネも向こうの方があるのかもしれないが、だがいくらセンスがあるとはいえ、バスケ初心者の彼には経験が足りず、一つ一つのフェイントに無駄に大きく反応してしまう。ゴール下まで切り込むと、相手に体をぶつけるように身を寄せて、体から最も離れた位置からボールを上げてシュートを放つ。これではさすがの小林といえどもブロックはできない。これまで高橋亮太のバスケットボール人生において、何回も何千回もやってきたように、そのシュートも決まる。


(シーン7)

 高橋亮太が、足の間を左右交互にドリブルしてくぐらせて、ディフェンスに揺さぶりをかけてくる。実は動じなければ、何ということのないフェイントなのだが、小林の足は止まり、上体に力が入る。強くドリブルをついて高橋亮太が中に切れ込もうとすると、とりあえず後ろに下がって何とか抜かれないように対応するので小林は精一杯だった、しかし重心が後ろに残り、間合いが少し離れたのを見て、フリースローラインの左隅あたりから高橋亮太がジャンプシュートを放って、そしてそれは外れた。

 背の高い一年生のチームメイトがリバウンドを拾って、小林はボールをもらいに行く。

「次からもらいに来ないで、前に走って。」

 そう言って、背の高い一年生がボールを渡してきた。


(シーン8)

 小林は面白くなかった。控えと新入生中心の前半は、文句なしのMVPの活躍だった。しかし高橋亮太と拓之が入ってからは攻守ともに苦戦を強いられていた。そして同じ学年のメンバーからも指図をされた。実はそれはきつい言い方でも何でもなかったのだが、中学時代は陸上のスターで、しかしそうしたタイプによくあることで、プライドの高かった小林にはそれすら許せなかった。

 次の攻め、小林はパスをもらうと、迷わず外からシュートを打ち、それを決めた。3Pだった。マークについていた高橋亮太は外からは打たせてもよい、という無警戒な守り方だった。

 何かを叫んで、小林が背の高い一年生の手を叩いている。本当に騒がしいやつだった。


(シーン9)

 高橋亮太は感心していた。こいつはスピードだけではなく、外から打つこともできる。運動神経全般と、バスケットセンスもいいのだ。素人臭いところはあるけれど、将来はすごい選手になるのかもしれない。けれども、一番いいのはその性格だ。明るく元気なだけではない。負けん気の強さがいい。チームの中心となる男は試合を決めるような重要な選択を任されることになる。凄まじい重圧がかかるけれど、そこでパスを人に託して逃げているようでは心許ない。普段は我儘なくらいでちょうどいい。そうでなければあの重圧にはとても向かっていけないのだから。そう高橋亮太は思っていた。

(シーン10)

 ディフェンスの気づかない隙に、後ろや横に立ち、壁の役割をしてディフェンスの足を止める、そのプレイをスクリーンという。壁に立つ選手はぶつかる前にそこに立って足を止めなければ、ファウルとなるのだが、経験の浅い小林はそのスクリーンに簡単に引っかかって、ディンフェンダーとしての役割をそこで止められてしまう。スクリーンは事前に察知をしてうまく避けるか、すり抜けるしかないのだがそれができず、プレイがそこで止まってしまう。

 小林のマークが外れ、高橋亮太が勢いよくドリブルで中に突っ込んでくる。カバーにディフェンスが回って、そこでマークがずれる。高橋拓之がディフェンスの見えないところからタイミングよく中に入ってきて、そこにパスを合わせる。はい、二点と高橋亮太は思った。二人で、こうやって何点も何点も取ってきた。高橋拓之は自分一人では特に強豪相手だと点を取ることが難しい。こうしてお膳立てやコンビネーションが必要なのだが、三年間コンビを組んできた二人はまさに阿吽の呼吸で、あの位置でこのタイミングでボールを渡せば、高橋拓之がシュートを外すことはあり得ないのであった。


(シーン11)

 再び三年生チームの攻めである。高橋亮太がボールを運んでくる。今度は何を仕かけてくるのかと、小林は既に肩に力が入っていて、すると高橋亮太は簡単に中にパスを入れてきて、小林はそれに反応ができない。インサイドの高橋拓之に単純にボールをあずけて、自分一人で点を決めてみろ、といった様子だ。この試合は三年生にとっても新しい年のスタートであり、夏の大会を高橋亮太一人で戦うわけにもいかない。パスをもらった高橋拓之には背の高い一年生がマークについていた。上背は向こうの方が上だが、ずいぶん細い印象だ。一つドリブルをついて、体を寄せる、やはりパワーはこちらが上で、思った通り軽い———というよりこれは、と高橋拓之は思った。身体を寄せたつもりが、思ったより遠くにディフェンスを構えていて、あずけた体重の支えを失った高橋拓之はバランスを崩しながら、何とか三歩歩く前にシュートを打って大きく外した。リバウンドは背の高い一年生がそのまま拾う。まさか、ぶつかってくるのを予想してあらかじめ体を引いていた?


(シーン12)

 小林がまたボールをもらいに来る。しかし、前に走れ、と背の高い一年生は今度は自分でドリブルをしてパスを渡さない。なんだよ、思いながら小林はサイドを駆け上がっていく。大きくスタートが遅れたものの、やはりそのスピードはやはり目を見張るものがある。

 ボール!と声がして、小林の顔にぶつかりそうなパスが来ていて、それを何とかキャッチをして、走りながらシュートを決めると、笛が鳴った。トラベリングの反則で、バスケットボールではボールを持ったまま三歩歩いてはいけないのであった。


(シーン12)

 試合は三年生中心チームが新入生中心チームを離しつつあった。小林のマークには高橋亮太がついていて、小林のスピードとエネルギーはすごいものがあるのだけれど、やはりシュートを打つ前によくリングを見たいのだろう、慣れてくると何となくタイミングが読めてしまう。またシュートを打つためにはボールを持ち上げなければならないが、そこでボールがディフェンスから叩きやすい位置に来るので、背の低い高橋亮太はそこで手を出して、簡単にはシュートを打たせないようにしていた。結果として、小林がいらいらするくらい、高橋亮太はよく抑えていた、が、しかし、見えない方向から突然スクリーンが来た。完全に引っかかってしまって、小林のマークを外してしまうが、スクリーンに来た選手がゴール下に飛び込んでいくのも見えた。この場合、高橋亮太は小林を他の選手に任せ、中に飛び込んでいった選手のディフェンスにつかないといけない。


(シーン13)

 小林の前に高橋拓之が立ちはだかる、しかし、小林は勝負せずに、中に飛び込んでいったチームメイトにパスを出す選択をする。


(シーン14)

 パスカットはできなかったが、何とかカバーには入れた。パスを受け取るのと同時に、相手がシュートを打ってくる、が、それはフェイントで、ブロックに飛んでしまった高橋亮太はもうどうすることもできなかった。ターンをして、もう一つシュートフェイクを入れ、後ろに少し下がるように飛んでシュートを決めたのは、背の高い一年生だった。


(シーン15)

 速い、と高橋拓之は思った。パスをもらってから打つまでの小さな動きが、無駄がなく本当に鋭かった。その速さは小林の速さとはまた別のもので、小林は全身の筋力とバネを使い、溢れるエネルギーでプレイをするが、無駄に力が入っている感じは否めない。極限まで無駄な動きと力みがないという意味で、鋭く、速かった。けれども、しかし高橋拓之は思う。

 あれだけ身長と体格の差がある高橋亮太に対しては、少し強引に体をぶつけてフェイントも入れずにシュートに行くくらいでもいいのに、フェイントを二つ三つ入れて、最後は後ろに下がってシュートに行くのは、慎重というよりも、弱気が過ぎるのではないだろうか。高橋拓之は気に入らなかった。


(シーン16)

 試合終盤、もう三年生中心チームの勝ちで決着が見えたが、まだ時間は残っていて、そうした場合、どうしても集中力が切れ、プレイが緩みがちになるが、一つ美しいシーンがあった。

 シュートが外れたあと、宙に浮いた誰の物でもないボールを拾うことをリバウンドという。三年生チームの外したあとのリバウンドを背の高い一年生が拾い、そのまま前を向いてドリブルをして、ボールを奪いに来た三年生たちをかわす。今度はボールをもらいに行かずに、前に走った小林にふわりとした長いパスが走った。


(シーン17)

 ボールが美しい弧を描いて宙を舞っていく。高校生たちがそれを追って走る。その中で小林が抜け出して前に飛び出していく。パスが出て前に走った最初は絶対に届かないと思った。しかしそれでもフルスピードで走っていくと、本当に魔法のように自分の走っていく、その先のぎりぎり何とか届くところにボールが高い所から自分の手元に落ちてきて、小林はそれを拾って、そのままリングの中へと叩き込んだ。そして何かをまた叫んでいる。

 高橋拓之は背の高い一年生の一連のプレイを見ていて、こいつはひょっとして本当はアウトサイドの選手なのではないだろうかと思っていた。


(シーン18)

 その日の練習を、磯部友美は硬直したまま、ずっと見ていた。実は半年前までは日中は家から一歩も出られないで部屋にこもっていたこともあった。こんな風に当たり前のように、また部活の練習の場にいること自体、信じられないくらい幸せなのであった。

 体育館の外、風が吹いて、桜が舞って飛んでいく。


(シーン19)

「もう少し練習していかないか?」

 体育館にモップをかけたり、ボールを片付けたりしている時に、背の高い一年生が声をかけてきて、小林は驚いた。何というか、自分からこんな風に周りに声をかけていくようなタイプに見えなかったからだ。

「おお、いいけど?」

 でも一対一ならオレが勝ててしまいそうだけどな、と思っていると、どうもそうではないようだった。

「———じゃ合図したら走って。長いパスが行くから」

 ロングパスのキャッチの練習だった。小林は面倒くさそうな顔を隠さなかった。

「何だよ、こんなのより一対一やろうぜ?」

「でも一回、ちゃんとキャッチできなくて三歩歩いたじゃないか」

 返す言葉がなかった。

「じゃ行くぞ」


(シーン20)

「———先輩、居残り練習してもいいですか?」

 中学と高校とでは練習の強度が違う。まして今日は試合形式での練習をした後だというのに、まだ練習したいという一年生が二人いて、高橋拓之は驚いた。

「いいけど、片付けはお前らがきちんとやるのと、あまり無理してケガはするなよ」

 そう言って、面白そうだから高橋亮太と隠れて見ていくことにした。

(シーン21)

「また三歩、歩いているぞ!」

「スピードを緩めないでキャッチするんだ!」

「試合だと、ディフェンスがいるんだからな!」

 他に音のしない体育館に大きな声がこだまする。小林が走り出すと、そこに長いパスが出る。全力で走らないと取れない、でもぎりぎり届くようなところに毎回毎回長いパスが来る。でもそれを上手くキャッチしてシュートまでもっていくことが、ディフェンスがいないにも関わらず、できない。そしてダッシュを繰り返すこれはまるで、と小林は思った。これは自分が辞めた陸上の短距離の練習みたいではないか。

「おい、ちょっと」

 試合中は息も弾まなかった、しかし小林は肩で息をしながら言った。

「今度はお前がやってみろよ」

 小林は面白くなかった。せっかく試合では大活躍だったのに、お前はやっぱりバスケットボールは初心者なのだと言われているようであった。けれども交代してやってみると、小林はさらに面白くないのであった。

 合図を出して背の高い一年生が走る、それに合わせて長いパスを出す、ちょうどいいところにパスを出したつもりが、長すぎたり短かすぎたり、速すぎたり遅すぎたりして、全然練習にならないのだ。さっきあいつは何でもない、当たり前のことのようにやっていた。でも待てよ、試合の中で、こいつはディフェンスがいても二本長いパスを通したぞ。

「あと五本、お前が決めたら終わりにするから集中してやろう」

背の高い一年生がそう言って、小林は面白くなかったけれど、元の場所に戻ってスタートの合図を待った。


(シーン22)

 教室の窓から、桜の花びらが、風に吹かれて本当に吹雪のように舞うのが見えた。きれいだ、と授業は上の空で磯部友美は窓の外を見ていた。

 そして朝、教室に来てみて、昨日は気づかなかったけど、でも、あ、この人、昨日試合に出ていた、と背の高いその人とすれ違ったときに思った。短い髪、切れ長の長い睫毛の眼、細長い首と手足、薄い唇、教室での彼はまるで存在感がなく、眠そうな顔をしている。

そういえばもう一人、この人にも気づかなかったけれど、

「はいはいはいはい!」と小林が手を挙げて、得意げに数学の問題に答える。間違えていた。いつでもどこでも、やかましい、元気なやつであった。


(シーン23) 

これは中学の時の磯部友美の記憶。当時、学校にはほとんど行けていなかった。学校に行けない日は部屋にこもったりして、ほとんど家からは外に出なかった。

ある日、リビングでくつろいでテレビを見ていると、玄関の方で音がした。両親は共働きで、まだ帰らないはずだったけれど、母親がなぜだか分からないけれど、普段より早く帰宅したのだ。怒られる、と思った。リビングのテーブルの上には食べ散らかしたお菓子があり、他にも自分の脱いだ服や読みかけの本などが床やソファに散らかっていた。母は人一倍厳しく、世間体を気にする人で、学校に行かなくなった自分を憎んでいるはずだった。

叩かれる、そう思ったけれど、母親が取った行動は意外なものであった。テーブルの上の自分のお菓子をつまみ上げ、外から帰って来てコートも脱がずにソファに転がって、自分の見ていた下らないテレビ番組を、一緒に見てくれたのだった。CMに差しかかると、ばりぼりとスナック菓子をかじりながら、ぼそりと言った。

