38 庭園
王都に戻ってから一週間。
ウルベルト殿下の馬でフェリンド家のタウンハウスまで送り届けられ、その間中王都の人々の興味津々な目にさらされるという羞恥プレイを耐え忍んだ私は、その後はわりと平和に暮らしていた。
さすがに第二王子ともなると王都に戻れば仕事が山積しているらしく、ウルベルト殿下が訪ねてこなかったからである。
毎日花は贈られてきては居たが、フェリンドで共に過ごした成果なのか最近はさすがに殿下がしたためたカードくらいでは心臓も暴れなくなったので動悸息切れによる疲労はまったく無かったのだ。
その代わり、花とカードが届く度に、なんだか気分が沈んでため息が出る。
毎日平和だし、花は綺麗で嬉しいはずなのに。
そんなある日、フェリンド邸へウェジントン子爵が訪れた。
ロザリンドはしょっちゅう遊びに来てくれるが、忙しい彼が王都に居る間にフェリンド家のタウンハウスに訪れるのは珍しいことである。
彼は「いやぁ、よく来たね!」と歓迎ムードで出迎えるお父様に慇懃に礼をした後、赤い封蝋で閉じられた淡いクリーム色の手紙を差し出した。
「お返事を頂いて帰るよう仰せつかっています。」
そう述べて、お父様がその手紙を受け取ったのを確認してからようやくウェジントン子爵は懐かしそうにエントランスを見渡す。
お父様は首をかしげながら受け取った手紙を確認し、その封蝋を認めるとその横でうきうきとウェジントン子爵に声をかけようとしていた私のほうを振り向いた。
「どうしましたのお父様?」
「ウルベルト殿下からのようだよ?」
「まあ、お父様に?」
殿下からは花とカードは贈られてきていたが、手紙が来たのは今日がはじめてである。
しかも花等は皆私宛てだったので、お父様へ手紙が来る意図を私は察しかねた。
不思議に思いながら私が首をかしげると、私に思い当たる節は無いと理解したお父様はここではなんだから、とウェジントン子爵と私をティールームへ誘導した。
今日は天気が良いので、アクス様との顔合わせの時とは違いティールームの大きな窓から庭がよく見える。
まだ花盛りには早いが、それでも庭師が丹精込めて世話した庭にはすでにいくつかの春の花が咲いており、ぽかぽかとした春の陽気も相まって大変居心地が良い。
ウェジントン子爵の向かいにお父様と共に座り、メイドが出してくれたお茶を飲みながら私はウェジントン子爵へロザリンドは何時王都へ来る予定なのかなど雑談をする。
その間に手紙を確認していたらしいお父様がうーん、と横でうなった。
私がその声に彼を見やると、お父様は少しだけ困ったような顔をこちらに向けてきた。
「アリィシャ、お前に王宮へ遊びに来ないかとのお誘いのようだよ。」
「えっ、王宮に…?」
私は王宮に行ったことは拝華祭での一度きりである。
しかもそれだって、拝華の間のまわりを少し歩いただけで、王宮の中心部になど足を踏み入れたこともない。
正直なところ、国の偉い人たちが一堂に会しているだろう王宮へ上がるのは不安が大きい。
私が眉を下げたところへ、ウェジントン子爵の落ち着いた声がかけられた。
「送り迎えは私がするし、殿下が個人的にお会いになるだけで、気負う必要は無い。」
その声に顔を向ければ、子爵は普段の無表情の上に、ほんのかすかに穏やかな微笑みを浮かべていた。
彼と会った少ない機会の中でも、ロザリンドに向けられていた数回しか見たことがなかった貴重な光景に、夜会でもこのお顔なら絶対おモテになるのに!と思わずにはいられない。
普段氷のように冷たい表情が、春の日差しで溶けたようなその柔らかさに私は王宮へ登城する不安も忘れて見入ってしまった。
しかしその表情はすぐにしまい込まれ、それに、とウェジントン子爵は続ける。
「殿下の仕事が遅れて来たので私も来ていただけると助かる。」
「まあ、お忙しいのならお邪魔なのではないのですか?」
