2 アリィシャ=フェリンド
フェリンド伯爵家は竜王国のはずれに領地を持つ伯爵家である。
別段、大きな権力を持っているわけではなく、その権威は中の下くらい、といったところだが、歴史だけは大変長く、その血筋の由緒正しさは実のところ竜王国の中でも上のほうに位置するらしい。
その血をさかのぼると、妖精の血も混じっているという言い伝えがあり、フェリンド家の令嬢、アリィシャ=フェリンドの容貌はそれを肯定するかのごとく、はかなげで繊細だった。
細く、波打つプラチナブロンドは日の光に透けて淡く輝いているように見え、髪の毛と同じ薄い色のまつげにふちどられた大きな瞳は空を映した湖のような淡いブルーで、湖面が太陽を反射するようにキラキラと輝いている。細い鼻梁に薄桃色の唇、透き通るような白い肌で、体も全体的に華奢であり、その色素の薄さと相まって全体的に白く輝いているように見えるのである。
その姿はまるで絵本の挿絵の妖精そのもので、触れれば光の粒になって散ってしまうのではないかと思うような儚さがあった。
そんな彼女はその見た目にたがわず、病気がちだったようだ。
一年のほとんどをベッドの上で過ごし、外に出て遊んだことなど数えるほどしかない。
「で、私がそこへ逃げ込んだと…」
私は、膝の上の日記を閉じ、ふう、とため息をつく。
日記には日々の何気ないことが書かれていたが、最近の物は筆に力がなく、震えており、日付も飛びがちだ。
その内容は、自分の体が病弱なせいで心配をかけ、悲しませている家族への謝罪と、彼らの幸せを願う文がつづられている。
私はちらりと、ベッド横に備え付けられた、少女らしいバラの装飾が彫り込まれた鏡を見やる。
その中には華奢で繊細な少女が物憂げにこちらを見つめ返していた。
どうやら私は、何をどうやったのかは不明ではあるが、あの恐ろしい夜の森からこの薄幸の少女の中に逃げ込んだようなのだ。
妖精は人間や動物と違ってほぼ精神体といっていい。だから人間の体に入り込む事態はまあ、できないことでは無いだろう。
実際、妖精の魔法の中に、人間の中に乗り移って、その体を動かすことができるものがある。
たいていは寝ている人間等、その意識が無い時に体を拝借する程度だ。
しかし私が困っているのは、今、このアリィシャの体の中には彼女の魂が居ないということなのだ。
私が転がり込んだ衝撃で、体から零れ落ちてしまったのならまだ良い。
人の魂と体は生きている限りは細い糸のような精神体でくっついているもので、それをたどってやればすぐに彼女の魂は見つかるはずだった。
しかしいくら体を調べても、どこにも彼女の魂につながる糸は伸びてはいなかった。
あの日お医者様はたしかこう仰っていた。
『アリィシャ様は、息を吹き返されたばかりか、まったくの健康体になっておられます。』
息を吹き返した、ということはたぶん、家族や親族に見守られ、妖精のような少女は13年の生涯にあの日幕を閉じたのである。
息を吹き返したかにみえたのは、私が体に転がりこんだからに他ならない。
漆黒の鎧に追い掛け回されてからすでに三日がたっている。
最初の二日間は疲労のせいか、私はずっと眠り続けていたらしい。
二日目の昼にまた眼を覚ました時、やはり私の顔をのぞき込んでいた家族が、あの日と同じように歓喜に沸き、代わる代わる私を抱きしめた。
その時の彼らの顔を思い出して、私は今日何度目か最早わからないため息を吐き、頭を抱えた。
妖精の血を引いているらしい彼女の体は温かく、大変居心地がいい。
このまま彼女の体に潜んでいれば、漆黒の鎧たちに見つかることもなく、私の力は回復し、じきに傷も癒えるだろう。
傷さえ癒えれば、アリィシャの体を脱いで、元の姿で森に戻ることもできる。
しかしすでに、この体を返すべき持ち主は何処にも居ない。あとに残るのはアリィシャの死体だけ。アリィシャは今度こそ死んでしまう。
あの日ベッドを囲んでいた彼女に親しい者たちは、また悲しみに暮れるだろう。
その顔を思い浮かべると、私の胸はズキズキと傷んだ。
彼らの悲しむ顔を、見たく無い。
アリィシャが最期まで幸せを願った彼らに、笑顔でいてほしい。
しかし、しかしである。
それでは人知れず死んでしまったアリィシャ本人はどうなるのだろう。
このまま誰にも死んだことを知られなければ、その死を悼む者も居ない。
後に残された体に赤の他人が居座って乗っ取る様は、彼女にしてみればまったく面白くないのではないか。
この体から出るべきか、このままアリィシャとして過ごすべきか。
答えが出ない問題に、私は今日ずっと頭を悩ませていた。
まったく、できることなら最初のあの日に戻り、漆黒の鎧への恐怖から解放された安堵感で眠ってしまった自分の頬を思い切りひっぱたいて起こしてやりたい。
すぐにこの体から出ていけば、一瞬息を吹き返した程度で済んだのに。
三日もたってしまっては、またアリィシャの死を目の当たりにする家族の悲しみはいかほどのものなのか。
そう考えると私の胸は酷く痛み始める。
頭では私さえ来なければ、アリィシャはどのみち死んでしまったのだから、今すぐにでも体から出るのが正しいのだと思うのに、私の胸は苦しいくらい、家族が悲しむのを拒むのである。
想像の中で悲嘆にくれる家族の姿に耐えられなくなり、私は抱えていた頭を上げ、窓の外に目をむけた。
外はすでに暗くなっており、あの日より少し欠けた月が涼やかに庭を照らしている。
「どうしてこんなに、胸が痛いのかしら…。」
いかに私がアリィシャやその家族に同情していたとすれ、会ってまだ三日もたっていない彼らの悲しみに、こんなにも胸が締め付けられるものだろうか。
息もできないほど、苦しくなるものだろうか?