「大人だって嫌になる時があるんだから、あなたもゆっくり大人になればいいの」

 そのあとも母はテーブルの上に散らかった体に悪いお菓子や着色料のたっぷりと入った炭酸飲料を一緒に飲んでくれた。そして下らないテレビ番組を一緒に見てくれた。本当は、そんなことは絶対したくない人なのに、その日だけは自分に合わせて、そばにいてくれた。

 その母と父に連れられて、数週間後、初めてこの高校の見学会に訪れたときのこと、地方都市の郊外の、取り立てて特色のない、この高校だったけれど敷地だけは広くて、長い坂を登ったところに校舎が見えた。お城みたいだ、と磯部友美は思った。坂の左手の斜面は切り立っていてその下には川が流れていて、長い年月をかけて川が削ってできた地形であることが見て取れた。坂を登ると、中腹にテニスコート、それを過ぎると、グラウンド、そしてそれを過ぎると校舎が右手に現れる。一の丸、二の丸、三の丸で、順番にお城を置いていったら、立派な要塞になる。昔、ずっと小さかったころ、どこか地方の小さなお城をやはり母の手にひかれながら歩いた記憶がよみがえる。もうこの人たちを悲しませたくなかった。そして、この学校に通いたい、そう思うようになった。

 そして母と父と歩いた、この坂道を磯部友美は、桜の舞っている中、一人歩いているのであった。


(シーン24)

 よく晴れた日曜日、磯部友美は地区センターの体育室に来て、バスケットのゴールに向かってシュートの練習をしたり、ドリブルをついたりした。思ったより体は動いて、感覚も鈍っていなかった。

 結局、バスケ部のマネージャーになるのはやめた。しかしその代わり、もう一度選手としてコートに戻りたい、下手でも構わない、まだ私の身体はこんなに動くのだから。そんな思いはあの時、男子バスケ部の練習試合を見てから日ましに強まっていく。他に放課後や朝に走ることも始めた。やるからにはきちんと準備をしてからでないと気が済まない。それが彼女の性格だった。良くも悪くも彼女は彼女のペースでしか物事を進められない。そして失敗をおそれて、実はまだ女子バスケ部に入部届すら出していない。生来のこの性格は今後も、彼女の人生においてたびたび彼女を苦しめていくことになるのだが、彼女はまだそれを知らない。ともかく今はもう一度コートに立つことを目指して一人、息を弾ませていた。良くも悪くもそれが彼女の生き方で、そしてまぎれもなく今は、幸せな一瞬なのであった。


(シーン25)

 小林の居残り練習は不定期に、しかし継続して行われた。やはり元々の運動神経が良いからか、後ろからの長いパスもトップスピードに近いスピードで走りながら受けられるようになってきた。スタートして、一旦外に膨らむように走るコースを取って、横目に近い形でボールを見えるようにして受けるのがコツだった。逆に一直線にゴールに対して走っていくと、完全に真後ろからボールが来ることになる。相変わらず長いパスは届くか届かないか絶妙なところに飛んでくる。それを何とかキャッチしても慌てずにそのままランニングシュートを決める。誰も見ていなくても、誰も褒めてくれなくても、自然とガッツポーズが出る。

「トラベリングさえしなければ、このプレイは、お前は超一流だよ」

背の高い一年生も笑っている。そしてまた長いパスが宙を舞う。それを猛スピードで、全身がバネのような小林が、弾丸のように、獣のように、少し外に膨らむような進路を取って駆け上がる。スピードを緩めることのないままボールをキャッチ、そのままシュートをする。それだけのことなのに、それはバスケットを良く知っている人でもなくても息をのむくらい美しい光景なのであった。


(シーン26)

 小林は明るく、裏表のない性格で、頭の回転も速い。得意なのはスポーツだけではなくて、しかしそうしたタイプの人間にありがちなことであるが、飽きっぽく、我儘だった。

「今日は一対一やろうぜ」小林が言うと、背の高い一年生はにやりと笑った。

「いいだろう」

(シーン27)

 まただ、と小林は思った。足の間を交互にボールをくぐらせていく、レッグスルーというよく見るドリブルのフェイントで、小林の爆発的なスピードを知っていたら重心が後ろに下がっても良いのに、こいつは違った。むしろ———、

 小林が大きな一歩でトップスピードに乗ろうとドリブルをつこうとする、するとその大きな一歩を狙ってボールを手で弾く。弾かれたボールを取り返して小林の攻めはまだ続くものの、自慢のスピードをなかなか活かせていない。仕方なく外からシュートを打ち、外す。気にしたことがなかったが、こいつはディフェンスの時の体の使い方が抜群にうまい。スピードに乗りたくても、その前に体で蓋をしてスピードに乗らせない。そしてボールに対しての手を出すのも速くて、油断をするとすぐ取られてしまいそうだ。

 相手の攻めの番だ。フリースローラインの少し後ろでボールを交換すると、ボールを交換しながら相手がゆっくり、しかし大きく一歩を踏み込む。まだドリブルはついていない。そのまま体をゆっくりあずけて、静止したかと思うと、短く鋭いドリブルをついてきた。抜かれたくないので少し後ろに重心が下がると、その瞬間、相手も一歩下がってジャンプシュートを打ってきた。

 まただ。ずっとこんな感じの攻めで、ほんの少し動いて、ほんの少しの隙でも見せたら遠くからでも、シュートを打って、それは入ったり外れたりした。実は小林はまだ一本のシュートを決められていなくて負けているわけだが、でもこの攻め方は何というか、淡白すぎるのではないだろうか?本気なのか、自分が初心者でなめられているのかも分からなくて、また小林はいらいらしていた。

 相手が簡単に打ったシュートは、ゆっくりゆっくりと宙を舞い、美しい弧を描いて、今回はリングを通過していった。


(シーン28)

「マジかよ、意外な展開だな」

 高橋拓之が思わず言葉を漏らした。傍らの高橋亮太は黙ったまま、戦況を見つめている。この二人の関係を一言で表すのは難しい。二人で良い時間も苦しい時期も一緒に過ごしてきた。上級生とぶつかり、自分たちの代になってからは練習メニューも自分たちで考えて、バスケット部を引っ張ってきた。今日は練習を終えて、いったい部室に戻って水分を取ったりして、もうすっかり帰るつもりでいたのだが、体育館の灯りが点いているのを見て、戻って来たのだ。

「またあの二人か」

別に隠れて見る必要はないのだが、ドアの陰から高橋拓之が言う。高橋亮太は答えない。じっと二人の対決を見ていたのだが、すっと二人の方へ歩いて出て行って、二人にこう言った。

「おい、二対二やろうぜ。」

 高橋拓之が言葉を失くしたことは言うまでもない。


(シーン29)

 高橋亮太と小林はスピードが武器のアウトサイドの選手で、高橋拓之はインサイドの選手で背の高い一年生に守らせると都合がよさそうで、それを考慮すると高橋亮太と小林、高橋拓之と背の高い一年生とが別チーム、一年生対三年生ではつまらないので小林と高橋拓之、高橋亮太と背の高い一年生のペアで二対二をすると面白そうだな、と高橋亮太はチームを分けた。

ちなみに成績もよく落ち着いた性格で、教師受けの良い高橋拓之がキャプテンをやっているが、決定権はいつも高橋亮太が握っていた。

ボールを交換し、高橋亮太が攻めようとすると小林がマークにつく。いい顔をしている。先輩の自分にもいささかも気後れするわけでもなく、倒してやろうと考えている。こいつは本当に才能のかたまりだ、と改めて高橋亮太は思った。

するとその瞬間、小林の横に壁が立っていた。背の高い一年生がスクリーンに来ていて、高橋亮太がそれを使うと経験の浅い小林は完全に引っかかってしまう。高橋拓之が亮太のカバーに回るが、それを見て背の高い一年生がくるりと斑点をしてゴール下に飛び込んでいく。小林がそれについていかないといけないが、それも一歩遅れて、ゴール下にパスを通されてしまう。パスが入った瞬間、背の高い一年生の頭がシュートを打とうとして上下に動く。小林は遅れていたが、さすがの運動神経で何とかカバーをする。こいつに点はやらない。完璧なブロックをしてやる。

けれどもそれはシュートを打つフェイントで、ブロックをしようと飛んでしまった小林が落ちてくるのを見ながら、落ち着いて悠々と楽なシュートを決めた。

 こいつは一つ一つの動きに無駄がなくて、小さな動きでも非常に鋭い、でも今も絶好の位置でボールをもらったのだから、一発でシュートに行ってもいいくらいなのにフェイントを入れてからシュートに行った。賢いと言えばそうなのだが、高橋拓之には自信がなくて臆病なようにも見えて、気に入らなかった。


(シーン30)

 小林がパス交換をしてドリブルをつく、高橋亮太がマークにつくが、その横にいつの間にか高橋拓之が立っていて、高橋亮太はスクリーンに引っかかってしまう。そのままでは小林の好きなようにされてしまうので、背の高い一年生が小林のマークについて、その隙に高橋拓之はゴール下に飛び込んでいく。さっきの攻めをそのままお返しした形だが、それが上手く決まって、小林から良いパスが高橋拓之に入り、高橋亮太がカバーに入るが、身長差は否めない。

 特徴のはっきりした高橋亮太に比べ、高橋拓之は今一つ特徴のつかみづらい、不思議なタイプの選手だ。ただ自分より線が細く、身長差のある相手に対してボールを持つと急に動きが生き生きとして、別人のようになる。

 高橋亮太を背にしながら、高橋拓之は強くドリブルをついてゴール下に切り込む。そして完全に体で押し込みながらターンをしてシュートを打とうとした。本来ならこれまで、何度となくこうして決めてきたように、それで得点が決まるはずだった。しかしターンをしてシュートを打とうとしたが、腕が上がらない。背の高い一年生がそこに待ち構えていて、ボールを両手で掴んできていた。

それは完全にこちらの動きを読み切った守りで、もう少し早くそれに気づいたとしても、もう小林にはパスを出せないくらい間合いを詰められていただろう。でもこいつはいつ小林を捨てて寄って来ていたのだろう?


(シーン31)

 その夜、遅くまで二対二は続いた。そしてまたその春の別の夜に、ペアを換え二対二は繰り返し行われた。



(シーン32)

 小林を相手にすると、やはり高橋亮太の方に経験の差はあって、前後左右に細かいフェイントを入れ、揺さぶりをかけてから中に切り込んでいくと、小林は何とか抜かれずにそれについていくだけで精いっぱいになる。小林に身体をあずけながら体の最も遠いところからボールを持ち上げて、ランニングシュートに持ち込む。こうすればいかに抜群の運動能力を小林といえどもブロックすることはできない。それがいつもの得点パターンなのだけれども、相手に身体をあずけていくので、高くジャンプをしてシュートを打つことはできない。

 ゴール下、小林に身体をあずけながら高橋亮太の放ったシュートを、背の高い一年生が待ちかまえていて、完璧なブロックを見せて、ボールはそのままコートの外まで飛んで行った。

 こいつは頭がいい。そして自分から点を取りに行くタイプではないかもしれないけれど、自分たちの良いサポート役になるだろう、と高橋拓之も亮太も思っていた。


(シーン33)

 ゴールデンウィークに入り、学校は休みになった。いよいよ高校バスケットボールの地区大会も始まる。

(シーン34)

 磯部友美はまた地区センターの体育室に来ていて、一人、練習を重ねたあとで、今は図書室で本を眺めていた。まだ女子バスケ部には入部届を出していなかった。

 遅くなればなるほど、輪の中に入っていくことが難しいことは分かっていた。早く行動に移さなければならないとずっと思っていた。けれども高校に入って、久しぶりに学校に通うことになって、最初は緊張の連続で、ゴールデンウィークに入って、やっと一息つくことができた。今朝は体が動かないくらい疲れ切っていて、何故かはわからないけれど涙が出てきて、このままではいけないと思って、布団を出て、ここにやって来た。

 この地区センターには中学生の頃から通っていて、多分受付のおばさんたちもうすうす自分が学校には通っていないことには気づいていたと思うけれど、何も言わないでいてくれた。その頃は体育室ではなく、ここに来てほとんどの時間は図書室で過ごしていた。その頃、自分の心の中は真っ黒になっていて、でもここに来て本を開くと、心の奥深い所にまですっと届くような言葉に出会うことがあった。心が乾いていて、でもその頃、本当に多くの本を読んで、多くのことを学び、その日、生きていく力をもらった。もうここでずっと時間を過ごすようなことはあってはならないのだけれど、ここに来て本棚の間を歩いていると、一つ一つの本からきらきらと新しい可能性を秘めた言葉が聞こえるようで、ここを歩いているだけで幸せだった。でももうここには戻らない。戻ってはいけないのだ。

 その時、入口の方で声がした。同じ中学に通った、同級生だった。


(シーン35)

 逃げてはいけない。隠れてはいけない。自分は何も悪いことなんてしていないのだから、しかし考えるよりも先に黒い水が体の中を流れ、喉が絞めつけられるかのように息が苦しくなって、そして逃げるように本棚の陰に隠れた。別に出て行って普通に挨拶をすればいい。元気?今の私はこんなに元気だよ、高校も楽しいよ、でもそれができなかった。

 最低だ、私は最低だ。体中の力が抜けて、人としての表情もなくして、ただただ早く行ってしまえ、消えてしまえ、と心の中で叫んだ。自分が今、怖くて悪い顔をしているのが分かった。まるで人を殺してきたみたいな顔をしているはずだった。


