仁愛
中庭は既に戦場となっていた。
幸い力尽きて地面に倒れている人間は数人しかいないようだったが、血を流しながら銃口を人間に向ける人間の姿が見えた。傷ついて倒れこむ人間を踏み越えて、敵陣に向かう人間の鬼気迫る顔が見えた。目が乾くのを感じて自分が瞬きをしていなかったことに気付いた。
「やめろー!!」
兄が大声を張り上げる。鬨の声にも怒声にも銃声にも負けない大きな声だった。こんなに大声を出している兄を見るのは初めてのことだった。
それでも、それくらいで一度動き出した集団が止まる筈もない。聞こえているのか、聞こえていて無視をしているのか、銃声はやまず、行進は止まらない。
怖くて目を背けたいのに、逃げ出したいのに、自分は留まってことの成り行きを、人が人を殺す場面を見つめている。泣き出すのも、震えるのも忘れて地蔵のように固まっている。
いや、ひょっとすると自分は泣いているのかも知れない、震えているのかも知れない。
ガッシャーンとさっきの爆音にも負けないような大きな音がすぐ近くでした。
兄が壷のようなものを廊下に叩きつけて、その音をマイクが拾ったのだと気付くまで数秒かかった。マイクなんていつ取り出していたのかもわからない。
「聞け!!」
兄がそのマイクに向かって再び大声を張り上げるが、さっきの大音を間近で聞いているせいで鼓膜がバカになっていた。戦場の音より大きな声なのか、否か。
正面を向きなおすと、数人の戦士たちがこちらの様子を窺っているのがわかった。
「ああ、次期教祖が決まり次第、機を見て天野を殺す」
兄のものではない声がマイクに乗って、あたりに響き渡る。兄のほうを向き直るとマイクに何かの機械をあてがっている。自分の知るものと幾分形状が違うものの、テープレコーダーのようなものだとすぐにわかった。流れているのが木原の声だともわかった。
「でもどうするんです?死因とか」
「なあに。以前から体が弱いと公表している。病死ってことにすればいい」
既に集団の多数がこちらを向いている。まだ警戒して敵の姿から目をそらさない者もいたが、交戦は控えている。銃声も怒声もやんだ中庭は異様な静けさに包まれていた。
「これはテングル教本部経典顧問の木原悠一とその腹心の会話だ」
兄が静かに言った。だが色んな感情を押し殺したようなその声には妙に力があり、人を惹きつけた。特に戦う意義を根底から否定されかけているテングル教徒達は、とり憑かれたように聞き入っている。
「だまされるな!そんなものは何とでも偽装が出来るじゃないか!」
突然の第三者の声には聞き覚えがあった。ほんの数秒前まで流れていたテープの、木原の腹心の声だった。声変わりを迎えていないような、特徴のある高い男の声だ。
廊下の端を通って、中庭に飛び出す人の姿が目の端に映る。落ち着いた声の雰囲気から大人だと思っていたが、背丈は子供ほどしかない。後姿しか見えないが、本当に声変わりしていない子供のようだった。
「私達がそのようなことをする筈がない!」
聴衆たちの顔に困惑の色が浮かぶのが見える。どちらが正しいのか決めかねているようだった。
「わらわは、わらわは殺すと木原に脅された!!」
さっきまで隣にいた天野が、兄からマイクをひったくり、兄に負けない大声で言った。
目には涙が浮かんでいる。
「あんたら、それでいいのか?」
兄の声はやはり静かだった。マイクを奪われたことにも頓着した様子はない。
「こんな子供を犠牲にして、幸せに暮らせたとして…それでいいのか?」
聴衆は水を打ったように静まりかえっている。少年も教祖直々の訴えになす術を失ったのか、口をぱくぱくさせて成り行きを見守っている。
「そんなんがテングルの教えなのか?テングルの神はそんなに薄情なのか?子供一人救えないほど……そんな宗教ならやめちまえよ!!」
兄の頬を涙が伝う。声も震えている。
「そうじゃないだろう!!そうじゃ…」
「確かにこの子がやろうとしたことは性急だったかも知れない。でもこの子はあんた達皆の幸せを願ってやったんだろうが!!その報いが死ぬことだなんておかしいだろう!」
「この子を助けて…膿を取り除くべきだろう!!千人会に改宗しろなんて言わない!でも敵は千人会じゃないだろう!!」
涙で掠れる声をそれでも引き絞り、しゃがれたような大声で兄が叫び続ける。兄の顎から涙の雫が落ちたように見えたが定かではない。もう奈々華も涙で前が良く見えない。
「武器を捨てろ」
再び声を落として兄が言った。それでも聞き逃すような人間は誰一人おらず、金属が砂利にぶつかる鋭い音が一斉に響いた。