Episode #1 Vendetta
1.
玉木徹は掴みどころのない男である。
地元の大学を一年の休学を経て卒業し、それから職を転々としていたが、2年前に親のコネクションで今の会社に就職した。父方の叔父の経営する、家のリフォーム会社で営業をしている。大学を卒業して、もう10年近く経つのだが、いまだに社会人としての一般常識に疎く、仕事への取り組みも熱心ではないため、会社としてはあまりありがたい人材ではないのだが、経営者を親類に持つため周囲もなかなかモノを言うことができない。ただ、客先で大きなトラブルを起こすわけでもないので、同僚たちも特に用が無ければ近づかない、というのが実際のところである。
今日も朝の営業会議に遅れて出席する。営業会議と言っても部長と平社員4人の小ぢんまりした会議なので、遅刻をすればすぐばれてしまう。だが、玉木は何もなかったように会議室の扉を開けて右側の席に座る。部長から直近のイベントスケジュールの説明があり、その後に各担当者から担当エリアの状況説明をすることになっている。徹の報告はいつも、特に無し、の一言で終わってしまうが、彼の業績はチームの中でも抜けて悪く、ほぼ何もしていないような状態なので、本来であれば理由説明なり言い訳なりしなければいけないはずだ。それでも、いつも彼の説明は特に無しで終わり、周りも特に何も言わない、そんな存在なのだ。
彼だって、好きでこんな性格になったわけではない、と思っている。忘れようとしても忘れられない大学の四年の夏、徹はある事件に巻き込まれた。正確に言えば彼が被害者となる事件だったのだ。就職先も自分の希望通りではなかったものの一応決まり、大学生活もあと僅かとなった夏休みの直前のある日、事件は起こってしまう。ほとんど人の居なくなった校舎内の研究室の出入り口で、頭と鼻から出血した状態で徹は発見された。たまたま通りかかった事務員が発見した時には、外傷はあったものの意識ははっきりしており、”大丈夫ですか?”との事務員の問いかけに軽くうなずいていた。すぐさま警察と救急車が呼ばれ、辺りは突然物々しい雰囲気となった。徹はその後入院し、頭部に裂傷と鼻骨の骨折がみられた。外傷はさほど時間が掛からずに回復したが、精神的なダメージは大きく、結局その後も大学に行くことはできずに一年留年することとなってしまった。暴行を働いた犯人については、徹の証言もありすぐに逮捕されたと聞いたが、あんな奴は極刑を課せられればいいと思っている。あの瞬間、自分の順調な人生が狂ってしまった。その事を何度も何度も思い返し、自暴自棄となってしまった。翌年、両親に促されて渋々大学に通ったが、味気の無い、実に無駄な一年だったと今でも思っている。それ以降、燃え上がるものを何も感じることなくここまで過ごしてきたが、今日は少しだけいつもと違う一日になるはずだ。
朝の会議が終わると、それぞれの営業担当が持ち場のエリアにそれぞれ散っていく。徹は、一旦自分のデスクに戻り、会社支給のラップトップコンピューターをカバンに入れる。普段であればデスクに戻らずに会議が終わるとすぐに社有車に乗って出かけるので、今日は少しいつもと行動が変わっている。ただ、周囲は全く無関心なのでそんな徹のいつもと違う行動に気づいた者はいない。壁に掛かった社有車のカギを左手に持ち、コンピューターが入り少し重くなった自分のカバンを肩に掛けながら、駐車場に向かう。