(シーン36)

ゴールデンウィークが明けて、いつもの毎日がまた始まる。

授業中、背の高いバスケ部の人と磯部友美は、目が合って何となく目をそらす。細い首、長い睫毛、短く刈り込んだ黒髪が窓の光にキラキラして、何だかきちんと手入れされている芝生みたいだな、と磯部友美は思った。その人の名前は国見、国見良寛。いつか授業でそう呼ばれて知った。


(シーン37)

 地区予選での彼らの活躍はすさまじかった。特に小林は緊張とは無縁なのか、自慢の運動能力を活かし、いつも通りのびのびとプレイをしていた。小林、高橋亮太のスピードは相手にとってどうにもならない力の差であり続けた。気分良くプレイしていた小林は勢いに乗って、外からスリーポイントも決めてみせた。自分よりも背の低い、あるいは同じくらいの体格の相手に対しては例年通り高橋拓之は強さを見せた。

 一つ、予想外の収穫があった。それはあの背の高い一年生、国見良寛の活躍だった。

 例えばこんな場面があった。相手のインサイドの大柄な選手が、自分よりも体格の劣る高橋拓之を相手に強引にドリブルをついてゴール下に切り込もう、押し込もうとする。しかしその相手に対してはしっかりと高橋拓之が抑え込んで好きにさせない。苛立った相手はくるりとターンをしてそこからシュートを狙おうとしたのだろう、しかしターンをしたその先には国見がしっかりと待ちかまえていて、ボールをはたき落とした。それはあの居残り練習においても国見が見せた動きだった。

 国見は得点を積極的に狙ったり、小林のように派手な動きから得点を重ねたりしたわけではないけれど、みんなのカバーやサポートやアシストに回って、一年生ながらチームの潤滑油としてうまく周りを活かし、一つにまとめていた。

 相手からボールを国見が奪った、それを見ていつものように小林が走り、そこに美しい放物線を描いて、長いパスが出る。練習の成果か難なくそれをキャッチした小林はそのまま素直に得点を奪えばいいものを、後ろに向かってボールを落とす。それを猛スピードで高橋亮太が走りこんでキャッチをして、そのままランニングシュートを決める。

「いいねえ!」

 高橋亮太が声を出して小林の手を叩きに行く。小林がまた何か大きな声で騒いで、本当にこの男はうるさい。


(シーン38)

 高橋亮太がいつものようにドリブルをついて、ボールを持ちあがる。そして高橋拓之がスクリーンをセットする。ゆっくりとボールを持って上がる場合、彼らの攻撃のほとんどはこの形から始まる。だから相手もこの形には慣れてきて、うまく守られてしまい、なかなか得点につながるような隙は生まれない。高橋拓之はスクリーンを仕かけたあと、中に飛び込んでいくがそこに高橋亮太はパスを出すことができない、そのコースにはパスを出せないように、相手も守りを固めてきている。けれどもこれでいい、取りあえず相手の守りを動かすこと、そこから彼らの攻撃は始まる。


(シーン39)

 その選手はその試合で、散々に小林にやられてきたので、警戒を強めていた。いつものように高橋亮太に対して拓之がスクリーンに行ったあと、それが上手く行かないと、小林が外を大きく回って、パスをもらいに行くことに気づいていた。今度はパスを入れさせない。もしくはパスをさらってそのまま、速攻に持ち込んでやる。

 その読みは正しかったが、いつものように外を回っていく小林が急に止まって中に飛び込んでいこうとすると、背中がどんと壁にぶつかった。国見だった。

 猛スピードで小林がゴール下に飛び込んでいき、ディフェンスに混乱が生じる。


(シーン40)

こうしてマークがずれた局面で誰に、どこにパスを出すかがチームの司令塔である高橋亮太の価値が問われる。猛スピードでゴール下に飛び込んでいった小林にはマークが集まっていたのを見て、一つ前のプレイでゴール下に飛び込んで、そのままプレイが何となく止まってしまった高橋拓之の顔が良く見えたので、そこにパスを通す。それは普通はキヤッチできないような、厳しくて雑なパスであったが、長年コンビを組んできた高橋拓之は難なくそれをキャッチする。


(シーン41)

けれどもすぐにディフェンスが寄せて、そのままシュートを打つには少し遠く、体勢も悪かった。まずいことに相手は高橋拓之よりも大柄で屈強なインサイドの選手だ。するとそこに飛び込んでくる影が見えて、高橋拓之は迷わずそこにパスを通す。それは小林にスクリーンをかけて、そのまま外に流れて行ったはずの国見だった。わざと遅れてこのタイミングで中に飛び込んできたのだ。

派手なフェイントも、圧倒的なスピードで切れ込んできたわけでもない。パスを受け取った国見は、ふわりと宙を飛んで、ボールをリングに入れた。飛ぶときも着地したときもまるで足音のしないかのような、国見のダンクであった。

(シーン42)

 高橋拓之には本人も気づいていないような隠れた才能がいくつかあった。その一つが今のような局面で素早く状況を判断し柔らかなパスを出すことが、力勝負で屈強な選手が揃うバスケットのインサイドの選手の中では飛びぬけて上手かった。けれども本人はまだそれに気づいてもいない。


(シーン43)

 ダンクを決めた国見に対して、小林が何かを叫びながらハイタッチをしにいく。ディフェンスに戻っていく国見と小林に対して、高橋拓之と亮太が何か手を叩きながら言葉をかけている。この頃は四人でプレイすることが本当に楽しくて仕方がなかった。

 地方都市の郊外の、スポーツ推薦も何もない、ごく普通の何でもない高校に偶然集まった四人の才能が光り、輝きを見せていた。


(シーン44)

 帰りの列車の中、勝利もつかの間、次の対戦相手を知った高橋拓之と亮太が言葉を失っていた。それを見て、小林が声をかける。

「どうしたんですか?」

 普通、声がかけられないくらい緊迫した顔を二人はしていたのだが、それでも明るい声で話に入っていけるのが小林の良いところであった。

「次の相手だよ」と高橋亮太。

「次の相手は、県の優勝校で、毎年全国大会に行っているところだ。」と高橋拓之。

まず学校としての成り立ちが違っていて、スポーツ推薦でどんどん強い選手が入ってくる。小林のように高校からバスケットを始めた選手なんて一人もいない。学校としても勉強は二の次で、全国大会で一つでも多く勝ち進んでほしいと考えている。

「お前くらい速くてずっと上手い選手だって別に珍しくないんだからな」

 そう高橋亮太が小林に言うと、隣から思いがけない声がした。

「でもそんな学校に、オレらが勝ったらすごくないですか?」

 国見だった。こんな風に国見が、話の輪の中に入ってくること自体が珍しいことなのに、しかもこんなに強気な発言だ。

「そうだな。」

 高橋拓之はそう答えると、何だかおかしくてまず小林と高橋亮太が笑ってしまった。何がおかしいんだよ、と言いながら高橋拓之もまたつられて笑いだすと、国見も何となく笑っている。

列車の窓の外、大きく入り込んだ湾の上、大きな入道雲、青い空、そしてきらきらきらきらと輝く海が見えて、大きなカーブを描きながら列車は海岸線の坂道を登っていく。


(シーン45)

試合前、ロッカールームで一人、高橋亮太は音楽を聴きながら目を閉じて集中を高めていた。それを見つけて、高橋拓之が後ろから肩を叩いて、それから拳を合わせる。

「今日もよろしくな。」

 三年間、二人でチームを引っ張って来た。最初は上手く行かなかったり、お互いに譲り合わずにぶつかったり、先輩と衝突したり、いろいろあったけれども、それもこれもこの大会で、負けてしまえば全てそこで終わり、二人は引退をして受験に向けて新たなスタートを切らねばならない。落ち着いた性格で優等生の高橋拓之が部長として顧問の教師たちとやり取りをして、口は悪いけれど面倒見のいい高橋亮太が部内の下級生たちをまとめた。いいコンビだったと思う

「悔いのないようにやろうな。」高橋亮太がこちらを見ずに言う。

 高橋拓之は小林と国見にも拳を合わせに行く。今日はこいつらと一緒に勝ちに行く。相手は格上で、去年の県大会の優勝校で全国大会の常連だけれど、それでも諦めずに勝ちに行く、勝ちに行くのだ。

 ただ今日の国見はさすがに緊張をしているのか、何だか様子がおかしいな、と高橋拓之は思った。


(シーン46)

 高橋拓之、亮太、小林勇太、国見良寛、この四人が一緒に試合を戦うのは、この夏のこの大会が最後で、そのあとは違う道を歩むこととなる。彼らのうち、誰かが残り、そして誰かが去ることになるのだが、それは少し意外な結果となるかもしれない。しかし、今は大事な試合の前で、彼らはそれだけに集中をしている。


(シーン47)

 試合の直前、選手たちはシュート練習やウォーミングアップ、ストレッチとそれぞれに余念がない。そんな中、一人の選手がこちらに歩いてくるのが見えた。その選手は慣れた様子で、高橋拓之、亮太それぞれと拳を合わせ、挨拶をした。

「いい試合にしましょう。」

「お互い怪我のないよう、よろしく。」と高橋亮太。

 どうも高橋拓之、亮太とは今までにも試合を戦ったことがあるのか、親しげにその後も会話をしている。

細い、と小林は思った。陸上の短距離を走っていた小林からすると、信じられないくらいに細かった。速く走るためには強く腕を振らなければならない。そして強く腕を振り、脚を高速で回転させても体がぶれないように、腹筋や背筋など体を支える筋力が必要とされる。しかし今、目の前のこの選手はバスケ強豪校の選手にはもちろん、制服を着ていたら運動部の高校生にすら見えないかもしれない。陸上の選手としては、絶望的に細い二の腕、薄い胸板、身長が少し高いくらいで、つるんとした顔をして長い前髪の、どこにでもいそうな今どきの高校生であった。

「あいつが向こうのエースで、全国のスターだよ」

 彼が戻って行ったあとで、高橋拓之が言う。お前がマークだな、と高橋亮太が気の毒そうに言う。

 その時、向こうのコートに国見がいるのが見えた。同じように向こうの選手の一人と言葉を交わしていて、それは国見の性格を考えると意外なことであった。

「あれは———春口だな。あいつは向こうの一年生エースで、何でもできるタイプのフォワードで点取り屋だ。」と高橋拓之。

「確か中学の時に全国を制覇しているはずだぞ」と高橋亮太が言うと、思わず小林が息を呑む。

「知り合いか?」

 向こうから戻って来た国見に、小林が声をかけると、ああ、と面倒くさそうに国見が応える。

「でも、もう昔のことだ」

 そう言って、シュート練習に戻って行ってしまった。


(シーン48)

そして、試合が始まった。


(シーン49)

 磯部友美はスタンドからその試合が始まるのを見つめていた。今日の相手は強いらしい。自分のことのように、緊張をして逃げ出したいような、何かに祈りたいような気持になっていた。体育館の中を見回すと、相手側のスタンドに、今までの試合と違って大勢の応援の人たちが見えた。コートの方を見ると、さすがにみんな緊張をしているようだった。緊張とは今まで無縁だった小林くんも今日は表情が硬い。国見くんは———あれ、と磯部友美は思った。何かいつもと違う、何だか別人のように、すごく怖い顔をしていた。まるで人を殺してきたあとのような、何かに怯えているような、怒っているような、すごく悪い顔をしていた。

(シーン50)

「何だ、こいつは?」

 小林は自分のマークについてきた春口のディフェンスに今まで経験をしたことのない息苦しさを感じていた。少し気を抜くとボールを取られてしまいそうなくらい、間合いを狭く詰めてくる。全然周りが見えない。前を向かせてもらえない。だからともかく、逃げるようにしてボールを取られる前に誰かにパスを出すしかない。とても点を狙うどころではない。これだけ厳しいディフェンスをしてくるのに、春口は息一つ乱れていない。身長は同じくらい。スピードは同じくらいか、こちらの方が百メートルを走らせたら速いのかもしれない。しかしプレイの判断が早く、自分の行きたいところに先に身体を入れ、ボールに手を出してくるので、息も吸えないくらいだ。コートの上では向こうの方が遥かに速く見えるのではないだろうか。がっちりとした小林に対して、春口はまだ線の細さを残した今どきの高校生といった体格で、涼しい顔でプレイを続けていた。


(シーン51)

 試合前に高橋拓之は今日は自分は脇役、自分からは得点を狙いに行かないで、高橋亮太や小林を助けるようなチームプレイに徹しようと考えていた。そして試合が始まって、自分より頭一つ大きな相手のインサイドの選手のマークについて、改めてその思いを強くした。負けているのは身長だけではない。相手の大きな背中、どれだけ自分が努力してもつかなかった筋肉、その差は明らかで、これから苦しい闘いが待っていることは火を見るよりも明らかであった。自分はこいつより優れた選手ではないかもしれない、でも何とかそれはうまくごまかして見せる。そう思っていると、相手チームのシュートが外れた。大きく弾んだボールはコートの誰もいないところに向かって、こういう誰のものでもないルーズボールを拾うのが、今日の自分の役目だった。ボールに手が届くかどうかのタイミングで、「前!」と鋭く叫ぶ声がした。

 何とかボールを拾った瞬間、相手ディフェンスの手がボールに伸びてきて、よく確認をする間もなく、ボールを大きく前へ投げた。前を国見が走っていた。


(シーン52)

