23 毒針の余波
「困ったことになったな……」
カナンが刺客に襲われたその日の夜、王子の居間に入ってくるなりジィンはため息まじりにつぶやいた。
「まさかこの王宮内でカナンが狙われるとは……非常にまずい事になった」
眉間に刻まれた皺はいつもよりずっと深い。
「申し訳ありません。もっと用心すべきでした」
傍らに立つナガルが頭を下げた。彼の唇が僅かに噛みしめられている事に気づいて、ジィンは我に返った。
いつも無表情な男が、僅かとは言え感情を露わにしているのは当然のことだった。傍から見ても妹を溺愛しているのがわかるのだ。この男にとって、今はほかの何よりも妹のことが心配なはずだ。
ジィンにとっての一番はシオンだから、カナンの心配よりもついこれからの事を心配してしまう。それは当然だし致し方ないとしても、今の言葉はナガルに対してあまりにも心無い言葉だった。
「いや……考えが甘かったのはわたしだ。すまない」
ジィンは頭を下げた。
「それで、カナンを狙った男の行方はわかったのか?」
「いえ。木に刺さっていた矢針は先日の物と同じでしたが、男の行方は……ただ、不審な者が王宮内に入れるはずはありません。内部の者だということは確かです」
「そうだな。で……カナンの容態は?」
一番初めに聞かなくてはいけなかった言葉を、ジィンはようやく口にした。
「傷は浅いのですが、毒による発熱で朦朧としています」
「どのくらいで動けるようになる?」
ジィンがその質問をすると、ナガルの目が僅かに細められた。
「医師の話では、二、三日で熱は下がるとのことですが……ジィンさま、もう妹はシオンさまの代役には使えません。侍女姿とはいえ、トゥラン皇子に見られてしまっています」
「しかし……」
ジィンが反論しようとした時、寝室の扉が開きシオンが姿を現した。ユイナに支えられて歩くシオンの顔色は青い。
「シオンさま……」
「カナンが怪我をしたって聞いた。具合はどうなの?」
長椅子に腰かけたものの、シオンは背もたれに体を預けることなく、食い入るようにジィンとナガルを見つめている。
「大丈夫です。カナンはすぐに良くなります。ただ、トゥラン皇子に間近で見られてしまったので、シオンさまの代役は難しいと思います」
ナガルがそう言うと、シオンはほんの少しだけ表情を緩めた。
「ぼくの代役なんていいよ。そんな事はどうでもいい。カナンが無事ならそれでいいんだ」
あまりにも暢気なその答えに、ジィンは眉をひそめた。
「しかし、トゥラン皇子に面会を求められたら、いかがいたしますか?」
「ぼくが会うよ。ユジンに会った時みたいに、寝台の中からで良ければぼくが会う」
「わかりました」
ジィンは恭しく礼をすると、そのまま踵を返した。
「ジィン待って!」
シオンは大きな声でジィンを呼び止めた。
「カナンを狙ったのは誰なの? ぼくのせいだよね? きっと、ぼくの代役をしていた事が……ううん、ぼくの妹だって事が知られてしまったんじゃない?」
「まさか、そのような事はございません」
「じゃあどうしてカナンは狙われたの? 王子宮の侍女を殺そうとする人間がいるとは思えないよ」
真剣に問いかけて来るシオンに、ジィンはわざと大げさに首を振った。
「遊び半分で人を的にする、外道の仕業かも知れませんね。残念ながら、人を虫けらのように扱う人間もいるのです」
「ジィン、誤魔化さなくてもいいよ。それとも、従兄のユジンを庇っているの? ぼくに会いに来た時のユジンは、すこし様子がおかしかった。会うのは久しぶりだったけど、確かにおかしかったんだ」
シオンの激白に、ジィンとナガルは顔を見合わせた。
〇 〇
翌朝、トゥランは滞在している東の宮の自分の部屋で着替えに袖を通しながら、いたずらっ子のような笑みを浮かべていた。
「ヨナ、あの娘の見舞いに行きたい。上手くやってくれ」
主人のいつもの無茶ぶりに、ヨナは嘆息する。
「トゥランさま、今度は何を企んでいるのですか?」
「人聞きの悪いことを言うな。見舞いのどこが悪い? おれが助けた娘だぞ」
トゥランは腰に手をあてて威張っている。何を考えているのかはわからないが、こういう時のトゥランは何を言っても聞かない。
「仕方ありませんね……」
ヨナは肩をすくめてトゥランを諫めることを諦めた。
ヨナが医療室の女官を丸め込んでカナンの部屋に入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「月紫国の皇子さまに見舞っていただけるなんて、本当に幸せな侍女ですわ。まだ一度も目を覚ましてはいないのですが、間違いなく快方に向かっています。よろしければこちらでお茶でもいかがですか?」
医療室にやって来たトゥランを見た女官は、うっとりしながら部屋の扉を開けた。
「いえ、すぐに失礼するので結構です」
さっさと部屋に入ってしまったトゥランに代わり、ヨナが愛想よく答える。ついでに、にっこりと笑いながら扉を閉めておいた。うっかり邪魔をされて、主人の機嫌が悪くなってしまっては面倒だからだ。
同い年のトゥランの従者となって、かれこれ十年以上たつヨナにとって、主人の機嫌は宮中での勢力争いの次に重要なことだった。
「うん、やっぱり似ているな」
トゥランのつぶやく声が聞こえて来る。
「誰に似ているのですか?」
「わからないか?」
窓際の寝台にカナンが眠っている。
トゥランは寝台の傍らに立ったまま、カナンの顔をのぞき込んでいる。
「これならどうだ?」
トゥランは、頭の上で丸く結ってあったカナンの髪に手をかけると、髪ひもを解いてぐしゃりと崩した。
「何をなさるんですか!」
ヨナは止めようとしたが間に合わず、カナンの髪はくしゃくしゃになってしまった。
「ほら、誰かに似てると思わないか?」
崩れた髪が娘の顔のまわりを縁どってゆくにつれ、ヨナは息を呑んだ。
「確かに、あの方に……似ておりますね」
「やはり、おまえもそう思うか?」
ニヤリと笑うトゥランの顔を見て、ヨナは嫌な予感がした。
「昨日ナガルがこの娘を抱き上げた時、おれはものすごく違和感を覚えたんだ。ほら、肌の色も髪の色もちっとも似ていないだろ?」
「まぁそうですが……この娘はシオン王子よりも色黒ですよ」
「確かにな。でも、間違いない。ヨナ、シオン王子に会いたい。面会の許可を取れ」
ヨナは眉をよせたままトゥランを見上げた。
「まさかとは思いますが、余計な波風を立てようなんて思ってないですよね?」
「あたり前だ。そんな事は考えてない。くだらないことを言ってないで、急げよ」
「……はい」
自分が必死になって止めたとしても、結局トゥランは好きなように動くのだ。
ヨナはとうに諦めていた。