「いや……気分転換は必要なものだ。」
何か言いかけてやめたらしいウェジントン子爵に、私は少し不思議に思いながらもそうですか、と相槌を打つ。
ウルベルト殿下の助けになるのであれば頑張ってみようかと考えながら。
ここ数日会っていなかったことで、私は思いのほか、寂しかったらしい。
そして殿下も、まだ私に会いたいと思ってくれていたのだ。
王宮へ行く不安と、行きたいという気持ちのはざまでぐらぐらと揺れていた私の心にウェジントン子爵の言葉がそっと後押ししてくれて、私の心は王宮への道へコロンところがっていった。
それに、ウルベルト殿下の仕事が遅れると言うことはウェジントン子爵の仕事も山積するということなのだ。
そのまま行くと、開華祭で子爵がロザリンドのエスコートをできなくなり、結果として私のエスコートがラフィルお兄様からルミールお兄様になりかねない。
別にルミールお兄様が嫌なわけではけしてないのだが、やはりそっくりな顔を並べて夜会参加というのはなかなかシュールな光景なのではないかな、と思うのだ。
「わかりましたわ。お父様、わたくし参ります。」
私がうなずくと、気持ちほっとしたような表情を見せた父が執事に紙とペンを持ってこさせ、その場で返事を書いた。
出来上がり、封された手紙を受け取ると、ウェジントン子爵はまた慇懃に礼をしてそのまま王宮へ帰っていったのだった。
〇・〇・〇・〇・〇
王宮へ出かける当日、朝からジェニーに念入りに支度をしてもらい、昼過ぎに迎えにきたウェジントン子爵に連れられ、私は王宮へ向かうことになった。
拝華祭以来になる大きく立派な門に息を飲んでいると、ウェジントン子爵が門番へ何事か声をかける。
するとすぐにその重そうな扉はゆっくりと開かれ、私達はそのまま城の正門へ向かうことになった。
正門まで続く前庭にはすでにツツジやチューリップ等春の花が咲いており、私は馬車の窓に張り付きたくなるのを必死でこらえ、小さな四角い窓からその美しい光景を垣間見てため息をつく。
馬車を降り、大きく重厚な彫刻が施された扉を抜けて王宮に入ると、ウェジントン子爵は迷いない足取りで王宮の奥へと私を連れて向かった。
その道中、騎士や王宮メイドさんたちがそれは美しい所作で廊下の隅へ移動し、優美な礼をするのを見ながら私は王宮で働く人々の洗練された動きに慄いた。
さすが国の中心部だけあって、礼儀作法の標準もものすごく高い。美しい調度品の中で美しい所作で働く人々。
この中でみっともない動きをしたらさぞ目立つだろう。
なんだか拝華祭の時より緊張しながら、私は綺麗な姿勢のまま歩を進めるウェジントン子爵に倣ってレディの教えを脳内で反芻しながら、一歩一歩に神経を張り巡らせて歩くことになったのである。
歩いた時間が長かったのか短かったのかわからないが、その緊張感に私の精神が随分摩耗してきたところで、ようやくウェジントン子爵が一枚の扉の前で足を止め、ノックをする。
落ち着いた色合いの木枠に竜の文様が掘られた立派なその扉に見入っていると、すぐに中から聞き覚えのある声が聞こえ入室を許可された。
ウェジントン子爵が押さなくても自ら開いたそのドアの先に、マホガニーの大きな机に頬杖をついて眉を寄せその金色の瞳で書類を確認しているウルベルト殿下の姿があった。
一週間ぶりのその姿に、私の胸が高揚を覚える。
フェリンドでは休みの時間を使って私に会いに来てくれていたので、こうやって仕事をしている姿というのは新鮮である。
その真剣な眼差しが彼の精悍な面差しを際立たせて見え、静かな室内にバクバクと遠慮の無い音で鳴る私の心臓の音が響いていないかと思わず胸を押さえてしまった。
わかるわアリィシャ。私も素敵だと思うわ。でもここは王宮なの!私がへまをしないように少しだけ心臓の出力を下げてくださいお願いします。
