伝心
「ごめんください」
兄が村の中では大きな方である、一軒の戸を叩いた。
年季の入った木造の家で、黒くなってしまった引き戸も仁の拳に体全体を揺らした。
ガラっと意外に滑りよく引き戸が開かれ、中から老婆が顔を覗かせる。
「すいません。ここらで車を調達できるような所はありませんか?」
仁が物腰も低く、柔らかい口調でその老婆に尋ねたが、老婆は訝しげな視線を仁と、後ろに
控える奈々華に向けるだけで口を開かない。
老婆のあからさまに友好的でない視線に目を伏せていると、
「実は夫婦で旅をしていたんですが、車を盗まれてしまって…」
仁がとんでもないことを口走るのですぐさま兄を見遣ると、
眉を顰めたしかめっ面が返ってきた。黙っていろという合図だ。
「そうかそうか。それは大変だったろうに。悪いことをするヤツもいたもんだ。
千人会の仕業かのう?」
老婆が突然態度を豹変させて人のいい笑顔を見せる。
奈々華はまたしても聞きなれない千人会という単語の意味を仁に目で尋ねたが、
返ってきたのはやはりしかめっ面だった。
「かもしれません。ヤツらのやることは理解に苦しみます」
「そうだねえ。困ったもんだよ」
「それで車のことなんですが…」
「ああ、そうだった。ここから東に三キロほど行ったところに海延町っちゅう町があってな。
そこでなら車も手に入るじゃろうて」
奈々華を置き去りに仁は老婆から情報を聞き出して、頭を下げた。
「それで千人会っていうのは?」
「俺たちで言うところのキリスト教かな。厳密に言うと少し違うけど」
村をあとにして、歩き出した兄の隣を歩く。
聞きたいことや、特に話したいことがあるとき、奈々華は兄の半歩後ろではなく、
ぴったり横について歩く。それをわかっている仁も歩調を奈々華に合わせてくれる。
「千人会ってのは、文字通り信者が千人程度だからで、テングル側が使う蔑称だ」
「なるほど…」
仁が雑木林に飽きたと言いたげに、空を見上げた。
「じゃあさ…夫婦っていうのは?」
仁が顔を下ろして、奈々華を見る。振り子仕掛けよろしく奈々華が逃げるように顔を下げた。
「テングルの教えでは男女七歳にして兄弟でも異性は離れて暮らす」
「へえ。じゃあ私たちと逆だね」
奈々華が仁に初めて会ったのは小学校に上がる年だった。
それまでは仁は親戚の家に預けられていた。
だがあまり深い意味はない。気恥ずかしさから適当に言葉を紡いだだけだったから。
「だから夫婦じゃないとなると、非国民の異教徒ってことになる。
…いやだったか?」
仁が少し悲しそうに目を細めた。
「いや、別に私は、その…」
ずるいな、と奈々華は思った。