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祈り

 渇穴(かけつ)に着くとそこは黄泉への入り口のような光景だった。手入れのされていない(やしろ)の木は所々腐って朽ち果て、背の高い不気味な雑草が何本も生い茂っていた。井戸は赤茶に錆びた薄いトタンで封がしてあった。風が吹くと剥がれていたトタンの端が舞子を手招きするように揺れ、ガタガタと大きな音を立てた。

 舞子は布で包んだ赤ん坊に縄をくくりつけ、井戸の中へそっと降ろしていった。少しずつ少しずつ…。穴は深かった。縄を継ぎ足し、かなりの時間をかけ、ようやく底まで降ろすことができた。


 重苦しい曇り空の下で舞子は祈った。ただひたすら祈った。その井戸についての言い伝えは『死んだ者を中に入れると生き返る』だけだった。これ以上彼女にできることは無かった。

 井戸の底から赤ん坊の泣き声が暗く反響して、地上へと漏れ出していた。舞子はその真っ黒な穴を覗きこみながら何度も手を擦り合わせた。周囲の木々が風を受け、彼女の祈りに呼応するようにガサガサと騒ぎ始めた。


 日が落ち、冷たい夜が訪れ、そして朝になった。舞子は赤ん坊を引き上げた。息子の熱は下がっていなかった。

 もう一度井戸の底に入れ、そしてまた祈った。

 涙が次から次に溢れ、穴の底へと落ちて行った。涙が枯れる頃、擦り合わせた手に血が滲み始めた。血の滴もまた、穴の底へと落ちて行った。


 翌朝、赤ん坊をまた引き上げた。様子が変わっていた。病が嘘だったかのように生気を取り戻していた。彼女は再び涙を流し、我が子を抱きしめた。赤ん坊とそれを包んでいた布は母親の血で赤黒く染まっていた。


 舞子は赤ん坊を連れ、故郷を捨てた。もうそこは彼女にとっては忌まわしい土地でしかなかった。ただ年に一度、井戸の周囲を手入れをする為に彼女は故郷に戻った。

 子供は元気にすくすくと育っていった。それ以降大きな病気にかかることもなく、むしろ他の子より丈夫と言えるほどだった。好き嫌いもせず、何でもよく食べた。

 結局あの穴は何だったのだろうか。時折、舞子はそう考えた。でも元気な我が子という目の前の幸せを噛みしめるうちに、あの井戸の事を思い出す事は少なくなっていった。

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