扉が開く音に、殿下の視線が上がる。
金色の瞳が私を捕らえた瞬間、それまでの固い表情が弛緩してにっこりと微笑みを浮かべる様が、じっと凝視していたせいかなんだかやけにゆっくりと私の目には映った。
「殿下、お連れしました。申し付けておりました分は終わりましたか。」
ウェジントン子爵はそんな私を気にすることもなく、ごく自然な動きで室内へ歩を進める。
私もその腕に惹かれて、殿下の前へ進み出た。
「ああ、終わっている。そこに積んであるから確認してくれ。」
殿下が指し示した書類にちらりと目をやってから、ウェジントン子爵は執務机の横に置いてあった椅子を引いて私を座らせると、その書類を手に取って確認しはじめた。
その間に、殿下は私のほうへ体を向けてにっこりと笑う。
「アリィシャ嬢、よく来てくれた。道中なにごとも無かったか?」
「はい、ウェジントン子爵がエスコートしてくださいましたので。でも…王宮の皆さまの所作が本当に素晴らしくて私、なにか粗相をしないかと緊張して少し気疲れいたしましたわ。」
言いながら、仕事モードの殿下に見惚れて忘れていた心労を思い出し、ふう、とため息をつく。
その様子を、殿下は眉を上げて見つめた。
「あなたなら大丈夫だろう。本当は私が迎えに行きたかったのだがキースが許してくれなくてな。あなたの横を歩く名誉を不承不承譲ったんだ。」
言いながらジロリ、と睨む殿下には構う様子もなく、ウェジントン子爵は手に持った書類を確認し終えたのか顔を上げて頷いた。
「問題は無いようです。」
短く告げられたその言葉に、機嫌よくウルベルト殿下が席を立ち、そして私の前まで来ると、座っていた私をそのままひょい、と抱き上げた。
「よし、では行こう。」
「……待ってくださいませ殿下!どちらに行かれるのですか!?まさかこのまま王宮内を歩くつもりじゃありませんわよね!?」
あまりに自然で、慣れすぎてしまっていたその動きに一瞬私は反応が遅れた。
久し振りの腕の温かさが心地よくて、ついうっかりされるままになるところだったが、先ほどまで歩いてきた王宮の様子を思い出した私はあわてて抵抗をはじめる。
しかし相変わらず力いっぱい押しても殿下の体はびくともしない。
一週間ぶりのこの距離感に、心臓の音がうるさくて、こんな状態で王宮内を連れ歩かれたらどうなってしまうのかと思うと恐ろしい。
「そのつもりだが。疲れたんだろう?」
何の問題があるのかわからない、と首をかしげる殿下に私はめまいを覚えながらも反論する。
「気疲れしただけでちゃんと自分で歩けますわ!王宮の中でこのような姿で移動するなどそれこそ精神的負担で倒れてしまいます!下ろしてくださいませ!」
わりと切実にそう訴えると、殿下は眉根を少し寄せたが、素直に私を下ろしてくれた。
…女性を抱き上げて運ぶのは普通じゃないと思うのだが、殿下のあのさも当然と言わんばかりの顔を見るに、私の常識がおかしいのだろうか。
この人、まさか普段からこうやって女性を運んでいるのではあるまいな。
そんな考えが頭に浮かび、少しもやもやとした気持ちで殿下を見上げると、その前に彼の腕が差し出された。
王子様なだけあってこのような動きは様になっているのだから、人を荷物のように運ぶ癖をなんとかして毎回素直にエスコートしていただきたい。
でかけたため息を飲み込んで私がその腕に手をかけると、横からウェジントン子爵の声がかかった。
「お茶の時間が終わる頃に迎えをよこします」
「わかっている。では行こうアリィシャ嬢。」
子爵に頷くと、殿下は機嫌よさそうに部屋の外へ足を向けた。
このまま彼の執務室で雑談でもするのかと思っていた私は、また王宮の中を歩き回ることになるのかと少し憂鬱な気持ちになったが、それを知られてまた抱き上げられても困るので、素直に殿下に頷いて彼に続く。
