1.ありきたりな日常
「それでは、次のニュースです。『独占禁止法に付随する著作物の再販売価格維持に伴う電子媒体販売協定』に違反し業務妨害を行ったとして、○○県警△△署は昨日、同市に住む46才無職、拝金男容疑者を逮捕、送検しました。同氏は容疑を認めて……」
つけっぱなしにしたテレビから流れる音を聞きながら、翔子はパソコンを操作する。
買ってまだ間もないノートパソコンは、キーボードを外すことでタブレットとしても使えるようになる最新型。大きさ、重さ、使い勝手に拘った、少し高めの一品。正面に座る翼の「ちょっと高くない?」という言葉を、「何言ってるの? 10インチのサイズで400グラムを切る重量、これは画期的なのよ。だからと言って性能にも妥協していない。入っているのが汎用OSなのも良いわ。どんなソフトでも動くのは大事……」と、延々と、念仏のような言葉で購入まで押し切った、彼女のお気に入りの品だ。その際に聞こえてきた「これだからオタクは……」という言葉を翔子は都合よく無視したが、翔子にとっても翼にとっても、その方が良かったのだろう。
「『独占禁止法に付随する著作物の再販売価格維持に伴う電子媒体販売協定』、一般的には電子書籍推進法と言われているものでして。電子書籍と製本された書籍を共存させるための業界内の取り決めですな。この中でまあ、俗に小説投稿サイトと言われているサイト、こういったサイトの運営内容にも一部触れておりまして。今回はそちらに違反したという事件です」
「その、電子書籍推進法とはどのようなものでしょうか?」
「簡単に言いますと、インターネット上に存在する同一作者、同一タイトル、同一内容と認められる作品を書籍と同じ作品として扱い共存を図る、そのためのルールです」
パソコンの画面を熱心に見る翔子に対し、翼はぼんやりとテレビを眺める。ああ、そう言えば翔子も小説を書いてたっけ、なんて思いながら。こう、小説を書いている時の翔子はどこかいつもと違う。集中していて声をかけても気付かない時があるかと思えば、集中しているように見えて、針が落ちた時だってもっと大きな音がすると思えるような、ろうそくの炎が揺らめくような音で文句を言う、そういった時もある。見ていて飽きないなぁ、というのが翼の感想。
「具体的には?」
「……実の所、様々な形態がありまして。例えば出版社が電子書籍を提供する場合、書籍に印刷されたQRコードで専用サイトに飛ぶことで、無料で電子版を手に入れることができるとかですな」
「あー、そう言えば最近見ますね、QRコード付きの本」
「これは、本屋に足しげく通うユーザーを出版社が運営するサイトに誘導するためのものですな。そこでユーザー登録すればスマホでも読めますよと。そうして得たユーザーに対し、今度は販促をかける訳です。サイト内で評価が高く、興味を引きそうな作品を宣伝する訳ですな」
「なるほど、そういう意味があったのですね、あのQRコード」
「他にも、電子書籍を購入したユーザーが書籍版を差額で購入可能とする等のメリットを提供しておりまして……」
テレビの音を無視してパソコンを睨む翔子。きっと今の彼女は物語が全て、その物語も、完成するまでは見せてくれないんだろうなぁ、IDとかパスワードも教えてくれないし、そんなことを思いながら、翼はぼんやりとテレビを見続ける。と、首を振り、翔子が席を立とうとする。
「ふぅ。ちょっとコーヒーでも入れるわ」
「あっ、いいよ。僕が入れるから」
「そう、じゃあお願い」
どうせならインスタントコーヒーよりもちゃんとした珈琲がいいよね、そんなことを思いながら、翼は席を立つ。
◇
南向きのリビングに、珈琲を挽く音が心地よく。
日が昇り、熱くなり始めた部屋。ほんの少しだけ漂う香り。
ブルボン種をベースに都度配分を変える翼の珈琲。酸味をやや強めに、尖った味にならないように、だが細かく気を配る訳でもない、感性による、乱暴に言えば適当にブレンドした珈琲は当然のように、毎回どこか違う味を出す。
カウンターキッチンの奥、慣れた手つきで珈琲を淹れる翼。奥の戸棚の一角を占領するミル、ドリッパー、サーバー。引き出しに詰め込まれた何種類もの豆。始めに道具を揃えた時、翔子は「インスタントも結構美味しいのよ」なんて言って眉をひそめた、意外と場所を食う道具一式。
別の棚にはマグカップが並ぶ。こだわりがある割には器に気を配らない翼は、もっぱらマグカップに珈琲を注ぐ。「コーヒーカップなんてかえって使いづらい」とは翼の言。ティーカップだけで済んだと翔子は喜んだが、そのティーカップは殆ど使われることなく、戸棚を飾っている。
日当たりの良いリビングに惹かれ、二人がこの部屋に決めたのは半年前。同居して初めて見る、今まで見えなかった互いの一面に、時に戸惑い、時に怒り、時に諦め。それでも時間を重ね。そこに居るのが当たり前になりつつある、そんな頃合い。
量販店で買ったソファは値段の割には座り心地が良く。一緒に何度も座って決めた、二人にとってのちょっとだけ自慢の品。
その前に置かれた、背の低いガラステーブル。実の所、見た目はいいけど失敗だったかな、なんてのが翔子の感想。今はノートパソコンを乗せたそのテーブルは、重い割に狭いし、扱いは丁寧にしなきゃいけないし。見栄えばかりで良いことないわ、なんてことを彼女は想う。
木製のラックの上に置かれたテレビ。応接セットとは別に、カウンターキッチンの前に置かれた食卓。フローリングの木の色と、壁の白。登りつつある陽の光が二人の部屋を照らす。
「ちょっと暑くなってきたわね。エアコンつけるわよ」
そう言って翔子は、リモコンに手を伸ばす。キッチンでは熱い珈琲が湯気と香りを立てる。先にテーブルに並べられたマグカップ。サーバーを手にキッチンから戻ってくる翼。
ありがとうと口にし、注がれた珈琲に口をつける翔子。その様子を見て、満足気に自分の分を口にする翼。軽く首を捻る仕草を、いつものことと受け流す。互いに意識しない、普段通りのやり取り。
休日の朝の終わり、朝食をとり、日課のジョギングを終えた後。片方は趣味に時を費やし、もう片方はただ過ぎ去るままに任せる。そんな、ありふれた日常、いつもの風景。
平穏な日常がそこにはあった。