マーキング
「はぁはぁ…千良子先輩、遅くなってしまってすみません!!」
私の可愛い硝子ちゃんは、今日珍しく約束の時間に遅刻をした。
いつもあんである美しく長い黒髪は、ほどかれていて、それを風にさらしながら彼女は走ってきた。
「あにゃにゃ?硝子ちゃん、大丈夫だよ!落ち着いて、はい、深呼吸してーすってーはいてー!」
「すぅ…はぁ…ごほごほ…」
「にゃ!?待ってて、すぐにお茶か何か買ってくる!!」
「…ごほごほ…すいま…せ…」
「しゃべんなくていいから、そこ、そこのベンチに座っていて!」
律儀な硝子ちゃんは先輩である私にお茶を買われることを嫌がるだろうけれど、今はそれを気にしている場合ではないことに本人も気が付いているようだ。
走ってきたせいか、硝子ちゃんの陶器のように白い肌は熟したリンゴのように赤くほてっていた。
私は近くの自販機でミルクティのボタンを押しながら考える。
ーどうして、硝子ちゃんの髪がほどかれていたのかー
…ちらっと振り返りベンチに座る彼女を観察する。
何かが違う。何かが欠けて、何かが満たされている。
…それがなにか分からなかった。
「はい、硝子ちゃんあったかいミルクティだよ?飲んで落ち着いてー。」
「ありがとうございます…すいません…スコティッシュ遅刻しちゃいますよね。」
「…硝子ちゃん、お風呂に入ったの?髪の毛濡れたまま…ダメだよ、こんなんで外に出たら風邪ひいちゃうし、髪はちゃんと乾かさないとせっかくの綺麗が痛んだら大変!」
「せん…ぱい…ごめん…なさぃ…」
私が両手で頬っぺたをはさむと硝子ちゃんの瞳は不安げに揺れて、それからじわっと涙があふれだした。
大きな綺麗な瞳に水たまりができる。
その瞬間を固めてしまいたいくらいに美しい…。
でも、ダメだ。私の目指すものはこんなことではない。ここでこの美しさを永遠にしてもそれには意味がない。
硝子ちゃんの身体からはリンゴの香りがする。
…彼に会うために気合をいれて自分で何かをしてみようとしたのだろうか?
だとしたら…
「うん、’だとしたら…’お仕置きしないといけないね。」
私はにっこりと笑うとスマホを手に取った。
「もしもし、店長ですか?すいません、今硝子ちゃんと一緒なんですが少しハプニングがあって…はい、そうなんです…できればそうしていただけると…はい、ありがとうございます。」
「千良子…先輩?」
スマホの電源を落とすと私は硝子ちゃんの涙をぬぐって手を取った。
「大丈夫、今日は年末でお客さんも少ないから無理に来なくてもいいって。
もともと店長だけでも回っていたお店なんだから気にしなくて平気だよ。
…でもね、硝子ちゃんをこのままは帰せない。」
顔をぎりぎりまで近づけて、耳元でそっと呟く。
「…このまま硝子ちゃんが’しょこらちゃん’だってバレたら大変だもん。
約束したよね、二人だけの秘密って…だからね、このまま硝子ちゃんを帰すことはできないんだよ。
さぁ、私の家に行こう?
お風呂にもう一度はいって…私が良いよって言うまで可愛くさせて。」
「…私、約束破る気なんて…先輩本当に…ごめんなさい…」
「あぁ、もう泣かなくて大丈夫。なにか理由があったんでしょ?
私は硝子ちゃんを信じているもん。
でもね、硝子ちゃんに魔法をかけるのは私だけができること、これは硝子ちゃんもしちゃだめなの。
わかるよね?だってずっと私が魔法をかけてきたんだもん、分かるはずだよ。分かっているんでしょ?
うんうん、うまくいかないから私のところに戻ってきたんだよね…分かっているなら…いいんだよ?」
「…ごめんなさい…」
彼女は嘘や言い訳をしない。
そんな汚いもので逃れようなんてしないのだ。だからこそ私は硝子ちゃんが大好きなのだ。
「大丈夫…分かっているなら構わないの…さぁ、髪の毛…洗いなおそうね。」
彼女にベンチから立ち上げるように促すと、私たちはそのまま手を繋いで歩き出した。
…硝子ちゃんの髪が揺れるたびにするリンゴの香りが私をいらだたせる。
「…早く…硝子ちゃんの香りに戻さないと…」
硝子ちゃんは彼女自身から発されているほのかなミルクの香りをさせれいるのがいいのだ。
それを他の香りで消してしまうなんてあってはいけない冒涜だ。
お風呂に入れて、入念に…洗い流さないと…。
私のしょこらちゃんを壊すものは硝子ちゃんであっても許されない。
そうだ、今日はこのまま綺麗に髪を乾かしたら新しい髪型を試してみよう。
いつもの緩いウェーブはこの上なく美しかったけれど、もっと彼女の美を引き出せるものがきっとあるはずだ。
スコティッシュを休んでいいのなら、今日はその分の時間を存分に魔法をかけることに使える。
誰にも邪魔されることなく、硝子ちゃんの身体をチェックすることができる。
考えてみたら絶好のチャンスじゃないか。
「そうだ!今日はうちにお泊りしていきなよ!一緒にパジャマパーティをしよう!」
お泊りという単語に硝子ちゃんがびくっと身体を固めた。
彼女はこういう女の子同士の触れ合いが好きなはずなのに…?
「あ…あの…実は、急に母が来ることになって…おうちには帰らないとなんです。
…ごめんなさい…」
長い髪を思いっきり揺らしながら謝る硝子ちゃんの頭を良い子良い子と撫でる。
「…そうだったんだ。いいよ、でも少しは時間あるよね?
お母さんを少し驚かせてあげよう?」
お泊りで堪能できなくなったのは残念だけど、バイトの時間が二人きりになったのに変わりはない。
なにかひっかかる部分はあるけれど…とにかくまずはこのリンゴの香りを消すことが先だ。
私は硝子ちゃんが頷くのを見届けるとまた歩き出した。
ー彼女が私に’嘘’をついていたことにも気づかずに…-
猫の妖精さんはとても鼻が良いのです。
女の子の身体からリンゴの香りがすることに気が付くと、いつものミルクの香りじゃないことにとても怒り出してしまいました。
猫の妖精さんは言うのです。
ーあなたに魔法をかけるのは私だけの特別。それはあなた自身もしてはいけない。-
いつになく強く言い切る猫の妖精さんに女の子は泣き出してしまいました。
けれども、女の子のことが大好きな猫の妖精さんは女の子を泣かせたいわけではなくて、魔法の上書をしたくて仕方がなかったのです。
そうして猫の妖精さんは言葉巧みに、女の子をおうちへと招くのでした。
ただ一つ…女の子が大きな嘘をついているとも知らずに…。