 あれ?と高橋拓之も亮太も小林も思った。それと同時にこれまでの試合で国見がいかに今のようなルーズボールを拾ってきて、それにエネルギーを割いてきたのかに気づいた。けれども今は相手がシュートを打ったタイミングで、前に走っていなかったか?それはギャンブルのような、普通ではありえない選択であった。こうして自分たちの前を国見が走っていくような場面はほとんどなかったので、慌ててそれを追いかけていく。

 長いパスを受けた国見がちらりと一瞬、高橋亮太や小林のほうを見る。その瞬間、一瞬だけ相手ディフェンスの足が止まり、国見へのマークが甘くなる。国見はそのまま走り、誰もいないゴールに簡単なシュートを決めた。

 誰も予想していなかった試合の始まりだった。相手もこちらを研究してきているのだな、と今の動きで高橋拓之には分かった。ボールを持っている国見ではなく、今までの試合で点を取って来た高橋亮太や小林のほうに過敏に反応をして、ディフェンスの寄せが甘くなった。けれどももう今の手は通じないだろう。


(シーン53)

 シュートが外れたあとのボールを拾うことをリバウンドという。単純にボールの所有権を意味するので、どちらがリバウンドを拾うのかは大きく試合の流れに大きな影響を与える。小林はその驚異的な運動能力と運動神経をもってリバウンドを拾う。高橋拓之は高さと体格で劣らない相手に対してはしっかりと体を入れて、先に有利なポジションを取り、リバウンドを拾う。スピードに長けた高橋亮太は抜群の反射神経も活かして、リングから遠くに跳ね返ったボールを拾うことが得意だ。そして国見は、国見はこれといって飛びぬけた特徴のない、目立たない選手のようだったけれども、けれども今のリバウンドを捨てて前に走ったときに高橋拓之は気付いた。これまでの試合の中で、かなりの数のリバウンドを国見は拾っていたのだ。長い手を伸ばして上に飛んだボールに触るのが、相手より先にポジションに入るのが、遠くに跳ね返ったボールに対しても反応するのが、それぞれほんの少しだけ相手より早い。そして五分と五分の状況の中でも相手に決して負けず、最終的にボールを自分のものにしてしまう。

しかしその国見が、今日はリバウンドを捨てて暴走ともいえる速攻を見せた。そしてとりあえず今は、格上ともいえる相手に先手を取ったのだった。


(シーン54)

 走る、ボールをもらってシュートを放つ、その一連の動きに一切の無駄がなく、迷いもない。マークに着いた小林は気がつくとスリーポイントを打たれていて、ボールはふわりとゆっくり美しい放物線を描いて、バックスピンのかかったボールはそのままリングの真ん中を通過していった。

 細い肩、細い腕、細い脚、長い前髪、女の子のような顔、誰もつるぎのことをバスケ強豪校のエースだとは思わないだろう。身長は小林とほとんど同じ、少し高いくらい。剣はほとんどドリブルをつかない。あっと驚くようなパスをするわけでもない。ただマークを外すために走り、ボールをもらい、シュートを放つ、それだけで全国でも名の知られた選手になった。

 剣が走り、小林が追いかける。厄介なのは、相手のインサイドの大柄で屈強な選手が気が付くと、小林の横や後ろに立っていて、剣はその横を走り抜けていく。剣は全力で走らない。立ち止まっていたかと思うと、急に走り出してその一歩目が速い。スリーポイントラインを弧を描くように走ることもあれば、ゴール向かい、反対側のラインまで走り抜け、スリーポイントを狙ってくることもある。小林はまるでそれを止めることができない。


(シーン55)

 高橋亮太は剣、そして彼にパスを出す前島のことを何となく知っていた。同学年で同じ県で小さな頃からずっとバスケをやっていれば、何度か対戦したり県選抜の合宿で一緒になったりもしてお互いの特徴はもう分かりきっている、少なくとも高橋亮太はそう思っていた。

 試合前、小林には剣のスリーポイントに気をつけろ、と言っておいたが、案の定、分かっていてもなかなか止められるものではない。彼にパスを出す前島は典型的なアシストに徹するタイプの司令塔で、スピードもないし外もない、得点もほとんど狙ってこない、何でスターターで使っているのか分からないレベルだったけれども、ドリブルとパスだけは抜群にうまい。スピードなら圧倒的にこっちが優位で、今日は小林が攻守に苦戦をしているから自分がいかに点を取れるかが鍵だな、と高橋亮太は思った。

(シーン56)

 前島は不思議な選手だ。もともとは背の低い、ぱっとしないインサイドの選手だった。けれどもドリブルの上手さと時折見せるパスのセンスに気づいた監督が剣の相棒として、チームの司令塔、ポイントガードとしてポジションをアウトサイドに移してから、才能が花開いた。

 ポジションを外に移してから、前島は自分より遅い選手に出会ったことがない。常に試合では自分がスピードにおいては劣っていた。けれどもポイントガードとしては大きな体は相手からボールを隠しておくのに役立ち、柔らかなドリブルから、ほんの一瞬の隙をついて剣が欲しいタイミングで、欲しい位置に彼にパスを通し続けて来た。目立たないけれども、それは剣のスリーポイントと同じく一種の芸術の域に達するような、彼に天が与えた才能であった。

 バスケットではルール上、激しく相手を倒すようなぶつかり方や、体から離れた手で相手を押したりするようなことは禁止されているが、五分五分のぶつかり合い、押し合いは黙認されていて、コートの上では常に体がぶつかり合っている。ドリブルをついて前島が高橋亮太にぐいと体を寄せると、体が一回り小さく体重も軽い高橋亮太は一瞬、足が止まる。体の軸も少しぶれる。その隙をついて剣にパスを出す。今日も楽にパスが出せそうだな、と前島は判断をした。

 そしてこいつが点を取りに来てくれると、助かる。こいつはスピードはあっても外からのシュートがないから、加速する前に体を当てて、抜かれるのを少し遅らせたりエネルギーを使わせられたりすれば、うちのでかいインサイドの選手がブロックをしてくれる。

 自分は一対一ではこいつにかなわないのかもしれない。けれども得点は剣や春口が取ってくれる。ディフェンスでは誰かがカバーに来てくれる。バスケットは頭と味方を使う競技で、五人で戦っている限り、前島は高橋亮太に負ける気がしなかった。


(シーン57)

 ボールが外に出て、ゴールの下、ボードの後ろから前島がスローインの位置に立つ。その目の前に剣が立って、小林がそのマークにつく。ここに立ってどうするのだろう?もしこのままボールをもらっても、運動能力に勝る自分はブロックできるだろう。そう思っていると、ゴール下の台形の左右のラインのそれぞれに相手のインサイドの屈強な選手が壁として立つ。なるほどね、と小林が思う間もなく、剣が一歩、左に踏み出す。しかしそれはフェイントでゴールの右側に向かって走り出し、そこに立っていた壁の横をすり抜けていく。姑息なことをするな、しかしこれはスリーポイントラインまでついていけるぞ、と小林が思っていると、剣は壁として立っていた選手の周りをぐるりと回って、つまりUターンをして、ゴール下に戻って行った。その後ろについた小林はどうすることもできずに簡単にゴール下のシュートを許した。剣は決して足は速くないし、攻めているときに全力で走ったりもしない。けれども今みたいに、どうにも止められない。小林が途方に暮れていると、「前!」と鋭く叫ぶ声がした。

前島がスローインをして剣が得点を決めた。相手のインサイドの選手がゴールの両脇に壁として立っていた。つまり相手の選手の大半がゴール下に集まっていたことになる。国見は多分、剣がボールをもらったくらいのタイミングでスタートを切っていたのに違いない。素早く高橋拓之がボールをもって外に出て、スローインから大きくボールを前に投げると、それは懸命に戻る春口の手のほんの少し先をかすめて、国見に渡り、それはそのまま簡単なシュートで、ゴールに吸い込まれる。

高橋拓之には、いくつか自分でも気づいてない才能があった。その一つが今みたいに一瞬の判断で、絶妙の長さとスピードで、パスを出せることであった。国見も長いパスはうまかったが、高橋拓之のそれはまさに天の与えた才能であった。


(シーン58)

「同じ二点だ」

 ゴールを決めて、ディフェンスに戻る途中、国見が春口に近づいて言う。

「そしてまだ同点だ」

 それに対して、春口はにやりと笑ってこう言った。

「いいだろう。中学の時の決着をつけようじゃないか。」

「いや」国見が応える。

「もう終わったことだよ」

 コートの上の誰もが、何となく二人の関係が分かったような気がした。


(シーン59)

 国見が相手チームの選手に何かを言っている。それはとても珍しいことで、それを磯部友美は観客席から見ていた。何を言っているのかは分からない。

すぐにプレイが始まり、バスケットシューズの床に擦れる音、ボールの弾む音が体育館にこだまする。

今日はずっと国見くんは怖い顔をしている、そう磯部友美は思った。そしてディフェンスに戻ると、さっき話をしていた相手のマークにつく。絶対にパスを入れさせないぞ、そんな声が聞こえてきそうな、目の前の相手にだけ集中をした守りだった。けれどもあれでは今までの試合でやってきたようにチームのカバーディフェンスに入ることはできない。リバウンドも捨てて、今日はずっと一人でギャンブルのような速攻を繰り返している。

相手の攻めでボールがインサイドの選手に渡り、そこから春口にパスが出る。それは国見の背中のほうから飛んできたボールで、絶対に国見には見えないはずのパスだった。けれども国見は手を伸ばし、弾かれたボールはそのままコートの外に出た。たぶん春口の視線と、受け取ろうとした手の動き、それだけで背後からのパスに反応をしたのだろう。怖いくらいの集中だった。

 外からの剣のシュートが外れ、ボールが小林のところにこぼれてきた。前を見ると、国見がもう走っていて、そこにパスをするけれども、春口もしっかりと読んでいて、簡単な速攻にはさせない。小さく、鋭いフェイントを一つ二つ入れただけで、中間距離から打った国見のシュートは外れて、何やっているんだと高橋亮太が頭を抱える。

 今日の国見くんは何か変だ、と磯部友美は思った。


(シーン60)

 やっぱり今日の国見はおかしい、と高橋拓之は思っていた。バスケットではタイムアウトといって、作戦会議と休憩を兼ねた時間を試合中に取ることができる。タイムアウトの時に国見が自分から話し出すなんてこれが初めてだ。いつもは高橋亮太と拓之とでタイムの時は仕切っていたのだが、さっきから国見は高橋亮太に小林とのマークの相手を交換するように言っていた。

 多分、百メートルを一直線に走れば、ずっと小林のほうが剣よりも速いのだろう。けれども小林は前に進む力が強い分、急には止まれないし、曲がれない。それに比べて、剣は一歩目が軽くて速い。小林の経験のなさも手伝って、この試合で剣は好きなようにボールを受けて、シュートを放っていた。確かにそれなら小回りも利いて、小学校からバスケットをやっている高橋亮太のほうがマークに向いているかもしれない。

「おれもそれがいいと思うよ」と高橋拓之が言うと、黙って下を向いていた高橋亮太は「分かった。じゃマークを換えてみよう」と高橋拓之の方を向いて言った。

「でもお前はギャンブルのような速攻はするな。それから一年生が作戦の口出しはするな」

 高橋亮太が怒った顔で国見に言って、ああ、昔と一緒だ、と高橋拓之は思った。ただ前は自分たちが口を出して怒られる一年生の方だった。

 驚いたことに国見はまるで注意されたことを気にしていないかのように、もう一つ、高橋亮太に注文をつけた。

「剣さんがシュートを打ったら、そのまま裏を狙って速攻に走ってください」

それを高橋亮太は聞こえないふりをした。


(シーン61)

 タイムアウトが終わって、選手がコートに戻ってくる。おや、と前島は相手のマークを見て変化に気づく。何やら高橋亮太が渋い顔をしながら剣についている。そして自分には剣についていた一年生がマークについている。一つ二つドリブルをついて柔らかくフェイントを入れてみる。すると一年生は過剰に反応をして重心がずれる。おや、こいつは素人だぞ?前島は一瞬で見抜く。スポーツ推薦なしの監督もいない学校だと、ちょっと運動神経が良ければ、素人でもスタメンになれてしまうのか。

 試しにどんとぶつかってみる。こいつは高橋亮太と違って少しも押し負けない。それどころか、お?手を伸ばしてきてくる。もう少しでボールを取られるところだったけれど、今みたいな手の出し方はファウルにもなりやすい。やはりこいつは素人だけれども、運動能力自体はなかなかのものがあるのかもしれない。

 春口には背の高い一年生がぴたりとついている。こいつは試合開始から春口のことしか頭にないようなディフェンスをして、今もパスが絶対に渡らないよう細心の注意を払っている。その代わり、カバーディフェンスもリバウンドも参加をせず、速攻になると無茶な暴走もして、春口に対して強引に一対一を仕かけている。二人は中学の同級生のようで、ひょっとしたら、と前島は思う。こいつは試合に負けても春口には負けないぞ、とか思っているのではないか?気に入らない。気に入らないぞ。前島が一つ小さく鋭いフェイントを入れると、小林がそれに反応をする。遠くから剣がスリーポイントラインに沿って走ってきて、そこにパスを入れる。


(シーン62)

 剣のマークについていると立て続けに大男が壁として立って、進路を阻む。その横を剣はすいすいとすり抜けていく。一人目はよかったのだが、二人目の壁を抜ける時に少しマークが甘くなってしまった。いかん、と高橋亮太は思ったが、剣は小鹿のように軽やかにスリーポイントラインをなぞるように走っていき、パスを受けると簡単にシュートを放った。まるで約束されたように、ゆっくりと宙をまったボールはリングの真ん中を通過して、スローインになり、ボールをもらいに行くと、国見が声をかけてきた。

