3-13 一方、その裏
『――何を考えているのです、ヘンリエッタ!?』
陽光すら遮るような背の高い木々の下、薄暗い森の中。
ギャーギャーと喚き立てる魔物らに囲まれながらも、そんな怒りを孕んだ念話を感じ取ったヘンリエッタは口角をあげて笑った。
「何って、決まっているじゃない。“お姉様”の為に頑張っているだけよ?」
『危険過ぎます! よりにもよって魔物を利用するなんて――!』
「お喋りしているのも嫌いじゃないけれど、そろそろ大物が来るわよ」
ヘンリエッタがその一言を告げた、その瞬間。
大地を揺るがしながら、巨大な何かが近づくような足音が鳴り響き、ヘンリエッタを囲んでいた魔物らが恐慌状態となって慌てて逃げ出していく。
我先にと駆け出した魔物らが木々をざわめかせ、それがかえって己の居場所を伝えている事になるのだが、本能に掻き立てられるように逃げる魔物たちでは平時の判断は追いやられていた。
このままここに留まれば、獲物を探して足音の主がここへとやって来るのは明白であった。
しかし、それでもなおヘンリエッタは動こうとはしない。
やがて、ついにそれは現れた。
『あれは、地竜……!』
「――あはっ、大物ね。とは言っても、絶望する程ではなさそうだけれど」
背の高い木々を薙ぎ倒しながら姿を見せた魔物――地竜の威圧感はまさに圧巻ではある。大物と呼ぶに相応しい威容を誇る巨躯や、周囲の魔物が逃げ出す程度には恐れられた存在であるのもまた事実。
しかし、人の手に負えない程の倒せない魔物、とまではいかない。
その程度とも言える魔物の登場に、歓喜は一瞬にして引っ込んでしまったようであった。
『何を悠長な事を! ヘンリエッタ、逃げなさいッ! いくら貴女の力があったとしても、アレが相手では分が悪すぎます!』
「レベッカったら、心配性なんだから。あの程度の魔物、私がどうにかできない訳がないじゃない。だいたい、この程度で失敗するぐらいじゃ“お姉様”と並び立つなんてできっこないわ」
『だからと言って、魔物を利用しようとしなくとも――!』
「黙りなさい、レベッカ。私は退かないわ」
地竜へと視線を向けたまま、これ以上話す事はないとヘンリエッタは断言して口を閉じた。
いくら神子とは言え、ヘンリエッタも元は神の一柱であり、レベッカはその眷属である天使に過ぎない。強く言い切られてしまってはレベッカに反論する余地はなく、不承不承といった様子で言葉を呑み込む以外に道はなかった。
――――そんな様子を隠れて見つめている一人の少女がいる事に、ヘンリエッタとレベッカは気が付いていなかった。
「――あの女、危険過ぎる」
『やれやれ、困ったものですな。アレもまた貴女様と同じ神子。力の程はともかく、このまま放っておく訳にもまいりますまい』
独りごちるような少女の言葉に返ってきた念話は、老練な男性を思わせる渋さと落ち着きを伴ったものであった。
『正面からぶつかり合えば、貴方様の方が不利となりかねませぬ。いかがなさいますか?』
『……迂闊にこちらの存在を気取られるのも面白くないわ。この場は退きましょう』
『おや、よろしいので?』
言葉は丁寧ではありながらも、態度はまさに慇懃無礼といった物言いである。
いっそ挑発するかのような念話を投げ掛けられる事となった少女は、呆れた様子で嘆息しつつその場から踵を返して歩きだした。
『短慮な行動はするな、藪をつついて蛇を出すな。あなたが私に何度も言ってきた言葉だったと思うけれど?』
『おやおや、しっかりと学んでおられたようで。さすがでございますな。――ですが、このまま放っておくという訳にもまいりますまい』
『それぐらい分かっているわ』
ヘンリエッタとレベッカに気取られぬようにそっとその場を離れつつ、少女は思考を巡らせた。
危険過ぎると判断した、自分と同じ神子という存在。
しかも相手は、自分と同じように天使という名の従者を連れており、その力はすでに“覚醒”していると思われた。
このまま出ていって直接ぶつかり合うのは、あまりにも分が悪いのは明白であった。
『……ピエトロ。あなたがあの女の天使と対峙したとして、一方的に勝つ余裕はある?』
『はて、どうでしょうな。我ら天使はあくまでも仕える神にとって有用な力を有した存在でしかありませぬ。上位神――それも最高位とも呼べる神々に仕える天使が相手であれば、一瞬で消される事もありましょう』
『あの女がそれ程の相手だ、と?』
『それはありませぬな。おそらく、貴女様と先程の少女の格はほぼ同等かと』
『……一方的に抑え込む事はできない訳ね』
そもそも、少女の力――〈才〉として目覚めた権能はお世辞にも戦闘に向いたものではない。
レベッカとピエトロの戦いで実力が均衡しているのであれば、必然的に自身とヘンリエッタという神子同士の戦いともなるのは必然である。戦闘に不向きな自分が正面からぶつかり合う事になるのは、なるべく避けたいところだ。
『ふむ、そうですな……。でしたら、先程の少女を一方的に抑え込める御方を味方に引き込んでみてはいかがですかな?』
『……まさかとは思うけれど、ルナリア様じゃないでしょうね?』
