箱入り息子
僕は父の目が苦手だ。
父の目はいつも僕を蛇のように捉えている。飲みこまれて…がんじがらめになる。
父の目をまともに見れなくなったのはいつからだろう。僕はなにも後ろめたいことはしていないと自負すらあるのに…僕はあの目を見つめ返すことができない。
両親の言うことに逆らったことはない。まるで「箱入り息子」のように僕は僕の生活のルーチンを変えることはなく、また変わることがあれば即座に連絡をし、彼らの庇護の届く場所にいるのだ。
その生き方は、はたから見れば奇妙な物語。
だとしても、僕にはそれを覆すような力も、構想も、野望も何もないのだ。
だから大きくなってもやや窮屈なその箱の中で、守られながら息をしている。
「…風邪、ひいちゃいますと困りますから…お風呂、沸かしましたのでゆっくり入ってください。
私は部屋にいますので、何か足りないものがあったら遠慮なくいってください。」
父が倒れたらしい。
その現実は僕の心を大きく揺らした。
すぐに母が伝えた病院にむかおうと、図書館の机に広げていたPCやプリントをまとめて駅に向かった。
そう…病院に行こうとしたんだ。
「…上野さん…身体すごく冷たいです。お願いです。お風呂、入ってください。」
自分の手を握りしめてくれている女の子の手がやけに暖かいことが分かった。
僕は病院へ向かう電車を待ちながら…ベンチに座って考えてしまったんだ。
それがよくないことだと分かってはいたのに、考えてしまった、止まらなかった、止められなかった。
ーもしも、父がこのままいなくなったなら…僕はあの目から解放される…-
希望?期待?罪悪感?不安?恐怖?安堵?感情があふれ出して止まらなかった。
混ざり込んだ感情が僕の足を止めて、僕はその場から動けなくなった。
「…シャツ…脱がせますね」
女の子がお母さんが昔してくれたように僕のシャツのボタンをはずしていく。
鍛えていない貧弱な身体が晒されていくのがわかる。
動けなくなった僕の手を暖めてくれた女の子は、図書館で見かける司書の見習いの子。
あいさつ程度の関係しかしなかった女の子が僕の服を脱がせていく。
「…あの、さすがに…これ以上は…私には無理なので…」
ぐいぐいとお風呂場に押し込まれる。
どうやらこんなにも細い彼女の腕に押されて、動く程度に僕は疲弊しているらしかった。
もう分からない。
僕は父が倒れたというのに、プリントを届けに来てくれた女の子の好意に甘え…生まれて初めて女の子の部屋に来て、あまつさえ上着を脱がせてもらっている。
自分でも意味が分からなかった。
目の前には森を連想させるグリーンのお湯が揺れている。
「これ以上冷えてしまう前に…お風呂、入ってください…」
「…一人に…しないで…」
「一人になんて、しませんよ。さっき約束したじゃないですか…そばにいるって。」
僕を置いていこうとする彼女の手をつい掴んでしまった。
一人になったらまた、父の瞳とぐちゃぐちゃになった感情に押しつぶされそうで怖かった。
今にもこのお湯の底から父がこちらを見てくるんじゃないかとさえ思えてくる。
すると彼女は表情一つも変えずに身にまとったワンピースの裾をつまんで湯船へと沈んだ。
「服を着てお風呂に入るのって…なんだかちょっと悪いことしているみたいで…
でも、気持ちいいから実は私時々しているんです。」
水に溶け込むように肩まで湯船に沈んでいく。
その表情は本当に気持ちがよさそうだ。
「とても暖かくて、気持ちがいいですよ。私も一緒です。ね、上野さんも…来てください」
泉の女神がいるとしたらこんな感じなのかもしれない。
彼女は長い髪を湯船で揺らしながら満面の笑みで僕に両手を広げてみせた。
「…上野さん…お願いです…来てください。」
人を惑わせる女神…救いの女神…。
僕は森を歩き続けて疲れ迷い込んだ村人が救いを求めるように恐る恐る湯船へと足を踏み込んだ。
一歩を踏みしめると、身体が溶けだすような暖かさが広がる。
そこからは早かった…僕は彼女に促されるまま身を任せる。
彼女の胸の中に背中を預けるようにして、僕は完璧に湯船につかる。
「…良かった。上野さん、入ってくれました。」
「……良いにおいがする……」
鼻腔をくすぐったのは森林の匂いではなくもっとみずみずしい何かだった。
「グリーンアップルの香りです…上野さんはリンゴが好きですから、好みに合ってよかったです。
…精神がリフレッシュする効果があるそうですよ。」
どうして僕がリンゴが好きだなんてことを彼女は知っているのだろう。
そうしてタイミイングよくそんな入浴剤があるのだろう。
…でも、そんなことはどうでもよかった。
今、この、彼女といる箱の中…僕は心から安心していた。
こうしている間にも父が死んでしまうかもしれないというのに、僕は名前も知らない女の子の細い腕に抱かれて安らぎを感じているなんて…許されるはずがないのに…。
「…上野さんは悪くないんです。上野さんのお父さんから上野さんをとっているのは私だから
…だから、悪いのは、私だから…上野さんはなにも苦しまなくていいんです
あなたの大切なするべき時間を奪った…私は悪い魔女です…」
僕の未熟な思考は、すべて彼女に読まれ、僕の罪さえも彼女が引き受けようとしてくれていた。
「…僕は…どうしたらいいんだろう」
お湯に浮かぶ顔がくしゃっと歪む。泣いてしまいたい衝動ももう浮かんでは来ない。
僕の心は清々しいまでに空っぽで…何もなかった。
「ゆっくり、考えていいんです…どうしたいも、どうするも…
なにを選んでも、私は…上野さんといますから…約束です。」
口元まで湯船につかると、彼女の心臓に耳が当たる。
音はしないけれど、優しく脈打つリズムが心地よく、僕の意識はグリーン色の景色の中にゆっくりと、確実に落ちていった。
男の子は病気のお父さんに会いに行かなくてはならないのに道に迷ってしまいました。
すると女の子が手を引いて森の中へと誘いました。
森の中には大きなリンゴと泉があって、ころころとリンゴが転がっていきます。
あぁ、大変だ、お父さんにリンゴをあげたら病気が治るかもしれないのに!!
男の子はリンゴが沈んだ泉を見つめて考えました。
するとなんていうことでしょう、そこから美しい女神さまが現れて言うのです
ーこちらへおいでなさい、そうして一緒にリンゴを食べましょうー
男の子は恐る恐る一歩を踏み出すと、女神さまは優しく男の子を抱きしめてくれました。
男の子は初めて、自分が許されたような気がしてとても心地よく眠りにつきました。
なにも怖くなんてありません。
先ほどまで足元も見えないくらいに不安だった心もすっと落ち着きました。
だって女神さまは男の子のすべてを包み込み、許し、愛しているのですから。




