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妖精姫の幸せは  作者: 手塚立華
本編
48/54

47 倉庫

 気が付くと、そこは雲の合間からかすかに漏れる月光が心もとなげに差し込む広い倉庫のような部屋だった。

 頬にあたる冷たく固い木の床の感触に身震いする。

 なんだかガンガンと頭が痛い。

 自分の置かれた状況を理解できず、私はうっすらと開けた目をゆっくりと動かした。

 高い天井、我が家の居間ほどの広さの室内、肌寒い気温、ひび割れた壁。

 まわりには、大小さまざまな木箱。その上におかれた小さな籠の中には…


「朝露…?」

「アリィシャ!」


 ぼんやりと水色に光る見覚えのある妖精の姿に小さくつぶやくと、朝にしたたる露のように透明な翅の妖精が、籠の中でめいいっぱい私のほうへ体をよせて悲鳴のような声で叫んだ。


「ここは…。」


 身を起こそうとして、自分の手足が縛られていることに気が付いた。

 両腕が後ろ手にまわされ、ひりひりと縄の感触がする。

 どうも私は捕まってしまったらしい。

 少しずつ気を失う前のことを思い出して、私は深くため息をつく。


 これは盛大にやらかしてしまった。

 フェリンド邸を出てきたのは昼過ぎくらい。

 今はすでに月が昇っているということは、早めにみつもっても18時は回っているだろう。

 完全に家族に心配をかけまくっているコースである。

 それ以前に、アリィシャの命が危ないかもしれない。


 護衛がいたとは言え、あんな路地へ足を踏み込むべきではなかった。

 ついてきてくれた彼は無事だったのだろうかとあたりを見渡すが、それらしい人影は無い。

 てっきり一緒につかまってしまったのかと思ったが、もしかしたら逃げて助けを呼びにいってくれたのだろうか。


 そうなのだとしたらすぐに助けがくるかもしれないな、と気を取り直して、私はずりずりと芋虫のように身じろぎをしながら、どうにかこうにか体を起こした。

 これもレディの特訓で鍛えた柔軟性と腹筋の力の賜物だ。

 手近な箱に背をあずけ、ふうと一息つく。そのまま朝露のほうへにじり寄ろうかと思ったが、どうもロープが柱につながっているらしく、鎖につながれた犬のようにひっぱられてあまり大きくは動けなかった。


「朝露、なんでこんなところにいるの?ここはどこだかわかる?」


「わからない…私、森で捕まってしまったの。その後はずっと籠に布をかぶせられていたから、ここがどこかもわからないわ…。」


 仕方なく声を潜めて彼女に訪ねると、ぐすぐすと涙声の答えがかえってくる。

 その内容に、私は嫌な予感がして顔をしかめた。

 三年前の私とまったく同じ状況だからである。

 私達は国家権力につかまってしまったのかもしれない。


 これもしかして私の正体ばれたんじゃない?

 お縄になってしまったんじゃない?


 もしそうなのだとしたら、助けが来るとかそういう問題ではない。

 すっと全身から血の気が引くのを感じ、私はぶるぶると顔をふって不安を払いのける。


「ね、ねえ朝露…。あなたを捕まえた人は、どんな人だった?その…軍服とか鎧とか着ていた?」


「ぐんぷくって何かわからないけど…。いつも見る村人のような人だったわ。あっと思った時には捕まってしまっていて…。」


 ふむ、と言われて私は記憶をたどる。

 そういえば殿下に追い掛け回されたことが強烈すぎて忘れていたが、私を捕まえた男も軍服などは着ていなかったような…。

 ということは、村の人たちに捕まえさせた妖精を、国が引き取っているんだろうか…?

 でも、星鈴の森で朝露の話題が出た時、殿下は何もおっしゃっていなかったし、今は討伐の王命が下っている妖精は居ないと言っていた。


 ~もしかしたら、私の正体を察して隠されていたのかもしれないけれど…。


 そこまで考え、あり得ない考えだなと自嘲した。

 動揺していた先ほどとは違い、今は随分頭が冷えている。あの時の殿下の優しい瞳は、嘘じゃない。

 殿下と面識が浅い頃だったらだまされたのかと絶望していたかもしれないが、今の私には彼が伝えてくれていた想いがすべて嘘だとは信じられなかった。ウルベルト殿下を、信じたかった。