この悲しみは、どこから来ているのだろう。
そっと胸に手をあてる。
そこにはまだ発展途上の、細く華奢な少女の胸。
私の物ではない、アリィシャ=フェリンドの物だ。
私は日記の最後のページをパラリとめくった。
それは今からもう一週間以上も前に書かれた物である。
『この日記を書けるのも、あと何回でしょう。死ぬのは怖くないけれど、優しいお父様やお母様、お兄様たちを悲しませたくな いのです。私の家族はとても優し くて、笑顔が似合 う素敵な人た ちなのに。
どう か私が 死 んでも家族 が』
弱々しい筆跡で書かれた日記は、最後までかけなかったのか途中で終わっている。
しかし書かれなかった最後の文がなんだったのか、それは見なくてもわかる。
「笑顔で居てくれますように。」
私はそっと立ち上がって窓辺により、バルコニーへ続くガラス戸を開けた。
外の冷たい風が部屋へ吹き込み、その清涼さに、深呼吸する。
アリィシャの部屋は屋敷の三階にあり、バルコニーの下にはアリィシャの母が趣味で作っているらしいバラ園と、そのむこうに茂る屋敷裏の林、そしてその先にゆったりと横たわるなだらかな丘が月明りに照らされてよく見える。
私は自分が寝間着だったことに気が付き、一度部屋の中に戻ってクロゼットから柔らかい白レースのショールを取り出し羽織った。
妖精が体に入り込んだせいなのか、アリィシャの体からすでに病魔は去っており、今の私は健康そのものだ。
しかし目を覚ましてからずっと頭を悩ませていて、顔色がよくなかったせいかまだ病み上がりだから、と家族に言われ、ベッドから出ることすら許してもらえてない。
いたって健康な身の上にとっては少々過保護に感じられるが、数年寝たきりだった少女への対応としては致し方がないことだろう。
今も看護婦が隣の部屋に控え、廊下には侍女が交代で、何かあればすぐに駆け付けられるように立っている。
私は彼らに気づかれないように物音をさせないようそっとバルコニーに出ると、アリィシャの胸の高さの手すりを苦労して超え、庭へ飛び降りた。
消滅しかかってからまだ三日しかたっていないので、人の体を支えて飛ぶことはできないが、着地の衝撃を吸収することはできる。
ふわり、と庭に降り立つと、そのままバラの香りのする庭を横切り、林の中へ入っていった。
林の中は夜の静けさに満ちており、木々の葉が夜風に吹かれて小さくさわめく音の中に私の衣擦れの音が響いて耳に煩い。
その音が風にのって屋敷にまで届かないか少しハラハラとする。
時々後ろを振り返り、だれもついてきていないことを確認しながら私は丘を目指した。
林を抜けて丘につくと、そこは屋敷から見えていたよりずっと広く、ゆったりとした勾配の野原になっていた。
本来であれば丘の上まで行きたかったのだが、寝たきりだったせいで運動不足なこともあり、すでに私は息が上がっていた。
仕方がなくその場にすわり、少し息を整えてから月を仰ぎ見る。
「満月ではないけれど…。これくらいなら大丈夫ね。」
私は頷いて再び立ち上がると、月夜の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
~アリィシャ、ごめんなさい。
心の中で詫びて、私は月夜に向かって歌い始めた。
それは妖精のレクイエムだ。
森では日々、いろんな命が行きかっている。
そんな彼らの中で、悼む者無く死んだ魂を慰めるために、妖精が満月の夜に歌う歌である。
アリィシャの声は鈴のように高く、澄んでおり、妖精が歌うそれとほとんど遜色なしといっていいほど、美しい歌声が丘に響いた。
すると丘や林から、ほわほわと光の玉が生まれては私のまわりを囲む。
それはこの土地の精霊たちで、歌に答えて迷う魂を導くのを手伝ってくれているのだ。
人の身で歌っても、姿を現してくれるとは思わなかった。それだけ、アリィシャの中にある妖精の血はしっかりと息づいているのかもしれない。
普段は生活習慣の一環で、なんとなく歌っていた歌だが、今日この日は、私は心を込めて歌をうたう。
アリィシャの魂が、迷わないように。
彼女の死を知っているのが私一人だけだったとしても、寂しく無いように。
そんな私の気持ちが伝わったのか、それとも精霊が多い土地柄なのか、今までになく集まった精霊たちの光は、ほわほわと私のまわりを踊るようにまわると、歌の終わりに向けて、林や丘のむこうへ飛んで消えた。
もしかしたら、私の決断は間違いかもしれない。
まだ迷いが無いといえばウソになるが、遠く飛び立っていく精霊の光を眺めながら、私は今一度自分の胸に手をあてた。
この小さな少女の胸は、彼女の家族の笑顔を願って痛んでいる。
私は、命を救ってくれた少女の願いをかなえてやりたいのだ。
彼女が願っても、見ることが叶わなかった明日を、彼女の現身にだけでも見せてやりたい。
だから。
今日からは、アリィシャ・フェリンドが私の名前だ。