「剣さんがシュートを打ったら、そのまま裏を狙って走ってください」

何?と思って、血が逆上するのが分かった。鈍い音がして、それは、気がついたら国見の顔を殴っていた音であった。


(シーン63)

「うるせえな!お前こそ個人的な思いを持ち込んでるんじゃねえのかよ!先輩に指図しているんじゃねえぞ!」

んでいた。殴られた一年生は顔を押さえて倒れたままで、剣がそれを見ていると前島が話しかけてきた。

「自滅だな。相手はめちゃくちゃに自分たちから崩れているよ。ただあいつ、」と倒れている一年生を指さす。

「あいつは気に入らないな。あいつは周りを捨てて、春口だけを守っている。春口にボールを集めて、あいつの心をしっかり折って勝ち切ろうぜ」

 剣はそれを肩をすくめて、勝手にしろとでもいう表情だった。


(シーン64)

「お前、素人だろ」

 春口がボールを持ったまま、小林に言った。国見はいったん、ベンチに下がって治療を受けるように審判に言われて、頬に氷を当てて休んでいた。頬骨の辺りが赤黒く腫れているが、もう間もなく、コートに戻れるはずで、その間、小林が春口についていた。

「お前は素人だ」

 その瞬間、春口は左に一歩だけドリブルをついて、そしてそのままジャンプシュートを放った。それに対して小林は実質、何もできなかった。点が決まり、スローインのタイミングで国見が戻る。あんな奴をこれまでずっと抑えていたのか、小林は弾む息の中で、コートのどこにも自分の居場所がないように感じていた。その時、小林に国見が何かを話しかけにいった。


(シーン65)

 春口が小林のディフェンスにつくと、小林はボールを取られないようにするだけで精いっぱいだった。その時もボールをもらった小林は何もできずに、何とか高橋亮太にボールを戻すだけしかできなかった。ボールをもらった高橋亮太には前島がぴたりと張りついていた。外からのシュートはないと割り切ったようなディフェンスで、強引に抜きにかかるのも難しそうだった。仕方なくインサイド、フリースローラインの辺りに走ってきた高橋拓之に取りあえずボールをあずける。いい形でボールをもらえたわけではないので、高橋拓之にもしっかりとマークがついていて、さてどうするかと思う間もなくインサイドに飛び込んでくる選手がいた。国見だった。マークについている剣より国見は一回り身体が大きい。パスをもらった国見は剣に身体をあずけるようにしてシュートを打ち、それを決めた。



(シーン66)

「決まりだな」

 前島がボールを運びながら、剣に言った。今の場面、国見が小林に何かを言いにいって、その直後、小林がボールをさばいた後、スクリーンに立って剣を遅らせていた。あいつが相手チームで一番厄介だ。前島は確信した。

「春口、」

「はい」

「お前があいつのマークだ」

 春口と国見の身長はそう変わらない。今のようにそう易々と点は許さないだろう。

「攻めでもお前にボールを回すぞ」

 前島に言われて、春口は剣を見た。剣は肩をすくめて何も言わない。

「あいつにしっかり勝って、勝ち進むぞ」

 前島は国見を見ながら、ぼそりと言った。


(シーン67)

 前島がボールを運んでいくと、ディフェンスの変化に気づいた。自分のマークの素人っぽい一年生がやたらと間合いを詰めてくるのだ。通常、間合いを詰めるとボールへのプレッシャーを強められるが、抜かれやすくもなる。しかし前島の場合、剣や春口にボールを回していきたいタイプであり、実は外からのシュートが上手いわけでもなく、抜いても小林はすぐ戻ってまたへばりついてくる。これもまた入れ知恵だな、前島はちらりと国見を見た。本当に厄介なやつだ。


(シーン68)

 春口は国見に簡単には抜かれない。何とか春口をかわしても、ゴール下には大柄で屈強な選手が待っている。国見はきれいに抜いて豪快にダンク、なんて最初から狙っていないようだった。ボールをもらうと本当に小さく鋭いフェイント、ドリブルをついて、ほんの少し間合いが空くと、その隙にシュートを狙った。それはしっかりと相手を崩した攻めではなく、近くからのシュートでもないので入ることもあれば、外れもしたが、小林にはその凄さが分かった。春口を相手に確実にシュートを打つところまでいっているのだ。そして春からずっと、国見が今日みたいな相手を意識して練習してきたことも分かった。


(シーン69)

 小林が素人丸出しの、不思議なディフェンスをしている。でもまとわりつかれて前島は明らかにペースを乱されて、剣や春口がいいタイミングで走りこんできても、これまでのようにパスを出すことができない。そこで今回、前島は二人にパスを出すように見せながら、インサイドに直接パスを入れた。これは小林は絶対に許してはいけないプレイで、ゴール下の高橋拓之はいきなりピンチになる。目の前の大きな背中がさらに大きく見え、気のせいか、相手はにやりと笑ったように思えた。バスケットのゴールが高いところにある以上、ゴール下では頭の良さやテクニックではなく、体格差がものを言う。こいつは自分が相手なら本来いくらでも点が取れそうなのに、剣や春口の壁としてプレイをしている。それは全国のより強いチームを相手をする場合を考えたチームの規律であり、戦い方なのであろう。しかし今は絶好のパスを受けて、点を狙って一つドリブルをついて体を寄せてくる。重たい。この時点で高橋拓之にできることはかなり制限される。少しでも打つのを遅らせるようボールにプレッシャーをかけたかったが、相手の肩と大きな背中とでボールはまるで見えない。あとは外れるのを祈るだけだった。

 相手がシュートを打とうとすると後ろから飛びかかる影が見えた。それは瞬く間にボールを叩き落として、これまでの試合、そうしたカバーディフェンスに絶大な効果を発揮してきたのは国見だった。

「よっしゃ!」

 しかし今は小林がブロックに飛んでいた。これまでほとんどいいところのなかった小林だが、今日はあまり点は取れないかもしれないけれど、これまでの試合で国見がやってきたようなことをやってみようと思ったのだった。

 ボールを持たせたら春口のほうが小林よりずっと速く見える。しかし単純に百メートルを走らせたり、垂直飛びをやらせたりしたら小林は超一流で、コート上の誰にも負けないのだった。


(シーン70)

 高橋亮太は面白くなかった。これまでチームの中心は自分で、常にチームの先頭に立ち、自分の意見を通してきた。けれどもまとまらない思いを試合は待ってはくれず、そうこうしているうちに相手が攻めてくる。剣がまた走り出して、壁が一人二人と立っているが、今までより上手くついていける。確かに国見が言うように、小林より小回りの利く自分の方がマークに向いているのかもしれない。剣がボールをもらう。飛んでもどうせブロックはできないから、シュートを打つまでにどうにか少しでもボールに手を出してプレッシャーをかけなくてはならない。もちろんボールを叩ければそれが一番だが、少しでもシュートを打ちにくいようにできればそれで成功だ。剣がシュートを打つ。その時、高橋亮太は自分たちのゴールではなく、相手コートが見えた。そこには誰もいない、大きなスペースが広がっていた。

(シーン71)

剣はスリーポイントはうまいが、運動能力自体は決して高くない。大体スリーポイントラインの辺りにいるから、相手が攻めに転じた時はマークの選手は相手はゴールに近い位置にいることになり、速攻のチャンスとなる。

「前!」と叫んで、高橋拓之が長いパスを出す。国見の指示に従うわけではないが、高橋亮太はすでにスタートを切っていた。


(シーン72)

 高橋亮太が走り出すのが、前島に見えていた。


(シーン73)

 真後ろからのボールをキャッチするのはとても難しいので、速攻ではいったん外に膨らむようにして進路をとる。高橋亮太が長いパスをキャッチするとゴール下に走る前島の姿が見えた。外からのシュートはないと決めつけたような守り方だった。微妙に左右にフェイントを入れ、歩幅とスピードを変えて、待ちかまえている前島との間に、ほんの少しのずれを生み出す。こうした動きはバスケットを始めた時から何回も何万回も繰り返してきて、本能的に無意識のうちにすることができる。その分、少しスピードとジャンプの高さは落ちるけれども前島にはブロックされないだけの、ほんの少しのずれを生み出すことができて、これまで何回も何万回も繰り返してきたような、そのレイアップは絶対の確信をもって決まるはずであった。しかしボールが手を離れた瞬間、それは無慈悲に後ろからのブロックでコートの外まではたき落された。春口だった。彼が後ろからブロックに飛んでいたのだ。

 そうだった、と高橋亮太は思い出していた。自分が中心のチームではある程度までは勝ち進めても、どこかで壁にぶつかった。春口は自分と同じくらい速くて、そして自分よりもずっと高い。こういう選手がいるような、つまりは強豪相手には勝てたことがなかった。たぶん、これまで一度も。

春口が前島、そして剣とハイタッチをしている。それを見ていると、

「今のでいいんです。どんどん走ってください。相手も裏を突かれるのが怖くなってくると思うので」

 国見がスローインのため、ボールを拾いながら声をかけてきた。こいつは、と高橋亮太は思った。こいつはオレが怖かったり、憎くはないのだろうか?

国見の頬骨のあたりは赤黒く腫れている。何事もなかったかのように国見はスローインを入れてきた。



(シーン74)

 国見がボールを持ったまま、春口と向き合っている。一つ隙を見せたらやられる、両者がそう思っているからか、二人とも少しも動かない。

 その時、遠くから小林が走って来た。そして春口の横に立ってスクリーンの役割を果たすかと思いきや、いきなり反転して、ゴール下に飛び込んでいく。それは予期していなかった動きで、小林のマークについていた剣は一歩遅れて、ついていこうとした。すると、そこに高橋拓之が壁のように立っていて、剣を遅らせる。小林の動きに意表を突かれた春口は、国見のパスもまた止められない。ゴール下の深いところでパスを受けた小林に、それでもなお剣がディフェンスをしようとするが、がつんがつんと小林が体をぶつけていくと、最後は剣は無駄なファウルを取られないよう諦めて、簡単な得点を許した。

「よっしゃ!」

これまであまりいいところのない小林だったが、この男が得点するとチームの雰囲気も明るくなる。点を決めたあとで、小林は改めて、剣の線の細さには驚いていた。身体能力なら自分の方が上なのだろう。この人には本当にスリーポイントしかないんだ、でもそれで全国でも有名な選手になったのだ、と小林はバスケットの奥深さと、剣への尊敬の念を感じずにはいられなかった。


(シーン75)

 今の一連の動きは、素人の一年生にはあまりにもできすぎていた。どうせこれも入れ知恵だろう、と前島は思った。今のは春口から剣にマークが代わったその隙をついてのものだったが、もともとインサイドの選手で、体格もがっちりとした自分ならあんなに簡単に、ゴール下でやられないだろう。

 前島はチームを集めて、高橋亮太に剣、小林に自分がマークにつくことを告げた。同じ手はもう食わないぞ、と前島は思った。


(シーン76)

 高橋拓之にはいくつか自分でも気づいていない才能があった。小林の動きは直前に国見が吹き込んだものだったが、とっさに小林に対してスクリーンに立ったのは高橋拓之の判断であった。今日の相手に対して、得点はあまり期待できなかったが、高橋拓之は実に頭のいい選手であった。


(シーン77)

 前半が終わった。結果として、春口にボールを集めたことは、国見をマークに集中させやすくさせてしまったのかもしれない。国見は春口だけを見ているようなディフェンスを続けていて、ボールをもらった時点で、かなり春口に不利なくらい国見が張りついていた。点差は四点差、一つ流れが変われば、逆転可能な点数で、高橋亮太たちにとっては大健闘といっても良い結果であった。


(シーン78)

 ハーフタイム、ロッカールームに戻るまでの長い廊下を歩いているときに、国見の赤黒く腫れた頬骨が見えた。それは自分がやったことで、こいつも生意気だったけれど、できることなら謝りたいと高橋亮太は思った。


(シーン79)

 高橋拓之にとっては上出来な前半であった。相手が自分を狙って、インサイドにボールを集めていたなら、前半のうちに勝負は決していたかもしれない。けれどもそうはならなかったし、自分が得点を重ねたわけではなかったが、それ以外の部分でチームに貢献できたところはあったはずだ。さてしかし、と高橋拓之は国見と高橋亮太の顔を見た。二人とも目を合わせようとしない。彼らの部に顧問はいても監督はいない。こういう時、大人がいると助かるかもしれないのだが、今さらそんなことも言っていられない。

 ハーフタイム、普通のチームは休憩を取りながら、前半の反省と、後半に向けての作戦を練るのだが、普段はそれを高橋亮太と拓之とで行っていたが、高橋亮太は今日は下を向いたままでいる。さて何ていったものか、と高橋拓之が考えていると、国見がぼそりと口を開いた。

「あのう、」


(シーン80)

 重い、空気が重すぎる。さすがの小林も何も言えないくらい気まずい雰囲気のまま、誰も口を開かず、時間だけが過ぎていった。相手と闘っているときには相手のことを考えていられた。しかし今日の自分たちは、自分たちのチームワークに問題を抱えていた。いや、ひょっとしたらずっと前から問題を自分たちは抱えていたのかもしれないが、ともかく高橋亮太か拓之が何か口を開くのを小林は待っていた。すると国見が口を開いて、馬鹿かこいつは、と小林は思った。

「後半はこんな作戦でいきたいんですけど、」

 国見が言い終わらないうちに、高橋亮太が腰を上げて、そして何も言わずにロッカールームを出て行った。最悪だ、と小林も高橋拓之も思った。しかし国見は何も起こらなかったかのように話を続けた。

