43 開華祭3
テラスに出ると、ひんやりと気持ちよい夜の風が頬をなでた。
今日は天気も良かったので、空には星がまたたき、少し欠けた月がこちらを見下ろしている。
私は会場の熱気と、ずっと殿下にくっついていたせいでほてった体にすぅ、と清涼な夜の空気を吸い込んだ。
「ふう、こうして出てみるとやっぱり会場が暑かったのだとわかりますわね。」
中にいる間はあまり気にしていなかったが、冷たい空気になでられると、どれだけ自分の体が熱くなっていたのかがわかる。
私はその風を心地よく思いながら、テラスの手すりに手をかける。
そのまま見上げると、星がちかちかと輝いて、遠のいた楽団の音にあわせて踊っているようだ。
「特にあなたはずっと人に囲まれておいででしたからね。」
クライムも少し苦笑しながら横に並ぶ。
彼の白い肌は、会場の熱気のせいかうっすら赤くなっていた。
「そうね、やはり王族の方の横にいると、人の多さに圧倒されてしまいますわ。私、先日まで人もまばらな田舎に引きこもっていたのですもの。」
うふふ、と笑うと、クライムが少し寂しそうな笑顔を向けてくる。
「…たとえ殿下の横でなくてもあなたと話をしたい人は多かったですよ。さきほどもすごい人だったでしょう。皆、殿下があなたから手を離してくれないかと待っていたのです。…まあ、私もですが。」
「まあ、話しかけて下さればよかったのに。殿下はお忙しかったから、わたくし少し暇をしておりましたのよ。」
「ふふ、竜の眼光に逆らえる人間はなかなかいませんよ。今日はどちらの竜も宝石を抱え込んで離さないとみなさん嘆息してらっしゃいました。」
「あら。」
ということはロザリンドもずっと王太子の横に居たということか。
彼女は適当に彼をあしらって夜会を飛び回るのかと思っていたので少し意外だった。
「竜の留守にあなたを手にすることができた私は幸運です。……アリィシャ嬢…」
「なんです?」
言葉を途切れさせたクライムを不思議に思って私は顔をあげた。
そこには不安そうに揺れる灰色の瞳が、星空を映している。
クライムは何度も言葉をためらったあと、ようやく続きを口にした。
「このまま、あなたを竜の腕の中から攫ってもいいでしょうか?」
「えっ?」
言われたことの意味を理解するのに、私は一瞬遅れてしまった。
いろいろとあったせいで完璧に彼をそういう事柄の対象外だと思っていたのもある。
首をかしげて、理解しようと努めていた私の手を、クライムが私の理解を待ちきれないという様子でぎゅっとにぎった。
「あのようなことがあって、すぐには難しいかもしれませんが、私はあなたを愛しています。時が来たら、求婚するのをお許しいただけませんか。」
一生懸命に理解を進めていた私に、いきなり直球でずばりその意味を囁く彼に、私は顔に熱が集まるのを感じた。
なんと、まさか、そんなことがあろうとは…。
じっと灰色の瞳を切なげにゆらし、こちらを見つめてくるクライムを、私はたぶん、少し間抜けな顔で彼を見上げていたと思う。
こうして言われると、今まで彼は真摯に私を助けようと動いてくれていたし、ずっと私のことを好ましいと伝えてくれていた気がする。
ロザリンドや家族の無償の愛に慣れすぎていて、親切な友人だと思っていた呑気な自分の頭を蹴り飛ばしたい。
クライムは、私のことをよく理解してくれているし、彼の兄とは違って随分紳士だ。
私も彼のことは友人としてだったが親しく思っていた。
マメに送られてくる手紙には随分励まされたし、助けられた。
両家の関係上、縁を結ぶには困難が多いかとは思うが、不可能ではない。
冬までの私だったら、これ以上のお相手はいないと即決で頷いただろう。
…でも。
「ごめんなさい、クライム。私、…竜の懐の温かさが恋しいようなの。」
