ほんの少しのトクベツ
クリスマスが終わって、街は一気に輝きから落着きへと変化していく。
新年の訪れを待つように厳かに、しめやかに…それでも来るべき新しい年が良いものになるように、アーケードの中のお店は早々に初売りの準備を始め、道行く人たちは皆それぞれに足をとめて新年の予定を考える。
手を取り合ったり、腕を組んだりして歩く人たちは楽し気に笑いあっていて、静かな幸せを築き上げている。私はクリスマスの時の浮かれた幸せよりもこの短い時期の静かな幸せの雰囲気の方が好き。
でも私はその幸せの変化に混ざることはなく…ここ喫茶店「スコティッシュ」の窓からただ見つめている。
私の日常は何も変わらない。
変わったのは、このウェーブのかかった髪の毛。切りすぎて円を描いた前髪。
いつも一つに三つ編みにしていた髪を結んでいたヘアゴムがあの日ほどけることが無かったら…
私はきっと今、この胸を締め付ける感情に出会わなくてすんだのだ。
今の私の心の中には甘く、混沌として…どこまでもどろどろとしたものが今にも溢れだしそうなほどにつまっている。
「しょーこらちゃん!1番のご主人様にいつもの特製ココア運んでもらっていいかにゃ?」
「千良子先輩…耳元でつぶやくのは…やめてくださぃ…」
「あー、また千良子って呼ぶー!?ここではちょこって呼ぶ約束でしょ?」
「ちょこ…先輩…あまり騒ぐとまた店長にしかられちゃいます…」
「むむぅー!!しょこらちゃんは店長派には渡さにゃいんだから!」
私にじゃれつくようにやってきたのは、この喫茶店の看板娘であり私の大学の先輩、千良子先輩。小柄な身体に猫耳のように左右にはねた髪の毛が印象的でとても明るくて素敵な方。
サブカルチャーが大好きで、この喫茶店をメイド喫茶に仕立てようと勝手に画策しているみたいだけど、もともとクラシカルな制服のこのお店ではそういうファンも多かったようで概ねうまくいっているみたい。たまにはしゃぎすぎて店長から怒られているみたいだけれども…古くからのお客様もそんな千良子先輩と店長のやり取りが微笑ましくてそれもまた好評なのだから…本当にカリスマにあふれているなと感心してしまう。
千良子先輩は、人の心を少し前向きにできるチョコレートの魔法が使える。
私の運命が変わったのは、たまたまそんな千良子先輩と同じ講義でヘアゴムが切れてしまったあの時。
結んでいないと日本人形のお化けのようになって笑われてきた髪を慌ててなんとかしようとした私の手を、先輩がそっとつかんで言ったのです。
「うわぁ~、綺麗に三つ編みのウェーブがかかってふしぎの国のアリスみたい!
ねぇねぇ、髪の毛どうやってケアしているの?触ってもいい?ふわふわだー!」
アリスみたい…初めていわれた言葉に私は魔法にかかったような気がしました。
せめてもに不潔にはなりたくないと奮発して買っていた高級なシャンプーのおかげでしょうか?
その時は講義もあってそれ以上は話せなかったのですが、先輩はそれからよく私に話しかけてくれるようになって、時間割の組み方や教授のことレポートのことなにも分からないで困っていた私にいろんなことを教えてくれてとても嬉しかったです。
そして人見知りの自分を直したいと相談した私をこの喫茶店のバイトに誘ってくれました。
「ほら、一番のご主人様!前にしょこらちゃんが気にしていた人でしょ?
いつもパソコンと難しそうな本持ってきてる…いい、しょこらちゃん。
恋愛とは情報戦、そして接触回数がものを言うんだよ!
注文の品を出しながらさりげなく本の内容チェック!
このあまあまココアで心の底から暖めちゃうにゃ!!」
「せ、先輩…私、そんなんじゃなくて…」
「いいから、いいから!冷める前にゴー!」
甘い香りに少しだけ混じるアップル。
店長特製のブレンド。
名前も知らない…でもほんの少しだけ話したことのある…いつも窓際のはじっこに座るあの人の注文するココア。
先輩に手渡され、背中を押されて私はよろめきながら足を踏み出す。
彼は気が付いていない。
私が彼の持っている本の貸し出しをした大学の司書課程にいる地味な一年生であることを。
彼は気が付いていない。
私が暗い書庫の中で落としてしまったメガネを一緒になって探してくれたことを…
そして、まるで漫画のように触れ合った指先が私をこの苦しみの中に落としたことを。
一歩ずつ、こぼさないように彼へと近づく。
地味で三つ編みでメガネの本田硝子は、ここでだけ、少しだけ…本当に少しだけ髪をほどいてゆるっとしたウェーブのかかった髪に可愛い制服を着て「しょこら」となる。
先輩がかけてくれたチョコレートの魔法。
ーしょこらちゃんは、物静かで気高い猫みたいなメイドさん。
でも、本当は大好きな人のために頑張ってメイドさんになったとても素敵な女の子ー
不思議と私はしょこらになればいつもの猫背がしきっとして、うつむきがちな顔も前を向くことができる。
カウンター越しの距離よりももっと彼に近い距離に行くことができる。
情報処理についての数式が書かれた本、私には理解できないExcelの表…それを真摯に見つめる眼鏡の奥の瞳。キーボードを軽くたたく長い指、身長はそんなに高くないけれどスッとスマートな雰囲気をまとっている彼の横にそっと膝をつきながら私は、声が震えないように祈り口を開く。
「…お待たせいたしました、ご主人様。アップルココア、お砂糖多めにとろける舌触りをご堪能ください。」
「ん…いつもありがとう。」
「…こちらこそ、いつもおいでくださってありがとうございます。
…ごゆっくりお過ごしください。」
これだけの触れ合い。
一度だけ私を見た瞬間、私はどうか世界一可愛い笑顔ができていると願いたい。
…もうパソコンの画面に戻ってしまった彼の視線を、本当に少しだけ名残惜しく見つめながら…私はきびすを返してホールを後にする。
魔法は長くは続かない。私がしょこらでいられるうちに、戻らないと。
街並みは私を置いてどんどんと変化していく。
世界から取り残された私は、心の中でぐつぐつとした思いを募らせていく。
ハートの形の中でぐちゃぐちゃにとけたチョコレート。受け取り先のいないこの思い。
スコティッシュ(このばしょ)だけは、私を認めて受け入れてくれる。
場所に認められた私は…もっとわがままを願ってしまう。
今度は彼に認められたいって…。
あるところに、それはそれは平凡で地味な三つ編みの女の子がいました。
女の子はお話が下手で、なかなか人と仲良くなれません。
いつも羨ましそうに、外の世界を見つめていました。
ある時、そんな女の子の前に猫の妖精さんがあらわれて女の子に気持ちを前向きにするチョコレートの魔法をかけました。
あら不思議、髪をほどいた女の子はほんの少しだけ、世界を広げることができました。
大好きな人とも少しだけ、触れ合うチャンスができました。
そんな女の子が自分と彼の心を手に入れるための…とろけたチョコレートのようなお話のはじまり、はじまり。