ちしゃ猫の本性
「…ほーしぞらよりたかーく…きらめく月よ…私のねがいーをかなえておくれ…」
小さく口ずさみながら、私は自分の部屋のドアを閉める。
私の部屋には、私の好きだけが詰まっていて、きらめきと輝きに満ちた宝物の空間。
その部屋に、外部の空気を長く入れるなんてもってのほかだ。
エナメルに輝くルビーレッドの革靴が躍るようにステップを踏む。
だから私もるんっとステップを踏みながらアパートの階段を下っていく。
「星空より高く、輝く月よ、私の願いを叶えておくれ!」
この世界は醜いものに満ちている。醜い、見難い、みにくい、ミニクイ。
階段をおりきった私は星空ではなく今にも雪の降りだしそうな空を見上げながら、ため息をつく。
それは感極まってのものではなく、本当に嫌気がさしたからだ。
小さいころから私は、人とは少し違っていた。
そう例えば雪。子どもたちは雪が降るとその神秘さに魅了される。
触って雪だるまを作ったり、あまつさえかき氷だ!なんて喜んで口に入れたりもする。
少し年齢が上がると、恋人たちはホワイトクリスマスだと喜びだす。
みんなが舞い散る雪の儚さに冬の訪れを感じる。
…私は、雪に触れることができない。
私にとっての雪は、一見清潔そうに、純真無垢そうに見せかけておきながら、その実で大気の汚れを大量に含んだ物体であり、その隠してきた本質が醜くて許せない。
綺麗な見た目で人に触れさせる…なんてあくどい。
だから冬に雪が降るとすべてに熱湯をかけて消毒したくなる。
…でも、もうしない。
幼いころに必死に雪を溶かしていた私を見る母親の奇異の瞳が忘れられないから。
あの瞬間、雪に喜ばない私は…母親にとって醜い存在だと知ってしまった私は、私の感性による判断を外に出してはいけないことを学んだ。
それからは、人と同じであることに努めた。
周りが可愛いというものを可愛いと言い、良いねといいものを良いと言うようにした。
可愛い!美味しい!綺麗!
そう言いながら私が笑っていれば母親も周囲の人たちも笑っていてくれるから…私は雪と同じように自分の本質を隠したまま笑って、綺麗な言葉を紡ぎ続けた。
嘘で固めた世界のなかで、なぜか私は人気者だった。
周りにはいつも誰かがいて、新しい可愛いや綺麗の話をたくさんしてくれた。
でも、私は退屈で仕方がなかった。
笑いながら聞いている心の中で、氷のように固まったままに自分を見つめていた。
誰か私に熱湯をかけてくれたらいいのに。
そうしたら、私は蒸発して、綺麗な部分だけ空に昇って行ける。
そう願いながら日々を過ごしていた。
「星空に願う願いは一つだけ…どうか…」
そんな世界の中で私は、生きながら、息ながら、死んでいくのだろうと諦めていた。
でもね、神様はいたんだよ。
私と彼女を出逢わせてくれた。
本田硝子。
長い黒髪を三つ編みにしてうつむいたまま、折れてしまいそうな細い手足、華奢な身体、怯えたように世界を見つめている瞳が眼鏡越しに大きく見える。
円をかくように切られた前髪だけが彼女の感情を知る手助けをしてくれる。
世界を拒絶したかのような女の子。
世界を拒絶したために、世界の色に染まらなかった女の子。
私は、生まれて初めての感情を抱いた。
「どうか、私を…してほしい…」
彼女は何物にも汚されてはいけない。彼女の美しさを私が守らなくては…きっと彼女は悪い物たちに醜く染められてしまう。そんなこと絶対にあってはいけない。
だから、私は硝子ちゃんを私の理想とする可愛いに仕立て上げようと決めた。
声をかけてなんとか知り合いの先輩になって、少しづつ距離を縮め…その美しい黒髪に触れた瞬間、ほどいた三つ編みがつくり上げるウェーブには思わず歓喜のため息をついてしまった。
染めることも、アイロンやコテで熱を加えたわけでもなく、彼女はそのままですべてが美しい。
おしゃべりが苦手な硝子ちゃんは醜い言葉を発しない。
司書のお手伝いをしているだけあって、本で学んだ言葉たちは美しい響きを放つ。
お化粧をしたことのない硝子ちゃんの肌は、赤ちゃんのようにもちもちで、透明。
彼女に触れれば触れるほど…私は硝子の美しさにとらわれていく。
この美しさを…誰にも渡したくはない。
私が見つけて、さらに整えたしょこらちゃん。
お部屋の中に飾ってだけおくのはどうしてももったいなくて、誰も知らないスコティッシュでのバイトを薦めた。
メイド服の様な制服はふわふわの髪によく似合って、彼女の透明な白さを際立たせた。
お客の人たちがしょこらちゃんが通り過ぎるたびに何度も彼女を振り返っているのを私は知っている。
そのたびに私は私の感性が認められた喜びに心を震わせる。
でもだめよ、私が作り上げたしょこらちゃんは見せてあげるけれど…本当の硝子ちゃんは私だけの宝物。
いつかきっと…私を…してくれる。
その日まで、私は硝子ちゃんをもっともっとお姫様にしなくちゃならない。
でも硝子ちゃんは私の知らない間にどんどん可愛くなっていく。
…右端の席の常連さん。
PCを前にいつも眉間にしわを寄せている私たちと同じ大学に通う男の子。
硝子ちゃんを変えているのは、彼。
彼を前にしたとき、硝子ちゃんはしょこらちゃんでも硝子ちゃんでも見せたことのなかった表情をする。
その色は、とても輝いているから…私はその思いを止めないことにした。
ヤキモチ?
そんなものを抱くはずがない。
だって、硝子ちゃんがもっともっと美しくなっていくのを私が一番近くで見ていられるんだから。
きっと硝子ちゃんは、私の思いをはるかに超えてもっともっと可愛く、綺麗になる。
そうなった時に私を…してくれる。
その瞬間のためならば私は、常連さんにむかうしょこらちゃんの笑顔を素直な気持ちで受け入れることができる。
「輝く星…私をずっと…先に…連れて行って。」
曲がり角の先にすっと伸びた白い指先が見えた。
私が望んで望んで、求めているもの。
私に気が付いてくれた硝子ちゃんが、控えめにその透き通るような手を振ってくれる。
かわいいなぁ…本当にかわいい。
ほっぺたが緩んでいるのを感じて、いけない、いけないとしっかりしようと思う。
…まで、私は硝子ちゃんの頼りになる先輩でいなくちゃならない。
今日はどんなふうに彼女を染めよう。ぞくぞくとする快感が駆けあがってくる。
私はさらに軽やかにステップを踏んだ。
魔法使いの猫さんはとってもかわりもの。
みんなが大好きなまたたびも、お魚もねこじゃらしも興味がにゃいにゃい。
ずっと目をほそーくして探しているのは、彼女の首筋に美しい牙をたてて導いてくれる存在。
でも、お母さんもお友達もみんな好きが違う。
ずーっと悩んで気が付いたら他の猫さんに混じり込めるようになった魔法使いの猫さんは、ついについに見つけたのです。
小骨のように細く、繊細で白い…美しい手を待つ女の子。
猫さんはにやりと笑い、女の子が望む魔法をかけてあげることにしました。
すべては、その手で首筋をつかんでもらうため…にゃ。