「この作戦は二人にかかっています。」



(シーン81)

 ロッカールームを出て、高橋亮太は歩いていた。どこへ?冷たい蛍光灯の光、コンクリートの壁、長い廊下を一人、歩いていた。こんなことをしたのは自分のバスケ人生の中でも初めてだった。最悪だ、自分は最悪だ、謝っても良かったのに、謝るはずだったのに、自分は最悪の人間だ。

外に出て、駐車場の中、一人、深く息を吸った。遠くで蝉たちが鳴いていて、どこまでも澄んだ、青い空が広がっていた。季節は夏であった。

 結局、ハーフタイムの間、高橋亮太はロッカールームには戻らなかった。


(シーン82)

 前島はコートに出てきた相手チームの選手の顔を見て、おや、と思った。誰も何も言わず、目も合わせないで、ウォーミングアップをして試合の再開を待っている。点差は四点で、一つ流れが変われば勝負は分からないのに、チームを集めて鼓舞するような掛け声を上げる選手もいない。

よし、これなら勝てるぞ。チームを集めて円陣を組み、相手チームにまで聞こえるような声を、前島は上げた。



(シーン83)

「いい試合にしようぜ」と高橋拓之は、コートに戻って来た高橋亮太に声をかけた。これが最後かもしれないから、とは言えなかった。それ以上、声をかけてほしくはなさそうだったので、その場を離れてアップを続けた。

 もうすぐ後半が始まる。こんなに興奮して落ち着かないのは、いつ以来だろう?まるでバスケを始めたころ、昔にまた戻ったみたいだ。コートの向こう、前島を中心に円陣を組んで、声を上げているのが聞こえた。


(シーン84)

 後半が始まった。いつものようにボールを相手コートに運んでいるときに、前島は再び異変に気付いた。相手のインサイドの選手が自分のマークについて、スリーポイントラインの外にまで出てきている。大きく手を広げて、高橋拓之はそこで待っていた。そこからの景色は彼にとって、長らく馴染みのないものだった。

バスケットを始めたころ、初めてボールをついて、ただそれだけでわくわくしていたようなころ、そのころに見ていたような景色が今、彼の前に広がっていた。


(シーン85)

 左右にドリブルの揺さぶりをかけても、小林のようには引っかかってくれない。ドンとぶつかっても、高橋亮太のように足が止まったり、軸がぶれたりしない。うかうかしているとボールに手を伸ばしてくる。こいつは嫌だな、と前島は思った。剣や春口にテンポよくボールを回すことから彼らの攻撃は始まる。その歯車を狂わされるわけにはいかない。またドンとぶつかっても、むしろ向こうから体を寄せてきてボールにプレッシャーをかけてくる。これは嫌だな。そのマークを受けながら前島は何とか春口にパスを出す。でもボールを奪われるほどではない。

 春口に対しては国見が引き続き、べったりとついている。分かっているよな、と前島が春口に視線を送ると、春口はインサイドにパスを入れた。小林が自分より一回り以上大きな選手のマークについている。

 この作戦は失敗ではないのか?何を狙っているんだ?前島は思った。


(シーン86)

 ボールを持つと、その大きな体をドリブルしながらぶつけてきた。こいつとは全然体格も違うし、背でも負けている。しかし小林は春口に感じたような圧倒的な怖さは感じていなかった。小林の圧倒的なスピードはその筋力とバネからくる。一つ二つドリブルをついて押し込もうとするが、小林は後ろに下がらない。しびれを切らして、相手が振り向いてシュートを打とうとする。この際、押し合う水平方向の動きから、垂直方向への切り替えが筋肉に求められる。自分より明らかに大きな選手に押し込まれて、やや後ろ体重になっていた小林だが、相手に反応して、ブロックに飛んだ。そのジャンプの高さにも、水平方向の押し合いからの切り替えの速さにも、彼の天賦の才能が如何なく発揮された。何と相手の大きなインサイドの選手のシュートを一対一で、完璧なブロックをしてしまったのだ。

 大きく弾かれたボールは宙を舞い、国見のところに収まる。高橋拓之と亮太が速攻のスタートを切る。


(シーン87)

 バスケットの世界には〔tweneer〕という言葉がある。中間の選手というような意味だが、どっちつかずの中途半端な選手という意味で使われることが多い。高橋拓之はまさにそれでインサイドの選手としては背が足りず、外からのシュートが上手いわけでもなかった。しかし彼には自分でも気づいていなかった可能性がまだいくつか眠っていた。少なくとも、前島より彼は足が速かった。

 国見が高橋拓之に向けて長いパスを送り、それは美しい放物線を描いて、それを追って高橋拓之は左サイドを、反対の右サイドを高橋亮太が猛然と駆け出している。


(シーン86)

 まずい、と前島は思う。まだ味方は陣形が整っていない。前島は自分のマークについた前半はインサイドにいた選手を追いかけていく。意外と足が速くて、骨が折れる。前島のマークについてアウトサイドの守備になると、必然的に速攻に参加しやすくなる。国見からの長いパスを受け取ったそいつは何の迷いもなく、インサイドに突っ込んでくる。くそ、こいつのスピードは意外と厄介だ、前島は何とかそのマークについて、速攻を遅らせようとする。一つ二つ、そいつがドリブルをついて、前島が何とか間に合ったかな、と思った瞬間、そいつは前島の背後、そいつから見て斜め後ろ方向にバウンドパスを送った。小林だった。インサイドでブロックをした後で、猛スピードで、獣のようにここまで長い距離を走って来たのだ。

 ただ百メートルを走らせれば小林はコート上の誰よりも速い。ボールを受け取った小林は何かを叫びながら、思い切りダンクをした。これまでなかなか思いの通りにはいかなかった彼にとって、今日一番の瞬間であった。


(シーン88)

 速攻になると、高橋拓之はまだ相手の陣形が整う前にインサイドで勝負することができた。前島がそれに対応したが、高橋拓之のプレイは同じくらいの身長の相手だと途端に冴えわたる。そして何とか前島が攻撃を遅らせることに成功しても、小林が長い距離を走ってインサイドに突っ込んでくる。インサイドの大柄で屈強な選手は、とてもそのスピードについていくことはできない。そして高橋拓之は小林だけではなく、高橋亮太や国見に対しても効果的に速攻からパスを展開することができた。これもまた彼自身が気づいていなかった才能の一つであった。高橋拓之も小林も、それぞれポジションを交換することで、今までとは違った持ち味を発揮していた。

 まずい。これはまずい、まずいぞ。前島は息を弾ませていた。これまで、県大会ではまず感じたことのない危機感だった。


(シーン89)

 前島が、剣に何か耳打ちしてからボールを持ち上がる。いつものようにスクリーンを使ってスリーポイントラインの外でボールを受けた剣だが、中にカットしていった前島にボールを戻す。パスを受けた前島は一つ二つドリブルを高橋拓之を背負いながらドリブルをすると反転し、高橋拓之の顔の横、肩の上を通すパスをした。ディフェンスが一番手が出ない場所だ。そしてさっきよりゴールに近い位置でインサイドの屈強な選手にパスを通した。小林がそのマークについているが、今度こそ身長と体格の差がものを言うだろう。絶好の位置にパスを通された小林は何とかシュートを打つ前にボールを叩こうとするが、それもかわされてシュートを打とうとするので、さっきと同じようにブロックに飛んだ。ブロックの自信はあった。身長では負けていたけれども、ジャンプすればこちらのほうが高さはあるはずだった。けれどもそれはフェイントで、飛んでしまった小林には、もうどうすることもできなかった。相手がにやりと笑って、簡単にシュートを決めようとした。すると誰かがいつの間にか寄って来て、背後から飛んでボールを完膚なきまでに叩き落した。

 小林が少しでも多く時間とエネルギーを相手に使わせたことも大きかったが、国見が春先から何度も見せていた、見事なカバーディフェンスだった。


(シーン90)

 その後も国見は効果的なカバーを見せて、リバウンドやルーズボールにも参加をした。剣がスリーポイントを打つと、高橋亮太が背後を狙って走り、相手にプレッシャーをかけた。高橋拓之も小林も後半になって、ポジションの変更が上手くいっていた。同点、後半開始から五分、ついに同点に並んだ。このまま逆転も狙える勢いだった。

 まずいな、前島が焦っていると、剣がぼそりとこう言って、脇を走り抜けていった。

「ボールをくれ」

 ぞっとするような怖い顔だった。


(シーン91)

 いつものようにスクリーンを使い、パスをもらう。しかし今回はスリーポイントラインよりも少し中に入って、中距離からシュートを狙う。高橋亮太もよくマークについていたが、そのシュートはゆっくりと弧を描いて、リングに吸い込まれていった。ボールをスローインしようとする間に、相手は素早く自陣に戻ってしまう。すると前半と同じようにリセットされて、高橋亮太たちは途端に攻め手を失ってしまうのであった。

 シュートを決めた剣は、いつものように涼しい顔をしている。これだ、と前島は思った。こいつの凄いところはこういう場面で、逃げずにボールを欲しがるところ、そしていつもと同じようにシュートを決めてしまうところだった。運動能力は大したことはないし、シュートを外せば、剣は並以下の選手なのかもしれない。けれども前島の記憶の中で、勝負どころでいつも剣は冷静にシュートを決めてきた。いつもいつも、何でもないような涼しい顔をして。

 この時、高橋亮太は視界の外からのスクリーンに、思わぬタイミングでぶつかっていた。何度も何度も自分より大きな相手にぶつかっているうちに、首から肩のあたりに鈍い痛みが走るようになっていた。


(シーン92)

 バスケットにおいて、もっとも簡単なゴールは相手が戻らないうちに攻めて得点をすることであり、後半から相手の陣形が整う前に、高橋拓之と小林が攻めることで流れが変わったように見えたが、相手がしっかりと戻って来てしまうと、特にインサイドには大柄で屈強な選手もいて守りは堅かった。

 攻め手を失ったときには、主に国見が強引とも言えるシュートを狙った。春口を相手に、ほんの少しの隙が生まれたら、そこからミドルシュートを放った。

 そのシュートはふわりとした軌道を描いて、入ったり外れたりしたが、春口を相手に毎回シュートに持っていけることの凄さが小林には分かった。


(シーン93)

 小林は守備ではインサイド、攻撃ではアウトサイドに回る。相手がシュートを決めて、こちらがスローインをしている間に戻ってしまう場合は別だが、速攻や速攻崩れの時には小林に対してのマークのずれや曖昧さが生じる。

 きれいな速攻は決まらなかったが、外でボールを受けた小林に対して、慌てて前島が外に出て来てマークにつこうとする。前島はまずインサイドの高橋拓之を気にして、味方の大柄で屈強な選手が戻ってマークを任せてから、小林のマークにつかなければならない。後半から前島が小林のマークについていたが、小林はこう考えていた。こいつは春口ほど怖くない。

 外に出てきた前島に対して、小林は中に突っ込むぞ、と鋭くステップを入れる。それだけで前島の足は止まった。ドリブルはつかず、鋭くステップをいれたその足を一歩引いて、小林は外からスリーポイントシュートを放った。それはこれまでの小林からすると、かなりシンプルなプレイで、けれども今までのような好き勝手はさせてくれる相手ではないことは小林にも良く分かっていた。

 小林のスリーポイントは剣のそれとは違って、肩に力が入って、低い弾道で速いスピードで飛んで行ったが、それはリングを通過していった。

小林が何かを叫ぶが、それは本人にも何を言っているのか分からないような、言葉にならない叫びであった。


(シーン94)

 ついに逆転、リードを初めて奪った。相手がタイムアウトを取り、ベンチに下がっていくが、そのタイミングで国見がぺたんとコートサイドに腰を降ろして、靴を脱いで足を伸ばしていた。足がつっていて、選手交代をして少し休まざるを得ない。小林が肩を貸しながらベンチに引き上げていく。

 前半、国見は春口だけを見ているようなディフェンスをし、暴走とも言えるような無謀な速攻を繰り返した。それは自己本位なプレイに見えたが、今はなぜそんなことをしたのか、高橋拓之には分かるような気がした。勝つにはそれしかなかったのだ。ベンチに引き上げてくる国見の顔を見て、すでに疲労の限界にあることが見て取れた。一人で春口を抑え、速攻で先頭を走り、後半からはディフェンスのカバーにも回っていたのだ。それをずっと続けられるわけがなかったのだ。しかし事前に国見がこんな風に戦いたいと相談をしに来ていたら?

