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Possession  作者: 新原半蔵
3/3

Episode #1 Vendetta

2.

斉藤家の朝はけたたましい目覚まし時計のベルで始まる。蒼は慌てて飛び起き、妻の朱音が目を覚ます前に目覚ましを止めようとするが、朱音は大体その音で起きてしまう。彼の気遣いは、いつもこんな形で報われないのだ。


朝6時、妻にまだ寝ていていい、と言うと蒼は寝室から洗面所に向かい、顔を洗いうがいをする。そのまま、朱音と自分の二人分の朝食を作り始める。一時期は悪阻でほとんど食事を採れなかった朱音も、ようやく安定してきたようで食事を採れる日も増えてきた。何しろ二人にとって初めてのことなので、分からないことだらけだ。慣れない手つきで目玉焼きを作り、昨日から作り置いた味噌汁を温め直してお椀に装う。蒼は独身時代からほとんど料理などしたことが無かったので、朱音の妊娠が分かってからは料理の特訓の日々だった。最初は朱音が出産をする時に独りになるので、一人で食事ができるように料理を覚えておくのが目的だったが、思いのほか朱音の悪阻が重い日が続いたため、特訓の成果を見せる機会は案外すぐにやってきたのだ。


蒼は着替える前にさっと朝食を採る。今日はご飯と目玉焼きと味噌汁。今日は、と言うよりほぼ毎日このメニューなので、多少飽きてきたところはあるが、まだレパートリーは少ないのでやむを得ない。小ぢんまりしたダイニングキッチンは寝室のすぐ隣なので、朝はテレビを点けない。 ただ食事をするわずかな音だけがダイニングに流れている静かな朝食、これが最近の斉藤家の朝の風景なのだ。

食事を済ませてから、朱音の分の食事を用意する。目玉焼きと味噌汁、ご飯を盛り付けてそれぞれラップでカバーして電子レンジに入れておく。朱音は自分が起きた時にレンジで温めれば食べることができるわけだ。終わったら作業着に着替えて身支度を整える。髪型はいくら整えたところで、現場に入るときには帽子を被ってしまうので意味は無いのだが。準備ができたところで、アパートの駐輪場に置いてある自転車に乗って15分ほど掛けて会社に向かう。


仕事は8時に始まる。しかし蒼はその一時間前には会社に着き、安全装具を着けて現場に向かう。工場では主に溶接作業を担当している。入社してまだ半年弱、現場での作業にようやく慣れてきつつはあるが、まだまだ一人前には程遠い。少しでも早く現場の作業に慣れるため、朝早く来ては端材を溶接してみて腕を磨く。今時珍しい大半が手作業の現場で、夏はかなり過酷な現場となるので作業者のなり手が少ない。だからこそ何とか早く一人前になりたいというのが、蒼の気持ちだ。この会社に拾ってもらったのは、今考えても様々な出会いがもたらした奇跡なのだと思う。


今の仕事に就く前、斉藤はなかなかまともな職に就くことができなかった。出所以降、なかなか働き先を見つけることができなかった。どこも前科者を雇ってはくれるほど、世の中は甘くない。蒼にとって、この大きな足枷は一生逃れることができないのだ。出所してからすぐに朱音と結婚し、二人で暮らし始めた。二人とも土地勘のない地域で暮らすのは簡単ではなかったが、それでも朱音は比較的早くにパートタイムの仕事を見つけて働き始めた。自分だけが職に就けない、そんな焦燥感も募りつつあった。

そんなある日、近所のコンビニエンスストアで買い物をする。レジを打つのは、この店でよく見かける中年の男性だ。店長だろうか。斉藤は、買い物の支払いを済ませると、口ひげを生やしたその男に話しかける。

”すみません、このお店の店長さんですか?”

”そうですが。”

”働かせてもらうわけにはいかないでしょうか。シフトとか時間とかどんな条件でいいので、お願いできないでしょうか。”

”いいよ、明日から来れる?”


思いがけない気軽さで、店長のその男は答えた。蒼は自分でも認めざるを得ないほど見た目が厳つい。身長は180cmを越え、顔も明らかに客商売には向かないタイプの強面なのだ。このコンビニは余程人手に困っているのだろうか、蒼は大いに戸惑いながら、店長に聞き返した。

”本当に良いんですか?面接とか、履歴書とか良いのでしょうか?”

