天才とは何か?〜天才へのなり方〜
さて、私がこのエッセイを書こうとしたのは理由がある。
天才たるものの言葉が希少性を離れ、アホになった現代人の中で独り歩きを始めたからである。これはもはや誤用と変わらない。天才の大安売り、バーゲンセールがいたる所で行われている。天才は希少であるが故に天才であるのに、普遍的な天才などいてはたまったもんじゃない。金持ちが人口の0.1%だからこそ金持ちであって、100%だったらもはや金持ちではなく一般人であることと同じことである。
では本物の天才と呼べる天才はなんだ?それをこれから書いていきたい。
まず天才には二種類いる。先天的天才と後天的天才。ちなみにカタカナは哲学用語で、筆者が個人的に使ってみたかっただけである。ご容赦願いたい。
先天的天才とは、ギフテッドとも呼ばれている。つまり生まれながらにして、神に天才性を与えられた、本物の天才という訳だ。
そして後天的天才。これらは早期教育、努力をして天才の称号を得たものも比較的こちらに多い。
さて、まず先天的天才について話したい。
彼らははっきり言って(脳)異常だ。
頭がおかしい。
そのおかしさが良い方に作用して、天才性を獲得するのである。
典型的なのはサヴァン症候群だ。
彼らは脳の一部分、あるいは多くを犠牲にすることによって、常人では獲得できないような記憶力、計算力を得るのである。
馬鹿と天才は紙一重とは正に彼らの為にあるような言葉ではないだろうか。
彼らは、常人とは明らかに異なるが故に、苦労をしているだろう。
このタイプの天才に多いのは、できないことが非常に多いことだ。まあ類まれなる天才性を獲得するために、その程度のことはできなくて当然だが。この例を踏まえると障害児というのは実は皆空前絶後の天才なのではないのだろうかという考えが私の中でひらめく。彼らは我々と意思疎通ができないから、また我々にできることができないから、「障碍者」なのであって、実は超天才で我々が馬鹿すぎるが故に行ってることが理解できないだけなのかもしれない。
次に後天的天才の場合だ。これらは容易に獲得できる。なぜなら親が早期教育を行えば柔軟な幼児はすぐ物事を吸収できるに違いないからだ。余談だが、幼児の頭は天才科学者の頭の中とよく似ているらしい。後天的天才には上記の早期教育の天才ともう一つ、努力型天才がいると思われる。これは誰でもなれる、秀才よりの天才だ。私は秀才と天才の違いは、秀才が総合的に優秀なのに対し、天才は一方向に超優秀なことだと思っている。まあ両者は非常に通っているし、一般人が見ても秀才と天才とは区別がつかないだろう。だからこのエッセイでは秀才も努力型天才の枠に収めることにする。
努力型天才というのは、時間があれば誰でもなれる。
マルコムグラッドウェルというイギリスのジャーナリストは著書で、天才の特性について書いた。それによれば後天的天才は時間をかければ誰でも成れる。天才ピアニストがなぜ天才ピアニストなのか。それは途方もない時間をピアノの練習に費やして来たからである。ここが常人との決定的な差であって、つまり才能が人を決定するのではなく努力量が人を決定するのである。
アスペルガー症候群は天才、とよく言われるがなぜ天才なのか。それは彼らが類稀なる集中力を持っていることに由来する。集中力があるということはつまり多くの時間を一つのことに費やせる。分散して時間を使わないが故に天才性を獲得できる可能性が高まる。ちなみに天才と呼ばれるまで何時間必要なのか。それが一番読者の知りたいところであろう。答えは簡単。1万時間やれば良いと言われている。プロとアマチュアの決定的な差がこの一万時間であり、それ以上はない。そんな時間できるかと思われるかもしれないが、できる。別に分散すればいいだけだからだ。と、まあそのようにすることが後天的天才になることの第一歩だ。だが努力にも限りがある。先天的天才に、後天的天才は決してかなわないだろう。だが気を揉む必要は全くない。
彼らにできないことが私はできるかもしれないのだ。一般人と天才の差は才能が分散されていないか、されているかの差だけだ。
そして天才と容易に使うべきでないのは、その言葉は、本物の天才に出会う時までとっておくべきだからだ。だが天才であっても必ずしも幸せになるとは限らない。不幸に苛まれた天才など捨てるほどいるし、早期教育を施された者に多いのだが、早死する者が多い、などだ。普通だと自覚しているならば、わざわざ天才を目指そうとせずに、その普通であるという喜びを噛みしめて生きるのも、また、ひとつの道かもしれない。