 彼を信じるならば、あの時点では朝露への討伐命令は出されていなかったはずだ。


「朝露、あなた何時から捕まっているの?」

「……わからないわ、もうずっとよ。」


 朝露の答えに私は頷く。私の予想が正しければ、星鈴が朝露を見ない、と言ってた頃にはもう朝露は捕まっていたのかもしれない。

 だとすれば、私達を捕まえたのは、きっと国ではない。

 大丈夫、きっと大丈夫。このまま処刑コースとか無いはず。


 自分を心の中で鼓舞していると、後ろでギィ、と扉が開く音がして、すっと横から月明りではない人工の光が差し込み、暗かった室内に四角い光の筋を描いた。

 振り返ると、そこに立っていたのは軍人では無く女性だった。

 逆光で一瞬よく見えなかったが、目が光に慣れると、それは先日、開華祭で私に盛大に嫌みをぶつけたあの令嬢だということがわかった。


「物音がしたと思ったら起きていらっしゃったのね。ふふふ、いい恰好ですこと。」


 そう言って黒い影を伸ばしながら嬉し気に室内に入ってくる彼女を、私は口を引き結び、目を見張ってじっと見つめた。

 今日も胸繰りの深いドレスを着ており、綺麗に巻いたブロンドの髪を肩にたらしている。

 その彼女が、ふんぞり返って私の前で立ち止まる。


「開華祭で一緒に踊ってらしたときいたからまさかとは思ったのだけれど、アクス様だけでなくクライム様にまで手を出していたなんてとんだ尻軽ね。」


 彼女の言葉から察するに、どうやらあのクライムの手紙は偽物だったようだ。

 よく手紙のやり取りをしていたのに筆跡の違いもわからないなんて私はよっぽど浮かれていたようだ。

 自分の間抜けさに眉をひそめた私に、令嬢はさも愉快そうに続ける。


「細い田舎娘でも、あなたのような見た目の方は望まれる方は多いのですって。良かったですわね。とっても遠くに売り払ってさしあげるから、せいぜい震えてまっていらして?」


「売るって…どこに…。」


「さあ?私は知らないわ。お父様に聞いてみたら?」


 私は自分が置かれた状況を理解し顔を絶望の色に染めた。


 内心のガッツポーズは押し隠して。


 彼女がドアから入ってきた時思わず歓喜の声をあげなかった私を褒めたいと思う。

 どう見てもこのご令嬢は国の組織の一員には見えない。どこの国にこんなドレスの騎士団員がいるというのか。

 これは私ではなく彼等が国に捕まる立場だろう。

 彼女のお父様がどなたかは存じ上げないが、人身売買などという危ないことを国が主導でやっているとは思えない。


 一瞬でも疑ってしまったことに心中で殿下へ土下座をしつつ、自分の行く先が国賊としての処刑ではなかったという事実に、私は心の底から安堵していた。

 なにより、殿下に化け物として見られていなかったことが心底嬉しい。

 もしそうだったら私は本当に絶望して処刑を大人しく待っただろうが、そうでは無いなら話は別だ。

 なんとしても脱出して、彼の元へ戻らなくては。

 まだ私の気持ちも伝えていないのだから。


 自分の言葉に、私が打ちのめされたので満足したのか、彼女は恍惚とした表情で高笑いと共に部屋から出て行った。

 もしかして私の絶望顔を見るためにあのご令嬢はここまで足を運んでくださったのだろうか。ありがた…くは無いな。

 一応警戒はしているのか、それとも私が本当に彼女の名前を憶えていないと思っていないのか、名乗っていってはくれなかった。

 入手できた情報はこのままだと私は遠い国に商品として売られるだろうということくらいか。

 その足音が遠のいていくのを確認してから、私は改めて状況を確認する。


「朝露、一応聞くけど魔法は使えないのね?」

「籠に妖精封じがかかっているようなの…。」


 なるほど、やはり状況は三年前の私と同じらしい。

 あれ、これもしかして三年前も私、殿下じゃなくてこの人たちにつかまってたんじゃない?

 三年前も含めて殿下冤罪だったんじゃない?