「しかし久しぶりだな。一週間もあなたに会えないとまたどこかに飛んで行ってしまうのでは無いかと不安になった。」
歩きながら嬉しそうにそういう殿下に、私は首をかしげる。
「わたくし、空を飛んだのは殿下がフェリンドにいらっしゃった日に丘の木の上へ登ったきりですわ。」
「ははは、そういうことでは無いのだが…。しかしそうか、あなたのような女性があのような木の上にいるのは不思議だったのだが、空を飛んだのか?」
「え、ええ。その……あの木にはずっと登りたいと思っておりましたの。だから星鈴にお願いしたのですわ。」
ウルベルト殿下の横でみっともない姿は見せられないと、所作に随分と気を取られていたせいで、うっかり素直に答えてしまったことにあわてつつ、私はあの日のことを星鈴に丸投げした。
どうせ木の上に一瞬の内に登るなんて技は女の腕ではできないのだから変な嘘をつくよりはマシだろう。
ちらっと殿下の顔を見上げたが、特に怪しむ様子もなく機嫌よさそうなその顔にほっと胸をなでおろす。
「それで、今日はどちらに向かわれますの?」
「ああ、お茶でもと思っていたんだが、今日は天気が良いだろう。だから裏庭のほうへ席を準備させた。」
「まあ、お庭に?」
さきほど通ってきた前庭の美しさを思い出し、私の胸が浮き立つ。
それと時を同じくして、殿下の足が廊下の突き当りの立派な扉の前で止まった。
彼が扉の両サイドに控えていた近衛騎士に目くばせすると、騎士は無言で頷きその扉を開ける。
開いていく扉の合間から、春の柔らかい日差しがさして私は眩しさに目をすがめた。
「わあ…」
光に目が慣れ、扉の向こうが見えると私はその美しさに息を飲む。
そこはまだ春先であるにも関わらず、すでに春爛漫の輝きに満ちていた。
色とりどりの春の花のむこうには、美しく咲いたバラのアーチが見える。
セイルーム城のそれよりも随分と広い庭いっぱいに咲く花々に、私はぴょんぴょんと飛び跳ねたくなるのを必死でこらえた。
ウルベルト殿下はそんな私の様子に満足そうに目を細め、庭の中へゆっくりと歩きだす。
「素晴らしいですわね殿下!まだ春も浅いのにこのように沢山の花が咲いているなんて不思議ですわ。」
「ああ、城では庭を使っての茶会も多いからな。常に花を咲かせるよう、何か術を敷いているらしい。私はあまりそちらには詳しくないのだが。」
殿下の言葉に私は納得して頷く。
たぶん、妖精の魔法のような術を使う庭師が人の中にもいるのだろう。
たしかに成長促進の魔法などを使えば、季節を少々無視して花を咲かせるくらいは造作も無い。
しかしこんなに広範囲となれば、たぶん個人の魔法というよりは、何か魔法装置のようなもので維持されているに違いない。
そんな未知の技術と目前で咲き乱れる花々のすばらしさに、私は先ほどまで気にしていたお作法など忘れてキョロキョロとまわりの景色を堪能するのに夢中だった。
「殿下、あの、あそこに咲いているバラを近くで見てもよろしいですか?」
「ああ、もちろん。」
頷いた殿下の言葉をきいて、エスコートされるままに大人しく歩いていられなくなった私はぱっと殿下の腕を離し足早に見事に咲いた薄紅色の薔薇に歩み寄った。
ウルベルト殿下はそんな私を諫めるでもなく、ゆっくりと後ろからついてきてくれる。
近づくにつれ、ふんわりとバラの甘い香りが鼻に届き、私は思わず口元を緩める。
森にも野バラ等が咲くことはあるが、こういった大輪で立派なバラは人の庭園特有のものだ。
その透けるような瑞々しい花びらを幾重にも重ねて貴婦人のドレスのようにふんわりと咲くバラに、私は感嘆のため息を漏らして顔を寄せる。
春の日差しに輝くその花は私を心の底から楽しませた。
「素敵…。こんな素晴らしいバラがあたり一面に咲いているなんて、さすがは王宮のお庭だわ。」
