28 クライム=グレイン
クライムの初恋の始まりと終わりは、たった数秒間の出来事だった。
執事が取り払った白い布の下から現れた妖精に一目で心を奪われた。
金糸の髪の毛はやわらかそうで、天から滴った清涼な雫のような淡いブルーの瞳はふんわりと優しくこちらを見つめている。
小さくもすっと綺麗な鼻梁に、夏のはじめの積み立てのサクランボのような唇は控え目に笑んでいた。
その顔に見入っていたクライムは、彼女が絵の中の存在だということに気づいて幾分か落胆した。
そして、次の瞬間には、嬉しそうな父の声が、彼の恋の終焉を告げたのである。
「喜べアクス、お前の婚約者が決まったぞ!」
その少女は、自分ではなく、兄のものだった。
兄は気持ち頬を染めて、その少女の肖像画を嬉しそうに眺めている。
彼女を婚約者にできる兄がうらやましくて、妬ましい。
膨れたクライムは、その日は屋敷の図書室に籠って夕飯までずっと妖精の本を眺めていた。
〇・〇・〇・〇・〇
自分の部屋にまで響き渡ってくる父の怒号を聞きながら、クライムは自分の軽率さを激しく後悔していた。
拝華祭の夜、兄を追い払ってアリィシャの横に収まり、エスコート役という兄の椅子に座って浮かれていたまでは良かったのだが、ウェジントン令嬢に連れられて回廊に出て行ってしまった彼女は、こともあろうに兄とデレシアが言い争っているのを目撃してしまったらしい。
デレシアのことは知っていた。彼女の存在に気づいたのは一か月前だ。
その日、初恋の妖精に博物館前で遭遇し、思わず声をかけた時に、アリィシャとの会話がかみ合っていなかった。
クライムは度々花を持ってでかけていく兄が、婚約者の元へ通っているのだと思っていたのだが、彼女は『お兄様はお元気でいらっしゃいますか?』と尋ねたのである。
この言葉は通常しばらく会っていない者に使うものだ。
不審に思い兄の部屋を調べたところ、デレシアからの恋文が大量に出てきた。
しかも、「婚約者が亡くなったら早く教えてください。おまちしております。」という一文付きである。
この手紙を見つけた時、よく兄を殴りつけに行きたい衝動を耐えたものだと我ながら思う。
それを耐えられたのは、この婚約が破断になれば、自分があの妖精に手を伸ばすことを許されるかもしれないという期待があったのもあるだろう。
まず、このことを父に報告するかについて考えた。結論は否だ。どうせ父に報告しても、兄を叱り飛ばして相手の女性から引き離し、事態をもみ消すだろう。
そう思ったクライムは、一人で証拠の収集をすることにしたのである。充分にそろったら、フェリンド家に持ち込もうと考えていた。グレイン家の者が協力すれば、婚約が破談になっても両家の関係は決定的には悪くならないだろうと考えたのである。
拝華祭の夜、信じられない、という目で兄を見ていたデレシアに、アリィシャが兄の婚約者だと教えたのはほかならぬクライムである。
ただ少し、兄がアリィシャの横から離れればよいとそう思ったのだ。
しかしあろうことか、当人のアリィシャが兄の不貞の現場を目撃してしまった。
それにショックを受けたアリィシャは失神しかけ、そのまま寝込んでしまったらしい。
そこまで彼女が兄を想っていたのかと思うと、その思いを裏切った兄にはらわたが煮えたぎる思いであったが、それと同時に、そんな事態を引き起こしてしまった自分への自己嫌悪にも苛まれていた。