 心の中で冷や汗をかきつつ、今考えることではなさそうなのでひとまずその考えは横へ置いておく。


 私はためしに、宙に浮くことができるか試してみたが、残念ながら少し浮いたところで縄にひっぱられて地面に落ちた。

 なんだかその風船のような浮力の頼りなさから推測するに、たぶん、まだ王都の中か、王都近郊なのだろう。

 王都のまわりは農村地帯が広がり、畑が多いのであまり森らしい森は無い。

 そう考えると、まだそんなに遠くまでは運ばれていないのでは無いかと推測できた。


 一つの可能性として、私が三日間くらい気絶している間に違う都市に連れてこられているという最悪の事態がありうるが、あの社交好きそうなご令嬢が嫌みを言うためにわざわざそんな遠くまで出向いてこないと信じたい…。

 …たぶん。


 開華祭で随分煽っちゃったからなぁ、と私は遠い目をした。

 今のようにおとなしく虐められて震えておけば気が済んでほうっておいてくれたかもしれないものを…。

 だってあの時は随分と気が立っていたのだもの。

 そこに喧嘩を売られたら買うしかないじゃない?

 仕方ない。たぶん仕方がない。この反省は次にいかそう。

 彼女を煽っていなければ朝露はこのままどこかに売られてしまっていたのだし。

 なにはともあれ、今しないといけないことをしなくては。


 現状、手足が縛られているので私は身動きが取れない。

 魔法を使おうにも、今の私に使えるのは植物の育成促進と治癒魔法くらいだ。この状況ではあまり役にたたないだろう。草木が育てられるだけで弦を自在に伸ばして拘束とかはできないのである。

 使えないな私の魔法…。


 ただ、このまま移動していけば、かならず森をどこかで通るはずなので、そこまでいけばそれなりにいろんな魔法が使えるようになるはずだ。

 そこで脱出を試みたほうが成功率は高そうな気がする。

 大分気が長い話なので、家族に心配をかけっぱなしになってしまうのは申し訳ないが、あまり大きな怪我をしてしまうと私の力では癒しきれないので、下手な強行突破より安全策を取るしかない。