野原に素朴に咲く星鈴草も美しいが、こうやって貴婦人のように気高く咲き誇るバラもなかなかに心惹かれるものである。
私はバラからバラへ、一つずつその形や色を楽しみながら、夢中で庭を歩き回った。
どれほどそうしていたのか、私が庭園の中ほどで、一見黒にも見える深い赤色の薔薇に目を止め、このバラはロザリンドみたいね、と思っていたところへ後ろから殿下の声がかかる。
「アリィシャ嬢、どうやらお茶の支度ができたらしい。よければそちらへ行かないか。」
花に夢中でうっかり殿下が後ろについてきているのを忘れかけていた私は、その言葉に飛び上がって振り向いた。
「申し訳ありません殿下、わたくし少しはしゃぎすぎたみたいで…。」
王宮の庭の真ん中で、淑女の基本も忘れてかがみこんでいたことに気づき私は羞恥で顔を赤くする。
殿下はそんな私に呆れるそぶりも見せずに優しく微笑んだ。
「いや、私も楽しかった。」
たぶんずっとはしゃぐ私の後ろで待ちぼうけをくらっていたはずであるのに、嫌な顔一つせずに腕を差し出して来る殿下のやさしさに、私は申し訳なかったという気持ちで眉が下がりそうになるのをこらえてその腕に手をのせる。
乗せられた手に、嬉しそうに瞳を細めて、殿下は私を庭園の薔薇の生垣の中に設置された真っ白なテーブルとイスのところまでエスコートしてくれた。
椅子をひいてもらい、私が座ると、給仕のメイドさんたちが姿を現し、相変わらず美しく洗練された動きでお茶とお菓子を準備してくれる。
目の前に置かれた金装飾も美しいカップから昇る湯気から、大変上等なお茶なのであろう素晴らしくかぐわしい香りがして、また心が浮き立ってしまう。
その後ろに並べられた茶菓子は、どれも花の形の飾りが乗っており、可愛らしくて目に楽しい。
しかし先ほどの失態に重ねてここでまたお菓子に夢中になって我を忘れるわけにはいかない、と私は教えられたことを思い出しながら努めて優雅にティーカップを持ち上げた。
殿下はそんな私の様子を、なんだか気持ち面白そうに見つめている。
「甘いものは好きだったと思ったが、何か苦手なものは無いか?」
「いいえ、甘いものはなんでも好きですわ。こんな素敵なお庭でお茶を頂けるなんて幸せです。毎日このようなお庭を歩ける殿下がうらやましいですわ。」
一口のんだ口の中に広がる美味しいお茶の温かさにほくほくしながら、殿下の言葉に私は答える。
そしてちらり、と目前のお菓子に目を向けた。
この見た目も楽しいお菓子をあれもこれもと手元に取ってしまいそうになる衝動をぐっと我慢して、どのような順番で取れば美しいかを考えていたのだ。
「そうか?まあ私は騎士団の詰め所のほうへ行くことのほうが多いからあまり庭には出ないんだが…母上などはよくこの庭を散歩するようだ。あなたも…」
お菓子を前に頭をフル回転させていた私に気づいたのか、殿下は話ながら給仕に目くばせする。
すると私の悩みも虚しく、給仕のお兄さんがそれは素晴らしい手つきで綺麗に私のお皿の上にお菓子をならべてくれた。
この動きには敵わないな…と内心肩を落としながら、途中で切られた殿下の言葉に私は視線を上げる。
私の先を問う視線に気づいたらしい殿下は、少し顔を赤らめて目線をずらした。
「いや、なんでもない。気に入ってもらえたなら何よりだ。今日の天気がよくて幸いだったな。」
「ええ、本当に。とても気持ちよかったですわ。花の色もとても映えて…。」
言葉をのみこんでしまった殿下に少し首をかしげつつ、私は皿に盛ってもらったお菓子の一つを口に運ぶ。
そしてその瞬間、優しく蕩けるような甘さが口に広がり、気を付けていても口元が緩むのが止められない。
私に視線を戻した殿下が、そんな私を見て、口の中のお菓子のような甘い微笑みを浮かべた。
「本当に甘いものが好きなのだな。」
「はい!こちらのお菓子は格別ですわ。とてもおいしいです。」