もう少しうまく立ち回ることができたなら、あの妖精のように繊細な少女を傷つけずにすんだかもしれない。
証拠を持って、早くフェリンド家にいけばよかったのに。
そう思う度、父の怒号が自分をも責め立てているような気さえしていた。
クライムがもう何度目になるかわからないため息をついた時、にわかに近づいてきた父の怒号が自分の部屋の前で止まり、扉が乱暴に開け放たれた。
もしや父は自分がしたこともお見通しで、ご立腹なのだろうか。
そう考え身構えたクライムに、父は怒りが収まらない、といった表情のまま叫んだのである。
「クライム!今日からはお前が次期侯爵だ!アクスは田舎にでも下がらせる!明日から仕事を教えるから予定を調整しろ!」
身構えていたにもかかわらず、予想外のその言葉にクライムは言葉を失って固まってしまった。
後ろで彼を追ってきたらしい兄も顔色を失っている。
子供の頃から準備をしてきた兄とは違い、クライムはもしもの時のための勉強はしていても、次期侯爵となるにはまだ足りないものが多すぎる。
それなのにそんなことを言い始めた父は随分頭に血が上っていたのだろう。
これは本当に、デレシアのことは知らなかったのだなと半ば呆然と考えていると、父の後ろに居た兄が顔色を失ったまま言いつのる。
「父上、信じてください。私は不貞などしておりません。デレシアはアリィシャ嬢が病床に居た頃に知り合ったのです。彼女が快復してからはその付き合いを断ちました。デレシア嬢はそれに納得せず昨日私を問い詰めたのです。私の立ち回りが悪かったことは認めますが、これは不幸な行き違いなのです!」
兄の言い分に、クライムはまたしても言葉を失った。
それまでクライムは、兄のことを少し押しが弱いところはあれ、真面目な男だと思っていたのだ。
こんな嘘を平気でつくような男だったとは思わなかった。
いや、アリィシャを欺き続けていた時から、すでにこの男は以前の兄とは違う人間だったのかもしれない。
花を持って、しょっちゅうデレシアに会っていたくせに、と怒りが体を駆け巡る。
「嘘だ、兄上は…」
「黙れ!お前は今関係ないだろう!」
兄上はずっと婚約者を裏切っていた。
そう言おうとしたクライムの言葉を、アクスは強い言葉で断ち切った。
関係ない、という言葉にぐっと言葉が詰まる。
父は少し冷静さを取り戻したのか、兄弟を交互に見た後、兄に「来い、詳しく聞く。」と言って書斎へ戻っていってしまった。
フェリンド家との婚約を破棄しないで良い希望にかけたのだろう。
どうもこの婚約のこととなると、父は少し視野が狭くなるようだ。
どっと疲れてベッドにその身を投げる。その日はもう何か考えるのは面倒だった。
次の日、さすがに侯爵位の話もあるので、クライムは父にその後どうなったのかと尋ねた。
すると父は憮然としながらも、今回のことは誤解であったようなので、フェリンド家に誠心誠意説明をし、婚約を続行することと、兄が変わらず次期侯爵になるだろうことを教えてくれた。
もう本当にこの父親は駄目だ。
そんなことをして、この婚約がうまくいくとでも思っているのだろうか。
昔好きだったという女性に似た少女を自分の元に置きたいあまり、まったく周りが見えていない。
兄の言葉を素直に信じたのなら、それはそれで問題だ。
クライムはめまいを覚えながら話を聞き終えて、兄にも父にも見切りをつけた。
しかし自分が握った証拠を、上手く使うためにはどうしたらいいのだろう?
