2-28 決戦 Ⅴ
「……そう。さすがは公爵令嬢って訳ね。何不自由なく、不条理に見舞われる事もなく、恵まれた環境で生きてきた御方の御高説、痛み入るわ」
お肉様を呑み込んだ私の代わりに答えたのは、エレオノーラ様でした。
幽鬼のようにフラフラと身体を揺らし、いつものたおやかさは消え去り、不気味とも取れる笑みを浮かべてみせました。
すでに形勢は決しています。
今更ながらに取り繕ったところで何がどうなる訳でも、どうする事もできないと悟っても良いものですが……どうにも不気味な笑みを見ていると嫌な胸騒ぎがします。
ちらりとエリーを見やれば、エリーもまた目を眇めて怪訝な表情を浮かべていました。
「つまり、嫉妬していると言いたいのかしら?」
「嫉妬……? いえ、そんな事はないわ。むしろわたくしはあなたに同情すら覚えているもの」
「同情、ですって?」
「そりゃあそうでしょう? 耳心地の良い言葉を並べるだけで自分を納得させられるような馬鹿な王子様なんかの婚約者になって、見た目が良いだけでちやほやされる馬鹿な女に振り回されて。これを羨むなんて有り得るはずはないじゃない。同情するのが関の山だわ」
「確かに同情できる環境ですね、エリー」
「ちょっ、ルナ!?」
いえ、実際のところ同情されてもおかしくないのではないかと思いますし。
馬鹿な王子様と馬鹿な女に振り回されたという点では、エレオノーラ様の言い分は私としても賛同できる節がありますからね。
まぁ当人達はボロクソ言われて愕然としているようですが、事実ですので仕方ありません。
「愚かな周囲に翻弄されて、やりたくもない、なりたくもない環境に追い込まれる。そう、わたくしはあなたに同情しているのよ、エリザベート・ファーランド。わたくしが愚かな家族のせいでどれだけ惨めな生活を送っているのか、心休まらない家での眠りに何度このまま目覚めなければいいと願った事か、あなたなら分かるはずよ」
まるで生きている事そのものを恨むような物言いで、エレオノーラ様は自嘲を浮かべつつ語りました。
そんな発言を聞いていたエリーは僅かに逡巡して、ふと私を見やりました。
「……ルナ、あなたの過去って隠しているの?」
「はい? いえ、別に隠していませんが?」
「じゃあ、話しても構わないのね?」
「えぇ、別に私のお肉様がなくなる訳ではありませんし」
唐突に私に水を向けられましたね。
とりあえず返事をしてみると、エリーがエレオノーラ様に向かって苦笑を浮かべました。
「エレオノーラさん。残念だけれど、わたくしやあなたが抱えてきた生き様の苦しさなんて、たかが知れているものなのよ」
「はっ、何を……!」
「そこにいるルナはね。フィンガルで奴隷にされて、ただただワガママで醜い王女に出来損ないの役割を押し付けられ、罵声と怒声に晒されながら暴力に耐えて、それでも生きてきたのよ」
『え……っ』
「まぁ事実ですから、否定はできませんね」
『は……?』
色々な人から凄く可哀想なものを見るような目を向けられていますが、私の手にあるお肉様は譲りませんよ?
欲しければ自分で取ってきてください。
「可哀想な環境? ――馬鹿馬鹿しい。多少の不自由はあっても、わたくし達はまだ自分で道を選ぶ事だってできましたわ。限られた選択肢の中であっても、それは唯一無二で押し付けられるようなものでもありませんもの。わたくしに同情すると言うのなら、きっとエレオノーラさんも“たかがその程度の不幸”だった、というだけの話ですわね」
「う、そよ……! そんな、そんな生き方……!」
「嘘ではありませんが。遠征でやって来た騎士の皆様も知っていますし、隠し立てしているような事でもありませんよ」
私が隠している事と言えば、せいぜい神子である事ぐらいでしょう。
アルリオの存在やら神子という真実やら、それらが知られてしまうと困る事になるかもしれないと思いますので黙ってはいますが、フィンガルでの事について話さないようにと命令された覚えもありませんし。
「――どう、して……? ねぇ、どうしてあなたは、そんな境遇にいたのに、何喰わぬ顔をしていられるというの……?」
「はい?」
「百歩譲って本当の事だったなら、人を憎んだっておかしくないじゃない! 他人を恨んで、世界を儚んだっておかしくはないじゃないの! なのに……!」
「憎むとか恨むとか、それでお腹が膨れるのですか?」
「……は?」
質問しているのは私なのですが、エレオノーラさんはまるでその意味を理解していないかのような表情をこちらに向けてきました。
ふむ、通じなかったという事なのでしょう。
お肉様のお皿を近くのテーブルに置きつつ、名残惜しさに胸を痛めながら続けます。