『そのまさかですとも。このまま放っておく訳にもいかず、かと言って直接対峙する訳にもいかぬ今、先程の少女を抑え込むには第三者の御力が必要なのは自明の理。かの御方ならば、僅かに力を振るうだけでも止められましょう』
『馬鹿を言わないで。ルナリア様を味方にするなんて、諸刃の剣にも程があるわ』
『しかし、それでも今回ばかりは仕方ありますまい。先程の少女をどうにかしなければ、我らに救いはありませぬぞ?』
ピエトロの言葉は正しかった。
この状況でヘンリエッタを放置しておく訳にもいかず、かと言って自分だけの力では相手にできない。神子としての“覚醒”をしている者が相手では、生半可な力を持った存在を差し向けたところで意味などない。
であるのなら。
アヴァロニア王立学園に突然姿を現した、月の女神――最上位の一柱であるルナリアの神子、ルナであれば。
ヘンリエッタやレベッカなど相手にならないだろう事は自明の理であった。
『……あまり気乗りはしないけれど、しょうがないわね』
『ほっほっ、楽しみでございますなぁ』
『楽しみなんかじゃないわよ。私やあなたなんて、あの御方の逆鱗に触れれば消されかねないわよ?』
『だからこそ、ですな。あの御方を味方にできれば、これ以上の戦力は他にありますまい』
お気楽に笑うピエトロの笑い声に頭痛を覚えつつ、少女はそっとヘンリエッタやレベッカらに気取られぬよう姿を消した。
◆ ◆ ◆
「――ふむ、魔物の増加傾向は小康状態。学園の実戦訓練を兼ねた合宿の日程は変更なしでいいだろう」
赤竜騎士団騎士舎内、団長執務室。
アランは己のもとへと寄せられた報告書の数枚を確認しつつ、そう呟いた。
王立学園の実戦訓練合宿は、毎年の恒例行事だ。
訓練と実戦では向けられる殺気も違う。緊張と恐怖と、少々の興奮状態というものは冷静な判断を鈍らせる。戦いの中に身を置くという事がどういうものなのかを肌で感じられるものである。
思わず自分が初めて実戦に身を置いた頃を思い出し、誰もが通る道だ――と、そこまで考えて頭を振った。
「……まぁ、ルナみたいなイレギュラーなタイプは違うだろうが、な」
フィンガルからアヴァロニアへと移動した際に見せたという、灰魔狼を投げ飛ばしつつ短剣を突き立てるという冷静さと胆力。ファーランド公爵令嬢であるエリザベート誘拐事件の際に見せたという、無慈悲かつ圧倒的な力。
それらを無表情に振るう少女の姿を思い浮かべてしまっては、どうにも力が抜けてしまうと言うべきか、アランの表情から先程までの真剣味が薄れていた。
「……おいおい、団長さんよ。ルナ嬢を思い浮かべて微笑むってのはどうかと思いますぜ?」
「……そういう意味ではない事ぐらい分かっているだろうに」
無粋な一言を投げ掛けてきた相手――赤竜騎士団の副団長であるレイルをじろりと睨めつけたアランは、嘆息しつつ腰掛けている椅子の背もたれに上体を預けた。
「レイル。冗談を抜きにして、ルナの戦闘力はどれ程のものだ?」
「コンラッドからあがってきた報告じゃ、魔装を使った戦闘なら学生以上、だそうだ。ただ、体幹を鍛えている訳じゃねぇからな。一流相手じゃ押し切れないってのが現状だろうよ。つっても、それは魔装のみを使った戦闘に限るってトコだ……――」
レイルは“精霊の愛し子”――すなわち神子であるという真相を知らされてはいない。
しかしながら、ルナが“精霊の愛し子”である事や、そのルナがエリザベート救出の際に契約精霊を用いた力を振るった現場をその目で見ている。
「――あの契約精霊が味方にいるって考えると、正直底が見えねぇってのが本音だ。万が一の事態であってもルナ嬢なら切り抜けられるだろうよ。それこそ、護衛がいようがいなかろうが、関係なく」
「そうだな。そう考えれば、ファーランド公爵令嬢とルナが行動を共にしている以上、万が一はないと考えていいだろう」
「実践訓練、か。本気でやるってんですかい?」
「貴族共の突き上げを無視しておくのは簡単だが、ジェラルドの一件で陛下はこの国を独裁化させようとしているのでは、と囁かれている。意見を突っぱねてばかりではいられないというのが現実だ」
「今が危険な事は百も承知してるだろうに。なぁに考えていやがるんだか。貴族ってのは頭がおかしいんじゃねぇか?」
「おいおい、王族である私の前でそれを言うか? まぁ、気持ちは分からなくもないがな。お前の気持ちも、そしてこの状況に便乗しようとする貴族の考えも、な」
ジェラルドらとエリザベートの婚約破棄騒動によって、高位貴族の子息が廃嫡に追いやられたという騒動は記憶に新しい。当然そこには王族であるジェラルドも含まれており、王族の醜聞であったのは事実ではあるのだが、それさえも「無能な王族を生贄にして貴族家の力を奪った」と囁かれているのだから始末に負えないものである。
しかしながら、高位貴族家の醜聞と失脚というものは、その下にいた貴族家にとっても千載一遇の機会であるとも捉えられるものだ。うまくここで点数稼ぎができれば、高位貴族が席を埋めていた後釜に己が就けるチャンスとも言える。
要するに、学園の生徒に実戦訓練を行えと突き上げているのは、己の子供らに活躍の場を与えられると踏んだ者らによるものだ。
「いずれにせよ、訓練は予定通りに行うしかない」
「はいよ。んじゃ、予定通りって事で学園には通達しておくぜ」
「あぁ、頼んだ」