こんなことがあったせいで、フェリンド家には近づけない、その敷居を跨ごうものなら、切り捨てられても文句は言えないだろう。
兄の不貞を証言したウェジントン侯爵家も同様だ。
元々あそこの当主は父とは敵対関係では無いとは言え、仲があまりよくなかった。
どうしたものか、と考えて、クライムが足を向けたのは王太子の元だった。
兄を通じて幼い頃から何度かあっている王太子は、クライムの申し出に時間を作って会ってくれた。
「それで、話というのはなんなのかな?」
重厚な執務机に肘をつき、金色の瞳を細め、いつも通りの柔和な笑顔で話しかけてくる王太子に、クライムはごくり、と唾をのみこんでから話を切り出す。
「殿下は…当家とフェリンド伯爵家の婚約についてのお話はお聞き及びでしょうか?」
「ああ、聞いているよ。ロザリンド嬢が不貞を証言し、アクスはその事実は無いと言い張っているらしいね?」
忙しい王太子が、臣下の縁談などという些末事をいちいち気に留めているのだろうかと思って出たクライムの質問に、王太子は笑顔を崩さず頷いて答えてみせた。
さすがに、近しい者が二人も関係する話は、すでに耳に入っているらしい。
「はい、その通りです。殿下は、どちらの言い分を信じていらっしゃるのですか?」
「ふむ、なぞかけかい?難しいね。アクスは真面目な男だし、幼い頃からの付き合いだ。彼の言い分を信じたい気持ちはあるが、ロザリンド嬢はこういうことに関して、嘘を言うような方では無いからね。彼女は真実を言っている可能性が高い。とすると、疑わしく見えてしまう場所にロザリンド嬢が不幸にも居合わせてしまったけれど、実は誤解だったというところかな?なんだい、私に兄の潔白について、後押ししてほしいのかい?」
さも楽しそうにくすくすと笑いながらそう推理する王太子に、クライムは首を横にふる。
「いいえ、その逆です。兄は嘘をついているのです。私はその証拠も持っています。お恥ずかしいお話ですが、兄は父に今回のことで爵位を渡さないと言われ、不貞を隠しました。父もその言葉を信じてしまったのです。私は兄が許せません。殿下にこのようなことをお願い申し上げるのは心ぐるしいのですが、この証拠をロザリンド嬢に渡してくださいませんか?」
そう言って、持参した手紙などの不貞の証拠を差し出した。
王太子は眉を上げ、いかにも面白い、といった表情でそれを受け取り、中身を精査する。
金の瞳がそこに書かれた文字を追い、すらすらとその内容を確認していく。
「なるほどね、君が言っていることは正しいようだ。これが本当であればたとえグレイン侯爵がこの婚約を続けようとしても、フェリンド家は認めないだろうね。そうなると不利になるのはフェリンド家のほうかな。しかしフェリンド家はウェジントン侯爵家と縁戚だ。今回のことはロザリンド嬢が証言したのだし、面倒なことになるだろうねえ。」
一通り見終わったのか、証拠を机の横に置いて、王太子は顔のしたで手を組み、こちらを伺い見た。
その顔は面倒なこと、と言いながら相変わらず楽しそうである。
「しかし王太子の私が各家の事情に口を出すというのは禍根が残るのではないかな?それにグレイン侯爵の判断は人としては間違っているかもしれないが、当主としては正しいんじゃないか?醜聞は無いほうがいいだろう。」
たしかに、彼の言う通りだ。
父はすべて織り込み済みで、兄の狂言にのったのかもしれない。
相手がフェリンド伯爵家だけであれば、それでも済んだだろう。
「それでも私は罪も無い女性を貶めることは納得いたしかねます。多のために少を犠牲にすることは上に立つ者として時には必要ですが、今回の場合は本来であれば兄がすぐに自分の不実を認め、婚約を解消すればどちらの家にも大きな不利益は無かったのです。フェリンド家にはウェジントン侯爵家がついています。たとえ醜聞を隠してもただでは済まないでしょう。」
「たしかにその通りだろうね。それで?私は君に協力してなんのメリットがあるのかな?ロザリンド嬢の機嫌を取るためにグレイン侯爵家を敵にまわせというのかい?」
王太子はクライムの言葉に軽い調子で頷いてから、柔和な笑顔のまま小首をかしげる。
しかしその金色の目の奥にはこちらを値踏みするような光が見えた。
クライムはそんな瞳をまっすぐに見据え、背筋をのばし、胸に手を置く。
「父はこの婚約が破棄となるのであれば、私に爵位を譲ると申しました。殿下、私を買ってくださいませんか?私は殿下の敵にはなりませんし、兄よりお役に立つとお約束します。」