金色の瞳と、燃えるような赤い髪が私の胸から去ってくれない。
次期侯爵であるクライムと進む道もけっして容易な物とは思えないが、それでも第二王子である彼の横よりはずっと平穏であろうと思うのに、私は彼の手を選べなかった。
私の手を握る力が強くなり、灰色の瞳が悲しそうにまたたく。
しかしそれは一瞬のことで、彼はさみしそうな笑顔を作ると、その手を離してくれた。
「やはり、あなたにわたしでは不相応だったようですね。でももし、ウルベルト殿下に愛想をつかしたら声をかけてください。いつでもお待ちしますよ。」
「ふふふ、ありがとう。…もし、あなたが許してくれるなら、これからも親友でいてほしいわ。」
「……そうですね、少し、時間を頂ければ…。」
困ったように笑って、瞳を伏せてしまった彼を見て、私はこれ以上は望んではいけないわね、と静かに頷いた。
少しの間、沈黙が降りて背後から聞こえる夜会のざわめきと、楽団の演奏がテラスを満たす。
その静寂を破ったのは、私でもクライムでも無く、ひどく不機嫌そうな声だった。
「こんなところに居たのか。」
三年前の月夜の晩に聞いた、底冷えするようなその声に、びくりと肩を震わせて振り返る。
そこに居たのは、精悍な眉根に深い皺をよせ、腕を組んでこちらをその金色の瞳で睨みつけるウルベルト殿下だった。
彼の赤い髪の毛が、月夜の中にあっても明々とその色彩を主張している。
その姿に追われたあの日を思い出し、私は恐ろしくなって思わず一歩さがってしまった。
広間からよく見えるテラスであるし、近くは無いが他にも人がいる。
やましいことは何もない。
しかし私は友人だと思っていたが、先ほど知らされたクライムの心を考えると、これは殿下にとっては裏切りに見えるのかもしれない。
トン、と後ろに居たクライムの体にあたった私の体を、彼がそっと支えてくれる。
「竜の懐から宝石を奪還するのは、いつの時代も勇者の役目ですから。」
穏やかな口調ながら、棘の含んだクライムの言葉に、殿下の眉がぴくりと動く。
「宝石を持って逃げる勇者は竜にしてみれば盗人だ。」
「盗まれたくなければ離さなければ良いんですよ。…でも、そうですね…」
殿下の眼光を正面から受け止めていたクライムが、情けなくも少し震えてしまっていた私を見下ろしその瞳を優し気に緩ませる。
そして、私を支えていた手で、そっと私を前へ押し出してくれた。
「彼女は宝石では無く、妖精ですから…。自由に飛んでいってしまって、手中に収められる物ではありませんでしたね。」
そう言って、私だけに聞こえる声で、「幸せに」と囁いた彼を、私は振り返る。
「クライム…」
「アリィシャ嬢、今日はありがとうございました。私は少し、風にあたっていこうかと思います。」
にっこりと、灰色の瞳が優しく笑う。私はそれ以上は何も言えず、無言でうなずいて殿下の元へ戻った。
「殿下、ご用事はお済みになったのですか?」
「…ああ…。」
私が歩み寄っても、まだ殿下は険しい顔のままだった。
彼は短い返事で私に答えると、腕を伸ばして近くまで来た私の腰を抱き込み、そのままずんずんと会場の中へ進んでいってしまう。
体格の大きな彼と私とではコンパスに大いなる差があるので、私はそれについていくのに精いっぱいだった。
つんのめらないよう足元に注意していたせいで、殿下がどこに向かっているのかよく見ていなかった。
ようやく彼の足の速度が落ち着いて、顔をあげるとそこはエントランス近くの回廊だった。
少し乱れていた息を整えながらウルベルト殿下を見上げると、そこには前を見据えた依然険しい金色の瞳があって、私は思わず腰がひける。
しかし腰に回されたウルベルト殿下の腕が、私の逃げを許さなかった。
逃げようとしてしまった私に気づいたように、殿下の瞳がこちらを見下ろすと、金色の瞳から険しさが隠れ、代わりに悲し気な色が浮かぶ。