”あー、一応履歴書はもらおうかな。後でいろいろあると面倒だし。明日までに書いて持ってこれる?面接は別にいいよ。”

こんな話の流れで、蒼は出所後初めての職に就くことができたのだ。


翌日から猛烈な勢いで働き始めた。一通り仕事を覚えたら、シフト表で空いているシフトには全て自分の名前を入れた。連続勤務も全くいとわず、ひたすら家と店の往復を続けた。時折朱音から体調を心配する言葉を掛けられても、蒼は何とか店の役に立てれば、と必死に働き続けた。初出勤日、蒼はバックヤードで店長に書いてきた履歴書を渡した後、自らの前科について話した。別にアルバイトなので黙っている手もあるのだが、彼は店長が履歴書を見ようともしなかったので、あえて自分から言うことにした。しかし、店長は”ふーん、そうなんかぁ。まあ大変だけど頑張れや”と声をかけて、そのまま店に出て行った。蒼は、そんな店長の後ろ姿に向かって大きく一礼した。


コンビニエンスストアで働き始めて一年半が過ぎた頃、朱音から妊娠が告げられた。もちろん、飛び上がるほど嬉しかった。家族が増えるのは彼の悲願だ。しかし、同時にそれは朱音がパートタイムの勤務を辞めることも意味し、自分の今の収入と照らし合わせても生活はかなり苦しくなる。決して不幸ではない、ただ、色々なことが頭を過り、手放しで喜ぶことができなかった。朱音は敏感に何かを悟り、“何とかなるわよ”と独り言ともつかない言葉をつぶやいていたが、蒼は様々な思いが頭を駆け巡り、暫く押し黙ったまま目を閉じていた。


翌日、蒼は早速店長に朱音の妊娠を報告し、もう少し勤務時間を増やしてもらうように相談してみた。

“おー、良かったじゃん!でも、今のままコンビニの仕事続けただけでも奥さんのサポートできなくなるよ。まして勤務時間を増やしちゃったら、奥さん頼る人いなくなるじゃん。”

そう言えば店長は指輪をしているが家族の影を感じたことが無い。彼にも家族がいるのだろうか。ふと考えていると、店長が続けた。

“子供が小さいうちはお父ちゃんも近くに居てあげないと奥さん大変だよ。うちはちょうどコンビニ始めたばっかだったから色々大変だったけど、実家が近いからね。蒼君ところは二人とも実家遠いんでしょ?”

店長の言うとおりだ。うちは夫婦とも同じ地元だが、サポートを受けられる状態ではない。店長の言いたい事を分かりかねた。

“じゃあ、シフト減らせってことですか?”

蒼はやや不安げに店長に問いかけた。これ以上の収入減は避けたいところだ。店長は、難しい顔をしながらスマートフォンを操作している。何をしているのだろうか。“ちょっと待ってて”と言うと、店長はバックヤードに消えていった。誰かと電話で話しているようだ。暫くして戻ってくると、蒼にこんな提案を始めた。

“うちの親戚の工場は万年欠員ですぐにでも採用してもらえる。ただ、夏場は暑いししんどい現場だから万年欠員なんだ。蒼君を紹介したら、すぐにでも来いってさ。朝8時から夕方5時までの勤務だけど、やってみる?”

“えっ、本当ですか?”

“その代わり、すぐに辞めんなよ。オレの紹介だからすぐに決めてもらえたんだ。別にオレの顔を潰すとか考えんでもいいけど、叔父さんの厚意は無駄にせんで欲しいんだよ。蒼君は根性あるし、家族も増えることでやる気もあるから、きっと大丈夫だと思うけどね。”

“ありがとう…ございます。”

“しかも正社員だぞ。試用期間はあるけど正社員採用になるから、生活も安定するんじゃねーの?”

“お礼の言葉もありません…。”

この店長との、そして今の会社の社長との出会いが、蒼の苦しい人生に少しずつの光を与えてくれた。


今朝も一番に工場に入り、簡単な掃除をする。工場内に居るのは全員が男なので、掃除とかそういった細かい点に気が利く人間はほぼ居ない。蒼も昔の蒼ならきっと気付かなかっただろう。朱音と一緒に暮らすようになり、掃除することを覚えた。軽く清掃を終えると、廃材の置き場から適当な端材を探してくる。最近は溶接の腕も随分上がり、人並みに作業できるようになってきてはいるが、それでも蒼はこの早出を止めない。初心を忘れていないか、感謝の気持ちを忘れていないか、その確認作業なのだと思っている。朝、自転車での通勤途中に軽く汗をかいた。と、言うことは今日は恐らく気温が上がるだろう。改めて気を引き締めて、蒼は溶接の練習を始めた。


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