 となると今できるのは…。


「現状把握をしてくるくらいしかないわね。」


 わたしは一つ頷くと、床に体を横たえ、意識を集中する。

 するとふわり、と体が浮き上がる感覚があって、次の瞬間には私はアリィシャの体を見下ろしていた。

 アリィシャになってから一度もためしたことは無かったが、彼女の体を脱いで、元の妖精の姿になったのである。

 あまり長い時間彼女の体を魂が無いままで放っておくわけにはいかないが、半日くらいなら問題ないだろう。

 この妖精の小さな体であれば、ドアの隙間から外に出られるし、もしかしたら縄を切るためのナイフなんか発見できるかもしれない。


 私は改めてアリィシャの体を見下ろしてぎょっとした。

 さきほどは鏡が無かったのでよくわからなかったが、アリィシャのおでこから頬にかけて赤い血の跡がついており、ドレスの襟から肩が赤く染まっている。

 そういえば先ほど頭が痛かったことを思い出してあわてて傷の確認をした。

 顔に傷がついていたらどうしてくれようかと思ったが、幸い傷は耳の上の側頭部のあたりだったようで、髪の毛に隠れているので目立たない。

 傷跡はあまり大きくないようだが、頭からの出血はたまに傷口に比べて派手になるとルミールお兄様からきいたことがあったようななかったような…。

 もうすでに血は止まっているようだったが、念のために治癒魔法で傷口だけはふさいでおく。

 しかしドレスの血の染みはどうにもならなさそうだ。お気に入りのドレスだったのに…。


 ふと思い立ち、私は後ろ手に縛られた自分の腕のほうへ降りた。

 固く結ばれたロープは妖精の手ではほどけそうにもないが、第一に確認せねばならないことがあったからである。

 ドキドキしながら左手の薬指をのぞき込む。

 するとそこにはちゃんと、あの銀の指輪がはまっていた。

 どうやら傷などもついていない。

 よかった、これが没収されていたらどうしようかと思った。

 血にぬれたドレスも着替えさせられていないし、どうも急いでここまで運んできたようで、服飾品等がとられている様子は無かった。


 一点だけ、またルミールお兄様にいただいた星鈴草のピアスが片方無い。

 どうもあのピアスは留め具が緩いようである。もしまた手元に戻ってきたなら今度こそ新しいものに交換しよう。

 そこまで確認してから、次は朝露の籠まで行って、扉があかないかためしてみたが、外からでも中からでも変わらないらしく、妖精であるわたしの手ではびくともしなかった。


「朝露、私少し出てくるから、もし人が来たら呼び歌で教えてくれる?」


 そう言うと、朝露は、震えながらもこくりと頷いてくれた。

 妖精が仲間を呼ぶ歌は人には聞こえないはずだから、これで歌がきこえたら急いでもどればアリィシャの体が死体として処理されるようなことは無いだろう。


 次に、この状態で姿を消せるかを試してみる。

 すると半透明気味という少し半端な状態ではあったが、なんとか気配を薄くすることは出来た。

 この姿でも見つかれば籠から逃げた妖精だと思って捕まることは必至だ。

 できるだけ見つからないように慎重に行動しなくては。

 万が一私が妖精封じの籠に入れられてしまったらそれこそそこで試合終了である。


 私はそっと扉に近づくと、人の気配がしないかをさぐった。

 すると少し遠くから、人の話し声のようなものが聞こえる。

 どうやら複数人の男性の声のようだ。

 間近には気配を感じなかったので、そっとドアの下の隙間から顔をのぞかせると、廊下には誰も歩いていなかった。

 幸い、私達のいる部屋には見張りも立っていない。

 私はそっと天井付近へ飛びあがり、影を落とさないように注意しながら建物の中を進んでいった。


 どうもここは、古びてはいるが貴族の館のようだ。

 さきほどの令嬢の屋敷なのだろうか?しかし使用人たちはおらず、かわりに廊下の先に点々と警備員らしい男たちが見える。

 なんだか物々しいその様子に、ここは住居というよりは隠れ家的なものなのかもしれないなと思った。

 とりあえずまず、私は話し声のしている部屋に聞き耳をたててみようと近づいた。


 部屋の前には護衛らしき男が立っているが、天井には注意をはらっていないようで私には気づかない。

 私は部屋に近づきながらその男の顔を確認して、思わず殴りかかりたくなるのをぐっとこらえた。

 そもそも、妖精の手で殴っても痛くも痒くもなさそうなのだが。

 その男は、昼頃私に手紙を運んできた男性使用人その人だったのである。

 くそ、怪我してないかとか心配した私の気持ちを返してほしい。

 ということは私を殴ったのもこいつか。後で絶対復讐してやる。お気に入りのドレスの仇を取らなくては。

 ともあれ、今現在の私は彼の下に落とし穴を出現させることも、ツブテをふらすこともできないので、ぐっと我慢して隠密行動である。

 そろそろと護衛の頭上、ドアの上まで来ると、部屋の中の話し声がかすかではあるが聞き取れた。


「…するんです、もう待てませんよ。まだ届かないんですか?」

「何かあったのかもしれないな。仕方ない、あと半刻待って来なかったら出立するか。」

「許可証無しでは関所で詰まるでしょう。」

「馬を走らせて家のほうに向かわせる。とにかくここにとどまるのは危険だろう。」

「娘の我儘なんかを聞くからこんなことになるんですよ。」

「それは今関係ないだろう?それにお前が他にも利があると言って…」


 なるほど、少し予想はしていたが、この部屋にいるのはあのご令嬢のお父さんとその協力者か。

 名前を呼び合わないので誰なのかわからないのが残念だが、なんだか聞き覚えがある声な気がする。

 あのご令嬢は開華祭に出ていたのだから、父親も当然、あの場にいただろう。

 ということは、一度は必ず挨拶しているはずである。しかしその中の誰だったのかはさすがにこんなくぐもった声ではわからない。顔を見ればたぶん、名前がわかると思うのだが…。

 なんだかトラブっているようだが、とりあえず、あまりここでの時間は無いようだ。

 たぶん顔を見る機会はまだあるだろうからさっさと他を調べて体に戻ろう。


 廊下を進むとエントランスに出たが、窓などは木が打ち付けられており、ドアもしっかりと閉じられていて出られそうにない。

 そのまま反対の廊下へ入ると、一つの大きな部屋のまわりをぐるりと回っているようで、先ほど出てきた倉庫がある廊下に戻ってきた。

 中央が食堂にでもなっているのだろうか。

 エントランスからは出られなさそうだったので、私は警備の立っていない部屋へ、ドアの隙間から入り込む。


 そこは使われていない客室のようだった。

 まったく掃除はされておらず、埃がつもっている。

 体が埃まみれになったのを忌々しく思いながら、私は部屋の中を調べてみた。

 しかし引き出しやベッドの下などを見てみたが、ここは完全に使われてないらしく、大きな家具以外は何もおかれていない。

 残念ながらロープを切れそうな道具も無かった。

 警備が立っていなかっただけあってはずれの部屋だったようである。


 そこで思いついて私は部屋に設置された暖炉を見る。

 道具などは無かったが、ここからなら外に出られるのではないだろうか?