「私にはそういった感情はありませんので、正直に言えばエレオノーラ様が何を言いたいのかは分かりません。ただ、それらの感情でお腹が膨れるのですか? 寒くない場所で、心地良い眠りが与えられるのですか?」
「そ、れは……」
「何かが変わるのであれば、願いや想いというものを抱く意味はあったのかもしれません。ですが、ただそれだけで――その場で願うだけで何もかもが変わる事なんて、絶対に有り得ません」
「ルナ……」
「私には、自分から動く自由もありませんでした。『隷属の首輪』を嵌められ、何をするにも監視され、お城の外に出たのは両親に売られて以来、一度もありません。自分から動けるのなら、きっともがいたのでしょう。こうしてお肉様を食べられるように、狩りだってしたかもしれませんが、私にそれは許されませんでした」
フィンガルで暮らしていた私は、アラン様に、イオ様とアリサ様に連れ出していただかなければ、こんな風に大量のお肉様を気が向くままに食べられるような生活はできませんでした。
エリーと出会う事もなく、きっと私はあの日々から出られなければ、出られないまま淡々と日常を生き、いつしかあっさりと、誰も気に留めないような形で死んでいたのでしょう。
それでも、世界は廻るものです。
まぁ私がどうとか、今そんな事になったらアルリオが大騒ぎしたかもしれませんが。
いえ、そもそも今の私には自分で振るえるだけの力があるのですから、きっとお肉様を狩りながら生きる事だってできるでしょうし、逃げる事も可能でしょう。
「……わたくし、は……ただ、甘かったの……?」
「さあ?」
「えっ、ちょ、ルナ!?」
何やら慌てたような表情を向けられましたが、私には他者を断ずる事ができる程の経験はありませんし、答えようがありません。
そう思って答えるつもりはなかったのですが、どうやらそれは間違っているようですね。
「私には分かりません。そもそも私は“壊れています”から。ただ……エリーを見ていると、どれだけ苦しくとも、自らに課せられた責務を、責任を果たそうと必死に立つという事が、私には眩しく映るという事ぐらいでしょうか」
「……責務と、責任を果たす……」
「私には残念殿下と不愉快な下僕がたは、己の責任から。アメリアさんは、学ぶべき事から。そしてエレオノーラ様は、自らの境遇から。――みんな揃って己の守るべきもの、在るべき姿から目を背けているようにしか見えません」
私が名指しした方々が、項垂れたまま肩をぴくりと震わせました。
「その姿に呆れる事はあっても、間違っても眩しく思えるような事はないでしょう。まぁ、納得できないと言うのなら、何も分からない私のような元奴隷の戯言と聞き流し、耳を塞ぎ、目を背ければ良いかと」
おっと、このお肉様は冷めると固くなってしまうようですし、食べておきましょう。
ふむ、もう少し温かい内に食べておくべきでした。
「……ルナ、せっかくの雰囲気なんだから、そこはお肉を食べるのは……」
「タダで食べ放題という機会を捨てるのですか……?」
「ちょっ、そうは言っていないでしょうっ!? せめて空気ぐらい少しは読みなさいと言っているのよっ!?」
「空気は読むものではなく吸うものだと認識しています」
「そういう意味じゃないですわよっ!」
貴族ジョークはやはり私には理解できないもののようですので、そっとお肉様のお皿に新たなお肉様を載せて、私はエリーへと視線を向けました。
「……食べますか?」
「食べないわよっ!?」
「そうですか。では、遠慮なく」
やはりこういった場で出るお肉様は色々と趣向が凝っているようで、なかなか美味しいですね。難点と言えば、私自身が食べる速度が遅いので、一枚一枚を丁寧に噛み切るのに時間がかかってしまう点と、全てを堪能する程食べられない事でしょう。
「――フザけるな……ッ、フザけるな!」
新たなお肉様を選び取ろうとしている私の耳に聞こえてきたのは、そんな叫び声と、ガシャンとテーブルをひっくり返すようなけたたましい音でした。
「そうだ、お前が……ッ! お前が来てから、全てがおかしく――ふべっ!?」
取り出した『下弦の月』の長柄部分で顔面を強打すると、何やら叫び続けようとしていたジャック様が錐揉み回転しながら空いたスペースへと吹っ飛んでいきました。
「――は?」
「え、ちょ、ルナ……?」
「あのテーブルにはまだ私が食べていないお肉様がありましたので、仇討ちです」
まったく、突然何を叫びだすのかと想いきや、勢いに任せて暴れるなんて言語道断です。
お肉様を無駄にするなど、万死に値します。
「え……」
「仇討ち、です」
「…………そ、そう。新しい注文なら、言えばきっと作ってくれると思うわ、よ?」
「そうなのですか? でしたら、誰か――」
「はいっ、ただいま注文してまいりますっ!」
周りでこちらを見たまま突っ立っている他の方が、私がお願いする前にさっさと返事をして行ってしまいましたね。