高橋拓之は首を振る。自分も高橋亮太も決して許さなかっただろう。だから国見は一人で決めて、それを実行した。今、オレたちがわずかでもリードを奪えていたり、そもそも接戦を演じられたりしているのはこいつのおかげだ。高橋拓之はそう理解した。


(シーン95)

「おい、素人」

 国見が休んでいる間、春口が再びマークについた小林に言う。何だと、と小林が思う間もなく、再び左に一歩、ドリブルをついてジャンプシュート、それを決める。その間、小林は何もできなかった。

「早くあいつを戻せ」と春口がベンチの国見を指さす。

「その上でお前らを倒す」

 嘘だろ、と小林は思った。こいつをずっと国見は抑えていたのだ。


(シーン96)

 国見が少し休んだだけで、再び交代のためにコートサイドに立ったのが見えた。マークについている剣が走り出して、高橋亮太はそれを追う。スクリーンが一つ、二つ、これが彼らの戦い方で、ぶつかったときに、また首が痛んだが、でも彼らのやり方にも大分慣れてきた。小回りの利く高橋亮太の方が、剣のマークには確かに向いているかもしれない。剣がパスを受けて、シュートを放つ、その時にほんの少しでもプレッシャーをかけなくてはならない。そしてシュートが決まるかどうかは気にせず、前に向かって走る。

 リングに当たったボールは大きく跳ね返って、高橋拓之のもとにこぼれる。そこから高橋亮太に向かって長いパスが宙を舞う。三年間、受けてきたパスだ。前島と、少し離れたところから春口が猛スピードで追いかけてくるのが見えるが、パスは絶妙な長さとスピードでもって、高橋亮太に通る。パスを受けながら、高橋亮太は国見がコートにいないことを踏まえ、ここは少し強引でも自分で行くしかないと判断をする。本音を言えば、もう少し安心して休ませていたいところだった。

 横から前島が、そして猛スピードで追いついてきた春口に挟まれながら、高橋亮太は飛んだ。春口のスピードと高さはもうよく分かっていたから、体を寄せてブロックしにくいように飛んだ。これまで彼のバスケ人生において何度も何度も決めてように、少しバランスを崩しながらもブロックを交わして、シュートを放つ。これができなければバスケでチビは生き残れないんだ。

 けれども左右を自分より大きな選手に挟まれて、走りながら飛んでバランスを崩してフロアに叩きつけられるように落ちるときに、痛めた首が少し気になった。だからだろうか、不自然な形で肩から床に落ちて、シュートが決まったかどうかを確かめるその前に、目の前が暗くなった。

 気がついたら医務室にいて、ベッドの中から白い天井と蛍光灯を見ていた。


(シーン97)

 小林からパスを受けて、国見は今までいつもそうしてきたように本当に小さく鋭いフェイントから、わずかな隙をついてミドルシュートを放つ。それは強引とも言えるような選択で、攻め手が他にないのは誰の目にも明らかであったが、シュートはリングを通過した。

「オレたちに勝てるとか思うなよ」

 ディフェンスに戻る国見に春口が声をかける。

「いつまでもこんな苦しまぎれのシュートが決まるわけがないんだ」

「お前は、バスケットのルールを知らないみたいだな」

国見が春口に向き直って言った。

「苦しまぎれでも何でもいい。十中八九負けるような戦いであっても何でもいい。ボールがリングを多く通過したほうが、勝ちだ」

 まだこいつは諦めていないみたいだな、と前島は思った。


(シーン98)

 長い廊下を歩いていた。こんなにコートに戻るのが嫌なのは初めてかもしれないな、と高橋亮太は笑った。生意気な一年生の頃、よく先輩とぶつかった。ミニバスを始めたころ、顧問の先生によく叱られた。それでも自分が嫌でコートに戻りたくないのは、初めてだった。

 首が、少しでも変なふうに力がかかると、ずきんと鈍い、神経に直接響くような金属的な痛みが走った。首にコルセットのようなものをはめて、壁に右手をつきながら一歩一歩歩いていく。コンクリートの壁、冷たい蛍光灯の光、長い廊下が続いている。

 バスケットにおいて、小さな選手がシュートの際、ファウルを受けて、フロアに叩きつけられることはよくあることで、その時に大事なのは床に落ちて叩きつけられるのを怖がらないこと、怖がって不自然な着地にならないこと、分かっていたはずなのに、それができなかった。首はおそらく軽いむち打ち、しかし明日病院で検査が必要だった。もちろん今日はもうバスケなんてできない。

 チームはどうなっているだろうか?高橋拓之とは最後の試合だったかもしれないのに最後まで一緒に戦えなかった。国見は、生意気だったけど殴ることはなかった。何だか、自分が、今コートに立っていないことが悔しくて、悲しくて、涙が出そうだった。

 階段を上って、あの扉を開ければ、試合会場に戻れる。でもそれが怖かった。自分がいなくなった後、チームが、負けていないかどうかを確かめることが怖かった。どうか、どうか、と祈るような気持で、首の痛みに耐えながらそっと扉に手をかける。長くて暗い廊下に光が広がって、そして世界から音が消えた。


(シーン99)

 シュートが外れたあと、宙に上がったボールを拾うことをリバウンドという。リバウンドを拾うのに大事なのはもちろん高さなのだが、それ以外にも様々なことが必要とされる。剣のシュートが外れ、それを拾おうと抜群の反射神経で誰よりも飛んだ小林だったが、自分の予測よりも後方へボールが弾んで飛んでいった。その時、小林は空中で大きく背を反らし、垂直方向へと全てのエネルギーを使って飛んだあとにも関わらず、自分の斜め後ろへと逸れていくボールに対して、目いっぱい手を伸ばす。この一連の動きは小林の驚異的な身体能力と反射神経と体の柔らかさとが揃ってはじめて可能になる。小林が何とか弾いたボールは、敵ではなく高橋拓之の手に渡る。前方にスタートを切った国見が見えて、ボールを大きく投げようとする。

 しかし後半、高橋拓之にやられていた前島がカットしようと手を出して、そのせいでパスが乱れる。まずい。これは長すぎてキャッチができない。抜群のロングパスのセンスを持つ高橋拓之だからこそ、その感覚は絶対的なものがあった。

 宙を飛んで行ったボールは、剣、そして春口の伸ばす手を越えて、全速力で走る国見のもとに届いた。ほんの少しの余裕もなく、トップスピードで走りながら後方からのボールをキャッチなければ、そのパスは通らなかった。それがどんなに凄いことか、今の小林にはよく分かった。

 国見が跳ぶ、それを春口と剣とが横から挟むようにしてブロックに跳んで、それは高橋亮太がけがをした場面を思い出させた。


(シーン100)

 高橋亮太は祈ることも忘れて、ただそれを見ていた。世界から完全に音が消えていた。


(シーン101)

 国見は春口と剣とに挟まれながらも、力強くジャンプをし、そのままダンクをした。それはいつもの国見の、足音もしないようなそっとボールを置いてくるようなやつではなくて、リングにぶら下がった国見がそのままリングを壊し、もぎ取ってしまうかのような激しい勢いのダンクであった。空中ブランコのように反動で行ったり来たりぶら下がっていた国見だが、やがてそっと着地をした。


(シーン102)

 気がつくと磯部友美は激しく泣いていた。何のために自分が泣いているのかは分らなかった。けれども涙があふれて止まらなかった。


(シーン103)

 気がつくと高橋亮太は泣いていた。何のために自分が泣いているのかは分らなかった。けれども涙があふれて止まらなかった。バスケットで泣くのは初めてだった。


(シーン104)

 試合が終わった。


(シーン105)

 コートの両端に整列をして、両チームが礼をする。普通ならそれで終わるところだが、剣が国見のところに駆け寄って声をかける。

「お前を全国が待っているよ」

 そう言って肩を叩くと、次は高橋亮太と拓之のところへ走っていく。こうした光景がコートのあちこちに広がっており、いかに白熱した良い試合であったかを物語っている。国見は何か相手の監督にもおそらくは労いの言葉をかけられている。コートサイドで小林が泣いていて、前島が彼の肩を叩いている。

 彼らは善戦をした。けれども高橋亮太を欠いてから戦力の差は明らかなもので、攻め手を欠いていたところに後半は剣のスリーポイントもよく決まり、勝負があった。一時はあわやという期待も抱かせる場面もあったが、終わってみれば順当な結果だった。彼らは負けたのだ。

 スタンドから磯部友美は国見のことを見ていた。国見は誰もいなくなったコートをずっと見ていた。もう怖い顔はしていなかった。負けたけれども、何かから解放されたような、むしろすっきりとした顔をしていた。

(シーン106)

 小林はその夜、何だかよく眠れなかった。試合の後も、ずっと涙が止まらなかった。けれどもそれは悔しさとか悲しさとは少し違うものだった。高橋亮太のけがは少し悔いが残るけれども、彼らとの力の差は明らかで、敗北はむしろ当然の結果であった。自分でも良く分からないままに、試合が終わると涙が止まらなかった。そしていまだに興奮が冷めずに、何だか眠れないのであった。

 こんなことは初めてだな、と小林は思った。高校に入って、バスケットを始め新しい出会いもあったけれども、それは全部表面的なことで、自分を深く揺さぶることはなかった。けれども今日の試合は違う。自分の中の、核となる深い部分にまで突き刺さって、今まで眠っていた何かが目を覚まして、それでまだ眠りにつけないのだ、と小林は彼にしては難しいことを考えているうちに眠りに落ちていた。


(シーン107)

 剣たちとの対戦が決まってからは、まるで夢の中にいるように何だか現実感のない日々だった。たぶん、勝てないんだろうな、とは思いつつ、あのような熱戦になったことは高橋拓之にとっては望んでもいないことであった。あの試合の後、一度だけ練習に顔を出して、高橋拓之は引退をした。

 まだ現実感はないのだけれど、もうこの部でバスケをすることはないんだな、と思うと涙が出そうになった。


(シーン108)

 高橋亮太が試合中に痛めた首は、やはり軽いむち打ちとの診断で、しかし気をつけないと古傷のようになって癖になってしまうとのことで、しばらく休んだ後、無事練習に復帰を果たした。最後の試合があれでは悔しくて引退できない、とは本人の言葉だ。

 復帰した最初の日は、高橋拓之がいないことに戸惑いを覚えた。けれども次は自分が出ていく番なんだな、これが現実なんだ、と思った。

 国見が練習において、奇妙な行動を取りはじめたのは、この頃からだった。


(シーン109)

 国見は練習の一部しか参加をしなくなった。まずジム室でウエイトをやる。線の細い国見だが、徹底的に上半身を鍛えているようであった。バスケ部の練習が試合形式のものになると、ふらっとやってきてそれに参加をする。

 これまでの国見はどこか遠慮したような、そんなプレイが目立ったが、あの試合の後は遠慮は消えて、むしろ自分しかコートの上にいないかのようなプレイが目立った。

 高橋亮太に対しては体格差を活かしてゴール下に持ち込んで確実に決めた。小林に対しては、テクニックと経験の差を見せつけた。上下左右のフェイント、微妙な緩急をつけた動きと間合いの取り方で、必ず抜いてからシュートを打つようにしているようだった。ひょっとすると一番うまく国見を止められたのは高橋拓之だったのかもしれない。しかし彼はもういない。ボールを持つと、必ず自分で攻めて、そして誰も国見を止められなかった。

 このバスケット部では練習の最後に試合を行う。それが終わると、片づけやモップがけをし、そして国見は日が落ちそうなグラウンドに走りにいく。一人で黙々と、延々と走り続けるのだ。


(シーン110)

「あいつは何なんですかね?プロにでもなるつもりですかね?」

 窓の外、一人グラウンドを国見が走っている。それを遠く離れた教室の中から見ながら小林が言った。

「さあ?あいつがやっていることはさっぱり分からねえよ」

 高橋亮太もまた窓の外、走る国見を見ながら言う。

「あいつのことは分からない」

 こないだまで一緒に戦っていたとは思えないような言い方だった。今は練習の後、教室に残ってだらだらとくだらない話をしていたところで、小林と高橋亮太の他にも二、三人のバスケ部のメンバーがいて、このところ練習の後はだらだらと残ってからアイスを食べながら帰るのが何となくのお決まりのコースになっていた。これはこれで、高校生らしくはあるのだけれど、あの特徴的だった小林の内から燃えるような目の輝きは消えていた。その場には変な仲間意識というか閉鎖的なまとまりがあって、その中に新しく入っていくのは、たとえ国見でなくても難しかっただろう。

 帰り道、校門への下り坂を歩きながら、遠くに国見が見えた。髪を切ったようだった。そして短期間で何だか体が大きくなったようだった。

 まだあいつに謝っていなかったな、と高橋亮太は夏の夕暮れ、アイスを食べながら、いつものように仲間と下らないおしゃべりをしながら、思った。

 国見はやがて全く練習に姿を見せなくなった。それは夏休みが終わるまで、あと二週間の事であった。


(シーン111)

 バスを降りて、少し坂を下る。山と山の隙間の小さな入江とそこにできた集落で、高橋拓之は生まれ育った。

 今日は予備校の講習が午後には終わり、それから帰ってきても、まだ暑すぎるくらいに夕陽が西に残っている。遠く防波堤の上に中学生くらいの男の子たちが集まっていて、一人が飛び込むと、残りもそれに続く。夕陽の陰になって彼らの表情はよく見えない。

 迷路のような細い路地を進むと、長い長い神社への階段が続いていて、その途中で振り返ると、バスで通ってきた通り、夕陽に輝く海と小さな入江、そこに波が入らないように造られた防波堤とその中を泳ぐ中学生くらいの男の子たち、港と呼ぶにはあまりに小さな泊と、沖から帰ってくる船とが見えた。これは彼が子どもの頃からずっと変わりない景色で、まだそこに夏が残っていた。

 小学生の時に始めたバスケットは最初こそ順調だったものの、その後はどんどん平凡なものとなっていった。もともと勉強のできた高橋拓之は無事志望校に合格、しかし進学先のバスケサークルのろくに準備運動もせずに練習を始め、休憩時間には喫煙をし、合宿では二日酔いでバスケをするような体質と薄っぺらな人間関係に嫌気がさし、脱退、それ以降はバスケをすることはなくなり、けっきょく、尻すぼみのバスケ人生は挽回することはできなかった。