 しばらく火は入っていなかったらしく、ひんやりと冷えていて危険はなさそうだ。

 暖炉の中に入って上を見上げると、ちいさく月明りがもれているのが見えた。

 その月明りめがけて一気に飛び上がる。

 まもなくひんやりとした冷たい空気が肌をなでて、煙突の一つから私は外に出た。

 雲間から漏れ出る満月の明かりに、私は目をすがめる。

 まわりをぐるりと見渡すと、そこは畑と雑木林が広がるのどかな光景で、花が散って葉が茂ったミレットの木を両サイドに置いて流れるクラム川が見え、その流れが行きつく遥か先にチラチラと灯が霞んでいる

 どうやらここは王都近郊の農村のようだ。


 自分が出てきた屋敷を見下ろせば、そこはとても人が住んでいるような雰囲気ではない古びた廃屋に見えた。

 中はそこそこ整えられてはいたので、外側だけそう見せかけているだけなのかもしれない。

 周りを雑木林にかこまれており、昔は農家の主が住んでいたのか、それとも貴族の屋敷だったのか、外から見る分には明かりも漏れずシンとしている。

 しかし横にさきほど見たものと似た荷馬車が並んでおり、人が数人でそのまわりで何か作業をしている。

 上から見ればその存在は確認できるが、たぶん地上から見ると木々に隠れて屋敷諸共見えないようになっているのだろう。

 まわりにも同じような建物がぽつぽつと建っており、他は畑と丘で、最寄の灯は遥か遠くだ。


 その遥か遠くに見える人家の灯に、私は急激に心細くなる。

 あの灯の先で私を心配しているだろう人たちに、早く会いたい。

 クラム川を下っていけば王都まで飛んでいけるはずだ。

 しかしさきほどの話ではもうすぐアリィシャの体は荷馬車に積み込まれるはずである。

 その時に私が中にいなくては死体として処理されてしまう可能性が高いし、戻ってきた時にもぬけの殻では意味が無い。

 行って帰ってくるのに数時間はかかりそうな距離に、私は首をふって弱気な心を振り払い、助けを呼ぶのはあきらめた。

 そんな私の上から不意に柔らかい光が差した。

 上を仰ぎ見れば、先ほどまで雲に隠れていた満月が、その姿を現して明々と輝いている。


 胸に手を当て、深呼吸して月を仰ぐ。


 ~女神様、どうぞ私を守ってください。


 はるか彼方のフェリンドの女神様に祈って、もう一度屋敷の中に入って、縄を切れる何かを探そう…と煙突へ戻りかけた時、私の耳にチャリリ、という澄んだ音が聞こえた。


 驚いて顔を上げる。

 その先には、薄暗い畑と、その横にポツポツと木が茂る農村の景色。

 誰かがいる気配は無い。

 心細さのあまり、幻聴でも聞こえたのだろうかと首をかしげた私の耳に、やはりチャリン、という音が聞こえる。

 どこから聞こえているんだろう。

 耳をすまして、時折聞こえるその音の方角を見る。

 しかし月明りだけでは、人がいるのかどうかはやはりわからなかった。

 私は音がした方角と、煙突を見比べる。


 ~歌が聞こえる範囲まで行ってみよう。


 妖精の呼び歌が聞こえる範囲は歩いて20分くらいの範囲だ。飛べば10分くらいといったところか。

 それくらいの時間であれば死んだと思われても処理される前に帰れる…だろう。たぶん。


 覚悟を決めて、ふわりと空を舞う。

 時折私を呼ぶように、チャリン、と聞こえる音を頼りに、私は農村ののどかな畑のほうへ飛ぶ。

 少し行くと、畑の横のあぜ道に面したこじんまりとした雑木林にたどり着く。

 音は、雑木林前に建った物置のその先から聞こえてきた。

 もうずいぶんと近いその音に、ドキドキと心臓が跳ねる。

 今はアリィシャの体の中にいないのに、その存在を近くに感じて私の心は高揚した。


 はやる気持ちを抱えて物置の横を飛びぬける。

 しかしその半ばで、その物置から、黒い人影が出てきた。

 しまった、と思った時にはもう遅く、チカッと視界が瞬いたかと思うと、体が大地に落ちる。