別に、後ろめたいことは何もない。
そう思っていても、こちらを見返してくる金色の瞳が私を責めているように感じて、私は久しぶりに高揚ではない、心臓の鼓動に動揺していた。
彼の怒りが怖いのではない。失望されていたらと思うと怖いのだ。
私に向けられる殿下の笑顔が、陰ってしまったことが、胸を締め付けるのだ。
「……あの男は…」
殿下が苦し気に眉をよせて、私から目をそらす。
見据えられると怖かったのに、逸らされるとそれはそれでショックで、私は自分が我儘だな、と内心呆れてしまう。
「殿下?」
「あの男は…アクス=グレインによく似ている。」
苦し気に言った殿下の言葉の意味を理解しかねて、私はぱちくりと目を瞬かせた。
アクス様に似ているということは、あの男というのはクライムのことなのだろう。
実のところ薄情なことにもう彼の兄の顔はぼんやりとしているのだが、クライムの顔によく似ていると思ったことは覚えている。
「あなたはまだ…彼のことが好きなのか?」
彼?彼って…クライム?いやちがう、この文脈からすると
「アクス様のことが?」
なんでそうなるのか。私は思わずポカンと口をあけてしまう。
しかしたしかによく考えれば、私は彼に捨てられて傷心してフェリンドに帰ったことになっている。
一般的に見れば彼のことを大好きだったと思われているのかもしれない。
殿下もずっと、そう思っていたのだろうか。
伝えてもらうばかりで、まったく自分の気持ちを口にしなかった怠惰な己を後悔しつつ、私は焦燥感で口を開く。
「そんな、私がお慕いしているのはぶっ…!」
殿下です。
そう勢いで告白したかったのに、チャリンという音と共に私の口は殿下のたくましい胸板にふさがれてしまって最後まで言えなかった。
力強く抱きしめられ、息ができない。
素肌の背中にあたる殿下の手が、熱くてくすぐったい。かがめられて私の顔の横まで降りてきた殿下の頭が肩口と首の間にぐり、とすりつけられ、燃えるような赤い髪の毛が視界にちらつく。
そのまま腰の上と肩甲骨のあたりを殿下の腕に縫い留められて、二人の間に一切の隙間が消える。
全身に感じる殿下の体温に、心臓が乱暴に跳ねて、私の体温もぐつぐつと沸騰するようだ。
ごめんなさい、私が悪かったです!
だから離してください、羞恥で死んでしまいます!
そう叫びたいのに、彼の胸に押し当てられた口では満足にその仕事ができない。
ちょっと自分が軍人であることを思い出して、力加減をしてほしい。
酸欠でくらくらし、私は空気を求めて身じろぎした。
しかし私が動いたことで、逃げられると思ったのか、殿下の腕の戒めがさらにきつくなる。
「ふわっ」
ようやく顔をずらしたところで、私の肩にあたる殿下の口から熱い吐息がもれるのを感じて、私はそのくすぐったさにたまらず声をあげた。
私の声に、殿下の動きがようやく止まる。
安堵する暇もなく、ガバリと体を起こした殿下が、先ほどまで私を抱き寄せていた腕でその体を引きはがした。
先ほど殿下の体が降ってきた時と同じ、チャリンという高い音が、二人の間にできた隙間で鳴る。
つい今しがたまで隙間なく埋めていた体温が遠のいて、春先の冷たい夜風が私と殿下の間を通り抜け、私はふるり、と震えた。
ようやく吸い込んだ空気が乱れる呼吸と共に肺にひんやりとおさまり、体の中も冷えていくようだ。
「すまない。」
「いえ、殿下私…。」
額に手を押しあて、悄然と謝罪するウルベルト殿下に、もう一度気持ちを伝えようと彼の袖に手をのばすが、大きな手に突き放されて私の手は宙をきった。
ウルベルト殿下は眉を苦し気に寄せ、私に目をあわせてくれない。
「今日はこれから仕事ができた。私はここで切り上げる。近衛がすぐに来るので…あなたも屋敷に戻ってほしい。」