「そうか、料理長もその言葉をきけば喜ぶだろう。」
満足そうに頷き、蜂蜜色の目を細める殿下に私はドキドキして頬が熱くなってくる。
たぶんお菓子を食べるたびに私の口元はだらしなく緩んでいるはずなので、あまり見ないでほしい。
恥ずかしさに、殿下の視線から逃れるように私が皿のお菓子に視線を落とすと、バラの生垣のむこうがにわかに騒がしくなった。
視線の外で、殿下に誰かが歩み寄る気配がする。
「母上が?」
少し驚いたような殿下の言葉に、私が目を上げる前に私の後ろから落ち着いた女性の声がかかった。
「ベルト、お邪魔してごめんなさいね。妖精に誘われてわたくしもつい出てきてしまいましたの。」
殿下の言葉と、背後からかかったウルベルト殿下への気やすいその口調から考えてたどり着くその声の主に、私は勢いよく振り向くのをすんでのところでこらえ、失礼にならないよう、ゆっくりと体ごとそちらへ向き直った。
そこに立って居たのは、ブロンドの髪の毛を綺麗にまとめあげ、シンプルなドレスに身をつつんだ王太子殿下によく似た柔和な面差しの美しい貴婦人だった。
肖像画の中で拝見したことがあるその姿に、私は見苦しくならない最大限のスピードでもって席を立ち、王族への最上級の礼の姿勢を取る。
先ほど王宮の廊下を歩いた時よりさらに重い緊張感に、私は倒れなかった自分に内心で賛辞を贈った。
「母上、急にいらっしゃらないでください。アリィシャ嬢が驚くでしょう。」
呆れたような声を上げながら私の横に、殿下が席を立って歩み寄ってくる気配が下げた頭の上からする。
「あら、先触れも出さずにフェリンド領に飛び出していったあなたが言うの?」
そんな殿下の言葉に楽しそうにコロコロと笑う声が優しく響く。
その優しい声に内心で激しく同意しながら私は口を開いた。
「ご挨拶申し上げます、アリィシャ=フェリンドと申します。王妃殿下におかれましてはご機嫌麗しく、本日は…」
「あら、良いのよ。そんなにかしこまらないでお顔をあげて頂戴。フェリンド伯の掌中の珠を私も拝見したいわ。」
内心ドキドキしながら述べた私の挨拶を途中ですっぱりと切り上げさせ、気持ちワクワクとした響きを乗せた王妃様の言葉に、私は一瞬顔を上げるのを躊躇した。
そんな私の肩にウルベルト殿下の手がそっと乗せられ、その温かさにようやく恐る恐る顔を上げる。
少しずつ上がっていく視界に、繊細な刺繍の入ったドレスの裾、細い腰、大きすぎない豊な胸…と立ち方一つとっても優美な女性の姿が順々に映り、最後に、柔和な笑顔を浮かべたお顔が現れる。
ブロンドの髪の毛に銀色の瞳と、色合いは違えど王太子殿下にそっくりな美しい顔立ちは、まさに王妃殿下で間違いない。
拝華祭では遠くから拝見するばかりだったその姿に、私はどうしてよいかわからず、彼女のキラキラとした瞳から視線をはずしたくなるのを必死でこらえた。
顔を見たいと言われて目を伏せるのはやはり失礼だろうか、いやでも目をまっすぐ見るのは不躾かもしれない…と考えながら、王妃様の形の良い鼻を凝視する。
「まあ本当に、噂どおりのご令嬢ね。さきほどから拝見していたのだけれど、去年の拝華祭以降一度も夜会にいらっしゃらなかったでしょう?間近でお姿を拝見する機会に恵まれなくて残念に思っていたものだからついここまで来てしまいましたの。よく王都に戻っていらっしゃいましたわ。ベルトもたまには良い仕事をしますわね。」
「ウルベルト殿下にはその節は大変お手数をおかけして…。」
内心で、「さきほどからって何時から!?」と大恐慌に陥りながらも、私はなんとか返事をする。
万が一ウルベルト殿下を放っておいて一人でバラを堪能してたところまで見られてしまっていたのなら私は王宮出禁を覚悟しないといけないかもしれない。
そうなったらもうウルベルト殿下と婚約することなんて叶わないのでは…!?
