3-5 前兆 Ⅱ
相変わらずお肉の事を考えていると、無表情ながらに顔に出るという不思議な特徴を持つルナ。
為政者ではないルナに無辜の民についてまで考えろというのは酷かもしれないと思いつつも、わたくし――エリザベート――が不謹慎だと告げると、ルナは納得したような、けれどどこか腑に落ちないような態度を見せました。
――珍しい。
わたくしが抱いた感想は、その一言に尽きましたわ。
ルナは確かに、他人に対してひどく冷たい節があります。
けれどそれは、ルナが興味を持っていないからこそ表に出てくる無関心さ故の態度。
なのに今のルナからは、無関心よりも……苛立ちのようなものが感じられるような気がして、思わずわたくしはルナを見つめてしまいました。
そんな私の視線にも気が付かず、ただただルナは虚空を見つめているかと思えば、唐突にこめかみに指を当て、ふらりと身体を傾げました。
「――ルナッ!?」
――倒れる。
咄嗟にそう考えてルナへと手を伸ばし、支えるべく腕を掴んで引き寄せようとした、その瞬間。
わたくしの手は、他ならぬルナの手によって弾かれました。
「――触れるなッ! 人間風情がッ!」
まるで仇敵を睨みつけるような表情を浮かべ、頭痛がするのか眉間を寄せながら不快そうにこめかみに指を当てつつもこちらを見つめる“彼女”の姿に、わたくしはただただ目を丸くしてしまいました。
――ルナがもし、人並みに感情を表に出せたとして、怒ったらこういう表情になるのね。
そんな事を頭のどこかで冷静に観察しつつも、わたくしは気が付きました。
わたくしの目の前にいる“彼女”は、ルナであってルナではないのだ、と。
「……あなたは……誰、ですの……?」
わたくしと“彼女”のやり取りに目を丸くしていたイオ様とアリサ様も、“彼女”がルナではないと気が付き、即座に纏う空気を変えました。
いざという時は取り押さえる必要もあると考えているのでしょう。
お互いに目で合図して、じりじりと左右に分かれて距離を取っています。
魔装を色々と試した事もあってティーテーブルや紅茶を出していないまま立っていた事が幸いしたとも言えますわね。
誰かがルナを操っている、或いは乗っ取っている。
そうした精神干渉系の〈才〉を持つ者は稀ではありますが、有り得ます。
自分で言うのもなんですが、わたくしを筆頭にここには高位貴族家の娘らが集まっていますし、妙な真似をする者が出てもおかしくはありません。
ですが、ルナを操るなんて真似をするのを、アルリオが黙って見ているはずもなく。
わたくし達は“彼女”が何者であるかを見極められずにいました。
一方で、どこか息苦しそうに肩で呼吸する“彼女”は、自らの激情を押し殺そうとしているかのように深呼吸を繰り返し、やがて背筋を正しました。
その表情はいつものルナの無表情さとはまた異なった、凛とした空気を纏った真剣味を帯びたもの。
「――ラビ、出てきなさい」
誰の事を呼んでいるのだろうかと小首を傾げる間もなく、虚空に光が集まって真っ白な兎――アルリオが姿を現しました。
「……る、なりあ、様……?」
アルリオは兎さんですが、表情を持っています。
今のアルリオが浮かべているのは、紛れもなく驚愕といった代物であり――そしてそれは、アルリオの言葉を耳にしたわたくし達もまた、似たようなものでした。
そんなわたくし達には目もくれず、“彼女”はアルリオを見つめました。
「警戒しなさい。意図的に神子となった私達を――“眠りに就いた私達”を起こそうとしている何者かがいるわ」
「え……?」
「私達を人の器に入ったまま利用しようとしている何者かがいるわ。“この子”も今、揺らいでいる。警戒なさい」
「そんな……ッ!」
ルナではない“彼女”――いえ、アルリオの言葉から察するに、『生と死、破滅による再生』を司る月の女神であるルナリア様でしょう。
ルナリア様はわたくし達に視線を向けると、何故かわたくしを見て悲しげに表情に陰を落として、小さく「ごめんなさい」と謝罪を口にしました。
「手を叩いてごめんなさいね。あまりにも不快な“夢”を見せてくるものだから、寝ぼけていたみたい」
「い、いえ、気にしていませんわ」
「……良かった。ありがとう」
ふっと柔らかく微笑む姿に、思わず泣いてしまいたくなった。
ルナがもしも表情を浮かべられるのなら、こんなにも優しい笑顔を浮かべられるのだろうかと思うと、何故か胸が締め付けられるような気がして。
そんなわたくしの想いには気が付かず、“彼女”――ルナリア様は、再び表情を真剣なものへと切り替えた。
「聞きなさい、“この子”と親しい人の子たち」
それはまさに女神のお告げと呼ぶのが相応しい。
張り詰めていながらも静謐で、思わず膝をついて頭を垂れてしまいそうになる程に、神聖な存在である事を否応なくわたくし達に理解させました。
「神子とは、わたし達――神の因子をその身に宿し、いずれは昇華させる存在です。ですが同時に、“この子”同様に、“わたし”であっても“わたし”ではありません。今あなた達の前にいるのは、“わたし”の残滓とも言える意識が表に出てきているに過ぎません」
「そうなの、ですか……?」
「えぇ、ですから安心なさい。“この子”が消える事はないでしょう。――ですが、このままでは“この子”は変質してしまいかねません」
「どういう事ですの……?」
ルナが変わってしまう……?