「きゃあっ」


 驚いて見れば、私が落ちたところに、妖精封じの紋が刻まれていた。


「…なんだ、逃げ出してきたのか?」


 冷たい声に顔をあげる。

 それは真っ黒なローブを着た大柄な男性だった。

 目深にかぶったフードの下から、見覚えのある顔がいぶかしげな表情でこちらを見ている。

 三年前、泉で私を捕まえた男の顔だ。


「は、はなして!」


 私はこの先に行かなくてはいけないのに。

 もう少し、と油断したことに歯噛みしながら、私は無駄だとわかりながら男を睨みあげて叫ぶ。

 しかし男はそんな私には目もくれず、あたりを見渡して嘆息する。


「こんな場合では無いのだが…。仕方ない。ここにおいておくわけにもいかないな。」


 そう言って、こちらに手が伸びてきた。

 満月を背に、真っ黒な腕が私にむかってくる光景に、いつか見た夢を思い出し私は目を見張った。

 逃げようにも、妖精封じの紋の上で、私の体はまったく言うことをきいてはくれなかった。

 なにか悪態をつこうと口をあけても、せまってくる手の恐怖に、はくはくとただ動くだけだ。

 男の手が、三年前と同じように私をつかみ、持ち上げる。

 妖精封じの紋の上から開放され、動けるようになったわたしは一生懸命その手から逃れようともがいたが、その大きな手の力の前では無力だった。


「こまったな、籠があればよかったんだが。」


 私の抵抗を気にした様子も無く、男がまた物置に戻ろうとしたところで、私の耳に澄んだ音がまた聞こえた。

 チャリリ、とその音が私の耳に響いた瞬間、男の体が大きく揺れて倒れる。


「取り押さえろ!」


 衝撃でゆるんだ男の掌から逃れた私は、混乱しつつも空へ飛び上がる。

 その眼下で、足に矢を受け地に倒れる男を騎士服の男性たちが取り押さえている。


「そいつで間違いないか?」


「間違いありません。」


「よし、さっさと吐かせろ。」


 騎士たちが飛び出して来た雑木林から、低く不機嫌そうな声が近づいてくる。

 開華祭の日以来聞けていなかったその声に、私は視線を向けた。

 最初に目に入ったのは鮮やかな赤だった。

 取り押さえられた男に向かって、月明かりの中でも明々と燃えるようなその色が近づいていく。

 チャリン、という音が聞こえ、彼がふいにこちらへ目線を上げた。

 金色の瞳が私を捉えるのを見ながら、私は急降下してその鼻に、思いっきりすがりつく。


 ~ウルベルト殿下だ!幻じゃない!!


 すりすりすりすり。


 今回こそは現れた通りすがりの勇者様に、私は喜びのままに夢中で頬を摺り寄せる。

 まわりでなにやら驚きの声が上がっていたようだったが、喜びのあまり我を忘れていた私はしばし殿下の鼻にくっついていた。

 そんな私の首根っこを、私の体よりも大きな手がひょいと器用に持ち上げる。

 彼の鼻からべりっとはがされ、はっと我に返ると、金色の瞳が驚いた様子で見開かれて私をまじまじと見ていた。


「…銀色の…妖精?」

「閣下のお知り合いですか?」


 ウルベルト殿下の横から上がった声に、周りを見ると随分と沢山の騎士団の制服を着たお兄さんたちが、殿下と同じくポカン、とした顔でこちらを見ている。

 一人だけ、無表情のままこちらを見ているのは、ウェジントン子爵だ。その横には弓を背負ったベオルフまでいる。


「いや…。んん、お前もしかして随分昔に見た銀の妖精か?無事だったのか?」


 三年前のことを言っているらしい殿下に、私はつまみあげられたままコクコクと頷いた。

 そして翅をはばたかせると、ウルベルト殿下はまだ私をつまんでいたことに気づいたのかそっと手を離してくれる。

 とりあえず、状況を説明して彼等を屋敷まで誘導しなくては…と思った私の耳に、朝露の歌が細く聞こえてきた。

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