それ以前に、王室主催の夜会にも出れなくなってしまう!
そんな大荒れの私の内心を知ってか知らずか、王妃殿下はにっこりと微笑んで頷いた。
「まあ、良いのよ。ずっとウェジントン子爵と一緒に騎士団に入り浸っていて女性に興味が無いのではと不安に思っていたところだったのだもの。あなたを連れ戻すなんてわたくし感心しました。その点エランはいつまでぐずぐずしているつもりなのか…。」
「母上…。」
本当、困ったものだわ…と、そのへんの奥様のように息子たちの心配をしはじめた王妃様を、ウルベルト殿下の呆れたような声が制した。
一人で話続けるところだったのに気づいたのか、王妃様は扇子を口にあて、あら、ほほほと楽し気に笑って誤魔化す。
その所作の一つ一つがどれも美しくて、そのへんの奥様と同じことをしていても、別物のように絵になるのだからさすがである。
「ごめんなさい、お邪魔だったわね。ベルト、約束は守りますわ。それではどうぞごゆっくり楽しんでらして。またお会いしましょうアリィシャさん。」
まるで花の精霊のような優雅さでその場を後にする王妃様へ、私はお見送りの礼をする。
下げた顔をたっぷり時間を置いてから上げれば、そこにはもう王妃様の甘い残り香がかすかに香るだけだった。
「殿下…王妃殿下がいらっしゃるなんてきいておりませんわ…」
王妃様が去っていった後を見つめたまま私が思わず抗議すると、ウルベルト殿下は鮮やかな紅い髪を手でかき上げながら嘆息する。
「申し訳ない。近くまでは来ないと仰っていたのだが…。好奇心旺盛な人で…。」
「お待ちください、こちらをご覧になっていたのはご存知だったのですか!」
私が殿下を見上げ、他人に見られないように彼の脇腹を内側の手でペシペシと叩けば、殿下は横の真っ白なティーテーブルに視線を向けた。
「お茶が冷めるといけない。まだ菓子もあまり食べてないだろう。」
「誤魔化さないでください!言ってくださればわたくし…!」
もう少し気を付けたのに!と言おうとした私の口にチョコレートの甘い味が広がる。
どうやら殿下がフォークで私の口に運んでくれたらしい。
食べながら話すわけにもいかず、立ったまま食べるわけにもいかず、私は給仕が引いてくれた椅子に腰をおろし、口の中のお菓子をもぐもぐと咀嚼する。
その度に広がる美味しく甘いお菓子の味に、またしても私の口元は緩んでしまう。
「すまないな、あまり緊張させて疲れさせたくなかったんだ。」
「でも…」
ぱくっ。
もぐもぐもぐ…。
食べ終えてまた文句を言おうとした私の口に次はクリームがサンドされたフルーツケーキが放り込まれる。
このケーキはクリームが甘すぎなくてすごく素敵…。果物もクリームの味に負けていなくておいしい…。
「美味いか?」
「はい!」
思わず力いっぱい肯定してしまった私に、殿下が蜂蜜色の瞳を緩め楽し気に微笑んだ。
その笑顔の素敵さと、お菓子の美味しさで、私はうっかりそのままウェジントン子爵がよこした迎えが来るまで、殿下に文句を言うのを忘れてしまったのである。