ルナリア様の言葉は看過できるものではなく、わたくしの口からはいつもよりも低い声が漏れ出ました。
普段のわたくしならば、相手が女神であるともなればこのような声を出す真似はしないでしょう。ですがルナに何かがあると知って、それでも感情を押し殺すなど、わたくしにはできないようです。
そんな怒りを孕んだとも言えるわたくしの物言いを聞いてなお、ルナリア様は機嫌を損ねる事もなく、いっそどこか嬉しそうに目を細めてから、表情を真剣なものへと切り替えました。
「何者かが神子を“神の代用品”のように利用しようと目論んでいるのでしょう。わたしが見ていた“夢”のように、わたし達の“記憶”を無理矢理神子にもぶつけているのです。結果として、“この子”はわたしの記憶に引きずられ、過去のわたしに近い考えを“正しいもの”として受け止めようとしている。そうなれば、“この子”は“この子”ではなく、“過去のわたしの残滓”とも言えるような存在になりかねません」
過去の“彼女”――つまりは女神であるルナリア様というものがどういった存在かは、わたくしも知っています。ルナが神子であると聞いて以来、ルナリア様についてはわたくしも調べていましたから。
曰く、極度の人間嫌いであり、誰とも好んで交流を持たなかった。
曰く、創世神様と同じく、下界に下りてきては人と交流を持つ他の神々とは違い、その姿を見た人間はおらず、石像で造られているお姿は他の神の証言を基に造られただけに過ぎない。
「……その、失礼な事をお訊きしても?」
「何かしら?」
「……人間嫌いというのは、その……」
「どの程度の事を指しているのか、という質問かしらね。そうね、わたしの場合は――滅んでしまえばいい、と思っていた時期もあるわ。さっき言った、“見せられた夢”はその当時のものだったわ」
――それは、まさかルナがその頃のルナリア様に引きずられてしまう、と。
わたくしだけではなく、イオ様やアリサ様もまたそんな事実に気が付いたのでしょう。二人とも顔を蒼くしています。
そんなわたくし達の表情を見て、ルナリア様は続けました。
「正直に言えば、わたしは今も人の子が嫌いよ。己の自尊心を守る為に他人を傷つけ、己の欲の為に他人を殺す。己の正当性を語る為に他人を貶め、己の正義を楯にして他人を否定する。同じ人間でありながら殺し合い、世界すらも蝕む。そのような存在を、どう愛すればいいと言うのかしら?」
「それは……」
それは――人の性とも言えるもの。
わたくし達人間が持つ欲そのものを、ルナリア様は嫌悪している。
その影響をルナが受ければ、あの子はきっと――何も感じないままに人を拒絶しかねないでしょう。
「――あぁ、でも安心していいわ」
「え……?」
「“この子”はきっと、あなた達を嫌う事はないでしょう。残滓でしかないとは言え、“この子”の中から見てきたわたしが言うのだから間違いないわ。“この子”の感情はまだまだ萌芽に過ぎないわ。けれど、それは少しずつ、確実に育っているわ。もっとも、本人はまだまだ自覚がないみたいだけれど」
――あぁ、良かった。
ルナはあまりそういう考えを見せてくれないから、ついついルナリア様の言葉にほっとしてしまう。
「だからこそ、気をつけて。“この子”を狙っているのは、おそらく……」
――わたしと同じ、神子よ。
その一言は、わたくし達に言葉を失わせるには十分過ぎる程の重さを伴っていました。