乱れ一つない美しい姿勢で王太子を見据え、力強く言い切ったクライムの言葉に、王太子は楽し気な笑顔のまま、眉をあげる。
そして椅子をまわし、目を閉じ小さくうなずきながらふむふむ、とクライムの言葉を一つ一つ精査した。
少しの間、室内に沈黙が落ちる。その間、クライムは王太子を見つめた姿勢のまま、彼の答えを待った。
本来、クライムは身軽な侯爵家の次男という立場を気に入っていた。
兄を補佐するためにと与えられた学問の道が性に合っていたし、兄が爵位を継いだ後には学問で生計を立てようと思っていたのである。
それでもこんな申し出をするほどには、兄への信頼は彼の中で底についていた。
安い正義感だけで渡っていける世界だとは思わないが、かといって己の保身のために弱い者を踏みにじるような者に侯爵家をまかせようという気にはならなかったのである。
目を開いた王太子はその金色の瞳でじっと立つクライムを見る。
そして体をこちらに向けなおすと、まるで花が咲いたような嬉しそうな笑顔で頷いた。
「よし、買おう。私は色にぼけた王太子にでもなろうじゃないか。それとこの証拠だけど、私は君ほど優しくないんだ。一番ロザリンド嬢に恩が売れる時にしかるべき人に渡させてもらうよ。私の予想が正しければ、たぶんおっかない人がそろそろ出てくると思うんだよ。その前に罪を認めた君の判断は正しかったと思うよ。私もおかげさまでとばっちりは回避できそうだね。」
王太子はそう言いながら、鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌な顔で机の横に置かれた証拠をパラパラとめくる。
しかし一通りその証拠を眺めてから、今日初めて、彼の眉間に皺が寄った。
「ロザリンド嬢ときたら、私がこんなに心を砕いて愛を請うているのにまったく相手にもしてくれなくてね。お互い女性には苦労するね?」
本気なのかよくわからない王太子の言葉にどう答えたらいいのかわからず、先ほどの力強い宣言とは打って変わって「はあ、そうですね…」と曖昧な返事をするに留めたクライムは、このとらえどころの無い彼と今後付き合うことになるのかと思うと、若干自分の行く末を憂鬱に思ったのだった。
それからクライムは、大学の寮の自分の部屋の片づけをし、お世話になっていた教授に大学に来れる時間が減るだろう旨を伝えた。
教授は大変残念そうにしてくれたが、進みたい道を大事にしなさい、と言って送りだしてくれた。
王太子はクライムに仕事を覚えろということなのか、彼をちょくちょく呼び出してはちょっとした用事を申し付ける。
兄はと言えば、王太子から遠ざけられ、最近は王宮に上がっても仕事が無い日が多いようである。
跡取りが王太子に敬遠されたことにあせったのか、ようやく父もロザリンド嬢の証言について調査を開始した。これに危機感を覚えたらしい兄が先日アリィシャ嬢に狼藉を働きかけたと聞いた時には肝を冷やしたが、なぜかたまたま付近を巡回していたウルベルト殿下が助けに入ったらしい。
近衛が、しかも団長がなんで街の巡回をしているのかと思ったが、王太子が「君たちを見ていてわたしもたまには弟を労わろうと思って。」と言っていたので、まさかすべて彼が仕込んだことだったのかとクライムは眉をひそめてしまった。
随分回り道をしてしまったが、結局グレイン家とフェリンド家の婚約は破棄の方向で話が進んでいるようなので、クライムは胸をなでおろしていた。
兄によく似た顔の自分をアリィシャは見たくも無いだろうが、当分の間はたまに夜会でその姿を見ることができたらいいと、そう思っていたのだ。
しかしある日の朝、王太子はクライムを呼びつけていつも通り細々とした用事を言いつけたあと、その日の天気の話をするような気軽さでこう言った。
「そうそう、君がくれたあの証拠ね。ようやく出番が来そうだよ。それでそのついでに教えてもらったんだけど、アリィシャ嬢は今回のことに傷心して、フェリンドへ下がることにしたらしい。美しい彼女が夜会に華を添えてくれなくなるのは、竜王国には残念なことだね。」
渡された書類を確認しながら、最初話半分できいていたクライムは、最後のほうには目を丸くして王太子を凝視していた。
王太子はチラッと彼を見て、いたずらが成功した子供のような顔で笑った。
「その仕事、急ぎじゃないからゆっくりでいいよ。」
そう言ってひらひらと手を振る王太子に、退出の挨拶もそこそこにクライムは馬車に乗り込んでいた。
今彼が顔を見せても、彼女に会わせてもらえるとは思えない。
それでも一目会いたいと思う気持ちを止められなかったのである。