社有車に乗り込み、窓を少し開けてから車を自分の担当エリアの市の北西部に走らせる。今日はスタートが遅れた分、社有車を選べなかったので喫煙車になってしまった。徹自身はタバコを吸わないので臭いが鼻につく。窓をもう少し大きく開けてみたが、一向に臭いは無くならない。タバコの臭いは、徹を少し不機嫌にさせたようだ。見慣れた担当エリアに近づくと、市内で一番大きいインターネットカフェに車を滑り込ませる。時間は午前9時40分、まだほとんど人がいない。当たり前だ、平日の、しかもまだ朝っぱらからネットカフェに入り浸る人などごく限られているだろう。彼の日常は、ここのインターネットカフェで費やされていく。いつも、朝の会議が終わるや社有車に乗り込み、市内に3つあるインターネットカフェを毎日順繰りに回っている。もちろん、仕事で回っているのではない。彼は、ここで夕方の終業時間が来るまで時間を潰し、終業時間付近に帰社する。帰社する目的は2つ、タイムカードを押すことと、社有車を返すため、その他には何の目的もない。わざわざ3か所のインターネットカフェを日替わりで回っている理由は、毎日行くと顔を覚えられるから、という、至極どうでもいい理由で、2日おきでもこんなに頻繁に通えば顔などすぐに覚えられるのだが、本人は本気でそう思っている。事実、3か所のカフェでは常連且つ要注意人物として認識されているのだが、本人はそのことすら知らない。
カウンターでお金を払い、会社のカバンを抱えて奥から二番目の個室に入る。ここが彼の指定席である。カバンをドアの真ん前に置き、コンピューターの前にある椅子に腰かけると、いつもならリクライニングを倒して眠る態勢をつくり、2時間ほど仮眠を取るのだが、今日はいつもと違う。まずは手元の電話でコーヒーとケーキを頼み、店のパソコンで情報の検索を始める。昨日匿名のSNSで聞いた情報では、そのサイトを見つけるのは容易ではないという。徹はコーヒーをすすりつつ、あの手この手で検索を掛ける。1時間ほど試したものの見つからず、生来の飽きっぽさもあり一旦はあきらめてしまう。それでも、暫くして再び探し始めたのには、彼なりの理由があるためである。悪戦苦闘すること2時間半、彼は遂にその入り口を見つける。真っ白な背景に”何でも請負業”の文字。徹は、半信半疑で探していたものの、本当に噂のサイトがあることに軽い興奮を覚えた。やっと見つけた。興奮が体に多少の変調をきたしているのか、マウスを持つ右手が軽く震える。そのことに気づいた玉木は、一旦マウスから手を放し、すっかり冷めてしまったコーヒーを口に含み、乾いた喉に落としていく。もちろん美味くは無いが、味などどうでもしい、少し乾いた口を潤して、体勢を立て直す。さて、準備はできた。
徹は後ろを振り返り、扉の前に置いた自分のカバンを手元に引き上げる。カバンの中に入っているラップトップパソコンを出し、電源スイッチを押す。恐らくは事務所の中で一番使用頻度が低いにもかかわらず、一番スペックの高いパソコンを配布されているのは、外ならぬ玉木の要求を会社側が呑んだ為だ。一応は会社の所有物なので、eメールや幾つかのアプリケーションソフトは会社指示で入れてはいるものの、ほとんど私物と化しているので勝手に入れたソフトも幾つかある。会社全体が社内のITセキュリティへの関心が必ずしも高いわけではないので、特に注意を受けるわけでもないのだ。
会社のパソコンが立ち上がったところでウェブブラウザを開き、ネットカフェのパソコンに表示されているサイトのURLを慎重に手入力でタイピングしていく。打ち終わったところでエンターキーを押し、会社のパソコンにも同じ画面が立ち上がったところで、ネットカフェのパソコンはお役御免だ。ウェブブラウザの閲覧利益を全て消した後に適当なアダルトサイトに移動しておく。もちろん、プロが本気になればいくら閲覧履歴をブラウザ上で消しても、足は付いてしまうだろうが、そんな事は誰もしないだろう。何しろ今から始めることは、ごくごく私的なことで、社会には何の影響も与えないだろうから。
さあ、やっと心の霧が晴れる時が来た。ここで依頼したことは請け負ってくれれば100%完遂してくれるんだっけ。徹は会社のパソコンに映し出された真っ白なサイトの中央にある、掲示板へのリンクボタンを押して、次の画面が開くのをもどかし気に待った。