 しかし本来勝負ごとに向いた性格ではなく、自然を愛した彼が大して期待せずに登山サークルに飛び込んだところから、本当の意味での彼の大学生活は始まる。

 残念ながらバスケットの才能は平凡、あるいは中途半端なものであったかもしれない。けれどもバスケットを辞めたあとも彼の人生は続いた。それがどんなものであるかは今の彼には知るべくもないが、それはまた別の話だ。

 大学から東京に出た彼は、実は近い将来、とある出来事に傷ついて、故郷に短い帰省をすることになる。そこには変わらず、彼の故郷の小さな街と夕陽に輝く海とがあった。剣たちとの試合は、彼のバスケ人生において最高の時間の一つであったと、彼は長く記憶していくことになる。

 大学に進んでから高橋亮太とは一度だけ会った。お互い、流行に乗った気の、似合わない変な髪型に笑ってしまって、そして何となくそれからは連絡を取らなくなった。


(シーン112)

 今日は塾の夏期講習と重なって、部活に出ることができなかった。高橋亮太が駅前の本屋から入ろうとすると、ばったり剣と出くわした。

「すごいな」と、剣の手提げ袋に入った参考書や問題集を見て、高橋亮太が言う。

「今まで何もやってこなかった証拠だよ」と剣。実は小学生の時に同じミニバスのチームにいて、家も近くの二人であった。

「お前はバスケで推薦入学じゃないのか?」

「いやバスケとの縁はもう終わりだよ」

  そう言った剣の横顔を見ると本当に悔いはなさそうだった。

「最後の全国も早々と負けて帰ってきたし、もうオレはやりきったよ。それにオレの目指す海洋生物学の大学にはスポーツ推薦なんてないんだよ」

「海洋生物学?」

イルカとかクラゲとか、海の生き物が昔から好きだったんだ、と剣はいつもの、子どものようなつるんとした顔でさらりと言った。そういえばこいつは勉強もできたはずだった、と高橋亮太は思い出していた。

「そうか、いいな」

 オレにはなりたいものも、やりたいことも何もないよ。ただバスケをしているときは少しそれを忘れることができたよ。

 結局、国見にはまだ謝っていない。生来の我の強さはどうしようもなく、その後も高橋亮太自身も傷つけていく。けれども彼はまだ知らない。将来、日曜日にミニバスのコーチの手伝いをやるような余裕も出てきた年齢の社会人になる頃、すっかり見た目も人間的にも丸くなって、子どもたちから好かれ、慕われるようなコーチとしてバスケットのコートに再び戻ることを。

「そういえばおまえのところの背の高い一年生がいただろ?」

 剣に言われて、国見の顔が浮かぶ。

「あいつ、こないだウチのバスケ部の練習に来てたよ。春口とか監督にも事前に連絡して話をつけてから来たみたいだけども、」

 驚きがそのまま顔に出ていたのだろう。それを見て剣が言う。

「お前たち、うまくやれているのか?」

 その言葉にはうまく答えることができなかった。あいつはいったい何を考えているんだ、と高橋亮太は思った。


(シーン113)

 そろそろ時間だな、と思って小林は手を止めた。今は夏休みの終わりで、部屋で音楽をかけながら、油絵を描いていたのだ。子どもの頃は、むしろ文科系で親の影響もあって、音楽や絵画のほうに興味があった。成長期に入り、背が伸びて骨格もどっしりとしてきてから、運動をするようになった。今でもピアノやギターを弾いたり、絵を描くことは好きだった。さて、そろそろバスケ部の練習に出かける時間だった。


「お疲れ」

そう言って、小林は更衣室代わりにしている教室を出た。夏休みの間、工事で部室のある建物が使えないのだ。今日も練習に先輩である高橋亮太は来れなかった。まだ引退はしてはないとは言え、塾の夏期講習の方が忙しいらしい。今日、小林は一人で帰っている。バスケ部に入って一番よく話していたのは高橋亮太と拓之の二人かもしれなかった。

 二年生の先輩が新しくキャプテンに就いて、よく練習を仕切っているものの、高橋亮太、拓之、そして国見のいない練習は正直、小林には退屈で物足りないものだった。前島、剣、春口との対戦はまるでバスケットの奥深さと別世界があることを教えてくれた。それに比べて、今日の練習は本当に退屈だった。

 校舎を出ると、こないだまで国見が一人で走っていたグラウンドと、そして誰かが走っているのが見えた。それは陸上部の練習で、短距離、中距離、長距離の選手とが、それぞれのグループに分かれて、トラックを走っていた。何人かの選手を見て、すぐにフォームの問題点が見つかった。誰かそれを指摘する人はいないのだろうか?自分より速いのはいるか、とぐるりと全体を見る。どうやらいなさそうだった。小林はしばらくそこを動けなかった。動けないまま、ずっとその場で練習を見ていた。

 小林がバスケ部を脱退、陸上部に加入するのは夏休み明けのことであった。小さなころから、大抵のことは人並みか、それ以上にこなすことができた。デザインの勉強をしたくて、大学は美術系に進学、しかし授業にはほとんど出ず、大学で出会った仲間と人生初のバンドを結成、ライブとバイトとバンドの練習とで忙しい大学生活であった。卒業後もまさに転がる石のように落ち着かない毎日を送る。小林の生活は社会的に見て、決して褒められたものでも恵まれたものでもなかった。けれどもどんなにどんなにどん底のような生活であっても、彼は自分のやりたいことをやり続け、そして不思議と彼の周りには人が集まって来た。持ち前の明るさは、もうどんな時であっても消えることはなかった。

 彼には、自分が何者であるのか、とうとう最後までよく分からなかった。いろんなことをやってはみたけれど、本当に自分のやりたいことは最後まで分からなかった。これは生涯何者でもなく、何者にもなれなかった小林の、まだ何にでもなれそうな気がしていた頃の話だ。


(シーン114)

「そしたら九月からまた通ってこれるかな?」

 担任が聞く。実は、磯部友美は一学期の最後、また少し休みがちになっていて、今日はその時の補修課題の提出と面談を兼ねて、夏休みの終わりというのに学校に来ていた。

 不登校、という言葉が世に現われて、今では特に珍しくもないものとして現代に定着しつつある。しかしその実態については未だに世間の理解は乏しいもので、単に怠けているだけというような目で見られることも決して少なくはない。磯部友美の場合、「行かない」のではなく「行けない」のだと訴えても、その言葉が相手にどう届くのかは定かではない。九月からまた普通に通えるかどうかなんて自分でも分からないし、誰にも分からないはずなのだけれど、通えると思います、と言いかけて、通います、と磯部友美は答えた。

「うん。じゃあまた新学期にね」と満足げな担任に、あのう、と磯部友美は切り出してみた。


 誰もいない体育館、夏休みももう終わりで、新学期の最初にテストがあるので部活動はなくて、ドリブルをついて、シュートを打つ、その一つ一つの音が大きくこだまする。ドリブルをしてパスをして、リングにボールを通過させる、この単純な競技に世界の、多くの人が夢中になってきた。ひとしきり、汗をかくと何だか体が軽くなった気がした。床を叩くボールの音は心臓の鼓動の音、腹の奥から響く、命の音。素人と経験者とでは、決定的に床を叩くその音の強さが違う。命が弾み、躍動する音が聞こえるのだ。

 男子バスケ部のことは磯部友美も何となく聞いていた。突然練習に来なくなってしまった国見はとうとう夏休みの終わりまで帰ってこなかった。一体、何が彼に起きたんだろう?


(シーン115)

 夏休みが終わった。


(シーン116)

始業式の朝早く、まだ誰もいない校舎の階段を磯部友美は登っていた。何だか緊張して足が地についてなくて、体がふわふわした。屋上に出ると、そこに彼がいた。

「帰ってきたよ」

 国見が日焼けした顔で言うと、磯部友美はいろんな言葉が浮かんだけれど、けっきょく何も言えなくて、何だか泣いてしまいそうだったけれど、それだけは我慢をした。

「中学の時の仲間を訪ねてバスケをしてきたんだ。まずは一対一、それから無理を承知で部活の練習にも参加をさせてもらった。日本中に散らばっていたから、たいへんだったよ。北は東北、西は九州まで旅をしてバスケをして帰って来た」

 うん、と磯部友美は隣で聞いていた。

「中学の時、全国で三回優勝したんだけれど、それは周りが思うほどいい経験ではなかった。まず監督が変わった。プレッシャーに勝てなかったのはむしろ周りの大人たちだった。勝たなければいけないから、お前は勝負どころでは絶対にシュートを打つな、と言われた。お前は主役ではないけれど、いい脇役にはなれるって、ディフェンスの練習ばかりさせられた。もちろん幸せではなかった。バスケットを楽しむことができなくなっていた」

 国見は遠くの山々を見ながら、話を続けた。

「オレたちは勝つことを義務づけられていた。三度目の優勝が決まったとき、うれしかったというより、ほっとしたっていうのがみんなの本音なんじゃないかな。オレ以外のスターターの全員にスカウトが来て、推薦で高校に進んだけれど、全員がばらばらになった。もう一緒にバスケをしたいとは誰も思っていなかったんだ」

 屋上から典型的な地方都市の退屈な街並み、足元にはぱらぱらと登校をしてくる高校生たちが見えて、少しずつ一日がまた始まろうとしていた。

「オレがこの学校を選んだのは、もう中学の時みたいな思いはしたくなかったからで、バスケ部に監督もいないのもむしろ好都合だった。でもまた新しい迷いが出てきて、昔の仲間を探して、一緒にバスケをした。またバスケが楽しいと思えるようになったよ」

 うん、と隣で磯部友美は答えた。

「日本は広かったよ。自分の今、周りの世界が窮屈に感じるなら、それは自分たちに問題があるからなんだ。いくつもの街を電車とバスとを乗り継いで、通過してきた。何だか自分も他人も、ちっぽけに思えた。遠くから見ると街はおもちゃの模型か箱庭みたいに見えて、そこにおもちゃみたいな自動車や電車が走って、おもちゃみたいな灯りが点いた。人間なんて小さいなって思えた」

 また国見は言葉を切って、短く息を吸う。

「遠い、遠いところからいくつもの街を通過して、この街の灯りを見えたとき、この街だけは特別に見えた。ああ、ここが自分の暮らす街、やっと帰ってきたんだ、そう思えた」

 この人は、私の隣のこの人は、私が一人悩んで苦しんで立ち止まっていた時も、一人、動き続けていたのだ、と磯部友美は思った。でもこの人は決して強い人ではない。むしろ人とぶつかって、いっぱい傷ついて、それでも何とか諦めずに歩いてきた人だ。自分のことでもないのに磯部友美はまた涙がこみあげてきて、相変わらずいろんな言葉が浮かんでは何も言えなくなりそうだったけれど、何とかこれだけは泣かずに言えた。

「おかえり」

 この校舎への坂道を登る高校生たちの姿が増えはじめていた。もうすぐまた一日が始まるのだ。



(シーン117)

 国見はその時を最後にその高校を去った。剣たちの高校への転入を、夏休みのうちに決めていたのだ。直接対決となった試合での活躍と、バスケ部の監督と剣、前島、春口の推薦とがあって、無理が通って転入が決まった。国見は物静かで寡黙な男だが、自分のことは自分で決め、決めたことは何があってもやり通した。その性格はたびたび周りとの衝突を引き起こしたり、無用な回り道を強いられたりすることもあったが、一生涯、彼は彼のままであった。


(シーン118)

 ところでそういえば、あの時、国見は磯部友美を屋上に呼び出していた。無口で物静かな二人だが、果たして二人は恋仲なのだろうか?だとしたらいつからそうなのだろうか?その答えを知っている者はいない。だから、二人の間に恋のようなものが芽生えていたとして、その後、どうなったのかを知る者もいない。全ては二人だけの秘密だ。





(シーン119)

 こんな夢を見た。


 それは剣たちの高校との試合に向かう日の朝のことで、四人は私鉄の駅の改札を出たところで待ち合わせをしていたようだ。

「遅いぞ」

 先頭を走るのは高橋拓之。しっかり者の彼は三年間、高橋亮太をサポートし、途中からは部長も務めた。今日も彼だけは遅れずにやってきて、遅刻した三人を待っていた。


 その少し後ろを走るのは高橋亮太。夏休みが明けて、十月の区大会を戦って、引退。三校しか参加していない小さな大会ではあったものの、攻守にチームを引っ張る大活躍で優勝に導いた。


そのさらに後ろを走るのは国見と小林の一年生コンビ。三年生の二人と違い、二人ともまさかこの試合が自分にとってこの部での最後の試合になるだなんて思ってもいなかった。


いつの間にか四人は、彼らの街にある小さな海辺の砂浜を走っていた。きっと我々は夢でも見ているのだろう。いつの間にか日も暮れて、全てをオレンジ色に染め上げて焼き尽くしてしまうような夕陽の中、彼らの表情は逆光で見えない。   

繰り返される波の音、遠くに彼らの街を路面電車が走っていく。遠くの山の頂に小さな城の跡が見える。季節は夏。彼らは短い夏をあっという間に駆け抜けていった。

 その年、大した練習設備もスポーツ推薦もない、ごくありきたりな地方の中堅進学校であるその学校は、偶然集まった四人の才能によって、夏の県大会の準決勝にまで勝ち進んだ。これは未だに破られていない、その学校のささやかな記録だ。


(シーン120)

 初め、磯部友美はマネージャーになるため男子バスケ部の練習を見学しに来た。その後、女子バスケ部に選手として加入した彼女は、三年間、バスケットを楽しんだ。選手としては非常に平凡で、特に目立った活躍もなく、戦績も悲惨そのものであったが、三年間の出来事は今でも彼女の大切な思い出になっている。


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