私としては是非お肉様の盛り合わせ的な何かをついでにお願いしたかったのですが、それは後でのお楽しみに取っておくべきでしょうか。
そんな事を考えながらちらりと残念殿下とアメリアさん、そしてエレオノーラさんのいる一角へと目を向けると、エレオノーラさんが何かをアメリアさんに囁いている姿が見えました。
直後、アメリアさんが目を大きく見開き、自分の身体を抱き締めるような形でしゃがみ込みました。
「いや……! そんなの、嫌よ……ッ!」
「――ッ、これは……ッ!?」
何かに怯えるようにして声を漏らすアメリアさんを中心に、突然強い風が吹き荒れ、エリーが声をあげました。
周囲の野次馬の皆さんやら残念殿下も驚いた様子でアメリアさんへと目を向けますが、吹き荒れる強風に身体を弾き飛ばされそうになりながら、どうにか身体を支えるのが精一杯なようです。
その中にあっても不敵な笑みを浮かべてみせるエレオノーラさんの表情に気が付いたのは私だけではなかったようです。
「エレオノーラ! あなた、アメリアさんに何を……ッ!」
「ふふ――、あっはははははっ! ねぇ、エリザベート・ファーランド! あなた、本当にただの平民風情に殿下が理由もなく執心していたと、そう思っているの!?」
「どういう、意味……!?」
「最初はわたくしもただ頭の悪い娘だとしか思っていなかったもの、あなたが見抜けなかったのも無理はないわ。〈才〉だって【福音】なんていう、意味があるのかないのかも分からない代物だし、ね。でもね――この子は特別なの」
「特別、ですって?」
「えぇ、特別。だってこの子は――“精霊の愛し子”だもの」
…………はあ、そうですか。
私が抱いた感想とエリーが抱いた感想は似たようなものだったようで、なんとも言えない空気が流れました。
それでもエレオノーラさんは得意げに続けました。
「“精霊の愛し子”は不幸になると、どうなると思う? ふふふ、いちいち訊かなくても分かるわよね。精霊が怒り、暴走するのよ!」
「……それはそうでしょうね。つまりあなたは、アメリアさんを暴走させた、と? 自分が巻き込まれるかもしれないというのに?」
「えぇ、そうよ。巻き込まれるなんて、どうでもいいわ。確かにそっちの――ルナと言ったかしら。あなたの生い立ちや境遇に比べれば、わたくしの抱えているものなんてたかが知れているかもしれない。でもね、だからって……納得なんてできるはずないじゃない!」
もはや取り繕うだけの気力もないようで、エレオノーラさんの目は正気を失っているようにしか見えません。瞳孔を開いてこちらを睨みつける様は、明らかに怒りに我を忘れているといった雰囲気です。
――ですが私にとっては、そんな事はどうでもいいです。
「わたくしは――私はこんなの認めないッ! この私が、アンタ達みたいに恵まれた人間に負けるなんて! 何年も、何年もかけて築いてきた全てを壊させるぐらいなら、いっそ全部壊れてしまえば――!」
「――羽虫如きが、私のお肉様をダメにする、と? 消しますよ?」
ピタリと風が止み、まるで時が止まったかのような静寂が訪れました。
「……る、ルナ? もしかして、今の羽虫って……」
「アルリオ……。これは、どういう、事ですか」
私が食べようとしていた様々なお肉様が、先程の風のせいであちこちに散乱しています。
思わずエリーが拐われた時と同じぐらいの“怒り”が湧いてきて、私はそれを押し殺すようにしながら一言ずつ言葉を絞り出しました。
刹那、中空に生み出された光がいつもの兎の姿を象り、目の前には前足を投げ出して這いつくばるような姿勢のアルリオが姿を見せました。
「――すいまっせんっっでしたっ!」
「あなたがいながら、このような事態に対処できないのですか」
「いえ、その、えっと。なんていいますか、ルナ様ならこの程度、造作もなく消し去れるだろうと思いまして……」
「お肉様の犠牲を出しておきながら、言い訳ですか。いい度胸ですね」
「ごめんなさいっっ!」
手に持った『下弦の月』を見て、顔色を悪くするアルリオが叫びました。
ぽかんとした表情を浮かべるエリーやら野次馬の皆さんはともかく、私としては呆然としているエレオノーラさんとアメリアさんは許せるはずもなく。
「――ぐふっ」
ゴイン、と鈍い音を立ててアメリアさんに長柄部分で拳骨代わりに叩きつけ、お肉様を無駄にしたエレオノーラさんの腹部を強打し、第二のジャック様と化していただきました。
「……まったく、食べ物を粗末にするとは失礼な方々ですね」
「……それが理由で悪あがきを潰されるって、なんだか酷な話よね」
エリーの一言に、何故か野次馬の方々が大きく頷いているのが見えました。
残念殿下と愉快な下僕たち率いるエレオノーラの敗因
「お肉をダメにしそうになった事」