「殿下」
「すまない、私が屋敷まで送り届けるべきだが…今の私は冷静ではない。」
ふー、と息を吐いて、殿下は視線を合わせないまま踵を返して王宮の中へ大股で歩き去ってしまった。
ぽつんと残され、心細さに私は震える。
会場のほうからは、いまだ人のざわめきと楽団の音楽が聞こえ、それが尚更自分が今一人なのだということを強く感じさせた。
さきほどまで苦しくて腕を離してほしいと思っていたのに、もう殿下の腕の中に戻りたいと思っている。
待っているといったのに、男性と二人でしゃべっていたからふしだらな女だと思われてしまったのだろうか…。
私の考えが至らなかったばかりに、今日は殿下にも、クライムにも辛い思いをさせてしまった。
胸に不安がせりあがってきて、それがそのまま目から溢れそうだった。
しかしここで泣いては泣いて逃げ帰った拝華祭と同じになってしまう。
わたしはふる、と頭を振り、息を整えて気持ちを落ち着けようと努力した。
そんな私の後ろから、コツンとハイヒールの音が聞こえる。
「御機嫌よう、アリィシャ様。」
会場の外の、このような場所でかけられた声にいぶかしく思って振り返ると、そこには柔らかそうなブロンドの髪の毛を結い上げて、豊満な体を露出の多いドレスに身をつつんだ華やかな美貌の女性が立っていた。
たぶん先ほど挨拶した時に会ったはずだと思うが、名前を思い出せない。
私が誰だったっけ…と沈黙していると、彼女は無視されたと思ったのか不愉快そうに方眉を上げた。
「あら、わたくしには挨拶するほども無いということなのかしら。それとも田舎ではそういうマナーが一般的なんですの?人の恋人をたぶらかした上に、今度は第二王子殿下までたらしこむなんて、田舎娘の細い体でどのような手管を使われたのかぜひお聞きしたいわ。」
私はその直球な嫌みに目を丸くした。
これはレディが言ってた妬みというやつなのだろう。
たぶん、彼女の恋人が私に目を奪われたのを忌々しく思ったに違いない。
私もやればできるものである。お見合い五連敗でへこんでいた時の私に聞かせてあげたい。
しかしそれはそれとして、真っ直ぐ向けられる敵意というのは嬉しいものではない。
普段なら聞き流したであろうその言葉に、私は自分に出来る最高の笑顔でもってにっこりと微笑んだ。
大変残念なことに、この時私は、ものすごく虫の居所が悪かった。
「まあ、ごめんなさい。わたくし不調法者で、あなたのお名前を思い出せませんでしたの。それに手管だなんて…。ふふふ、わたくしのような田舎娘に、そのような知恵はございませんわ。なにか思い違いをなさっていらっしゃるのではないかしら。(誰かしらないけど、ポット出の田舎娘に恋人掻っ攫われるなんて、よっぽど魅力がないのですね。笑えるわ。)」
私の言葉の裏をしっかり読み取ってくださったのか、ご令嬢の顔が真っ赤になる。
それはもう見事な赤で、殿下の髪の色のようね、と私は感心した。
さあ、言い返していらっしゃい。受けてたってやろう。八つ当たりしてやる。
そんなことを考えつつ、彼女の次の言葉に備えて私が笑顔を深めたのと、
ご令嬢の反対側からコツコツと足音を響かせて、近衛のお兄さんが待合室で待機していたジェニーと共にやってきたのとは同時だった。
「フェリンド様、お待たせして申し訳ありません。ご自宅まで護衛を務めさせていただきます。」
そう声をかける近衛の方を忌々しそうにちらりと睨んでから、金髪を翻してご令嬢は会場の中へ去っていってしまった。
歩き去る彼女の後ろ姿を眺めながら、もう少し頑張ってくれれば良かったのに、と思いつつ私は近衛の方に促されて馬車に向かう。
この時、喧嘩を売るのではなく大人しく泣き崩れておけば良かったとレディの教えが身に染みたのは、それから数日後のことである。




