8. 二度目の語学留学
翌朝、目が覚めた私は、自分があまり落ち込んでいないことに驚いていた。
昨日は、自分が異世界に飛ばされる(?)という衝撃的な状況を自覚して、あれほど狼狽えたのに、きちんとした食事をして、アレスに見守られて穏やかに眠っただけで、こんなにもさっぱりと前向きに意識が切り替えられるのだから、やっぱり私は図太いと思う。
だてに親に反抗してアメリカ留学していない。
そういえば、留学当初だって、誰も知り合いの居ない土地に単身乗り込んでいったのだから、今の状況と似ていると思う。
―――そうよ。異世界留学だと思えばいいのよ!
無駄に高い順応性を発揮して、既にカーテンの開けられていた窓の外を見つめて、決意を固める。
いつまでも、通じない言葉に絶望している場合ではない。
ここでは自分を理解してくれる人は居ないのだから、自分が理解する努力をするだけだ。
まずは、言葉を覚えないとどうにもならない。
昨夜アレスと交わした言葉を思い出す。
少し意識を変えただけで、私の耳は、ちゃんとこの世界の言葉を聞き取ってくれたのだから、あとは私がそれを覚えていくだけだ。
―――っていっても、途方もない。
どんな文法だか皆目見当もつかない言葉を全くのゼロから学ぶのだ。
それは絶望的なほどに難しいことだろう。
―――でも、それができなくちゃ、生きていけない。
弱くなる心を叱咤して、ベッドサイドに置かれた机の上から、白紙の紙の束を選んで膝に乗せる。
アレスには無断だったけれど、別に何かの紋章や透かしが入った紙でもないし、使っても怒られないだろうと判断して、ペンを取った。
―――大丈夫。また5年前のあの教室から始めればいいのよ。
◇◇◇
初めて現地の学生向けの、普通の大学の授業を受けたときの衝撃は、今でも忘れられない。
まず、速い。
そして内容も、より専門的なために、語彙力が全く追いついておらず、何を言っているのか分からない。
正直、同じく授業が全て英語である留学生向けの、ESLのクラスには問題なく付いていけたから、絶対大丈夫だろうと思っていた。
それなのに、いざ授業が始まれば、あまりに理解できない為、まるで英語ではないかのようにさえ聞こえてくる始末で。これが留学か、と、呆然としたのを覚えている。
どうにか聞き取った単語を辞書で調べているうちに、話題は既に次に移っていて、今度は何の話しをしているのか掴むだけでも集中力をそがれていく。
だから私は、授業中は“講義を聴く”ことだけに集中し、“英語は理解しない”ことにしていた。
少しおかしな話しだが、私の感覚では間違っていない。
あの頃の私は、授業中、視線はスライドの画面に固定し、写真と場の空気で内容を感じ取り、英語は耳から入ってくる事を、スペルも文法も関係なく、ノートに書きなぐっていた。
そして授業が終わってから、手元も見ずに書きなぐったノートを見直し・・・もとい、“解読”し、単語を調べ、新しいノートに再構築してきちんと整理するという作業をしていた。
スペルもあやふやで、飛び飛びのノートを“解読する”のは途方もなく。
たった一度の授業の復習に3時間以上かかった。
そもそも、集中力全開で挑んだ為、90分の授業が半分終わる頃には脳は完全に英語を拒絶し始め、授業が終わるとへとへとだった上に、そんな復習タイムをすぐに持っていたから、あの頃の私は人生で一番勉強していたと思う。
◇◇◇
ドアが開く気配に、私はペンを握りなおして集中した。
入ってきたのは、メイドさんで。
ベッドの上に身体を起こし、膝の上に紙の束を載せてこちらを見ている私の様子に、気圧されたようにその場で足を止めた。
何をしているんだ、と言わんばかりの視線に、誤魔化すように微笑を反す。
とにかく、彼女が話す事を、あの頃のように、紙に全て書き付けるべく、手はスタンバイ中だ。
「ケラセ・フォデント」
メイドさんがこわばった顔で放った第一声を、紙に書く。
カタカナよりもローマ字のほうが慣れていたから、紙には“Quelace Fodento”と筆記体で書いた。
もちろん、スペルは当て字だ。
音のニュアンスで、なんとなくこんな感じかな?というメモなのだから、自分が読めればそれでいい。
ついでにアクセント記号をdeの上に打っておき、メイドさんが戸惑ったように固まっているうちに、その隣に日本語で「ふしんそうなメイドさんの第一声」と書き添えた。
その様子を怪訝そうに見ていたメイドさんだったが、ハッとすると私にすばやく駆け寄って、紙を引ったくり、「*****!」と叫んで出て行ってしまった。
「・・・まぁ、不審な行動にしか見えないよね」
じっと相手の口元を見つめたまま、手だけを動かして、よくわからない文字を書きつけ、満足そうにしている異世界人。
―――うん。私がメイドさんでも、ああするわ。
文字通り逃げ出してしまったメイドさんに苦笑して、ベッドサイドの机に視線を落とす。
もう、白紙の紙は残っていない。
流石に何か書いてある紙に書くことはできないから、残念だけど、“ノートをとってみよう!作戦”は失敗だった。
一応、今の一言は、手を動かした分覚えている。
ケラセ・フォデント、だった。
「なんだろうなぁ?“おはようごさいます”とか。・・・いや、あの表情は挨拶じゃなかったな」
私だったら、なんていうか。
“起きてたんですか”“目が覚めてたんですね”“何してるんですか”“その手を止めなさい”
うん。どれもありそうだ。
―――これ、本当にやって行けるのかなぁ
思わず遠い目になってしまった時、開けっ放しになっていた扉から、ジュストコールを着たアレス(多分。彼の姿を見たら、急にあれが本当に名前だったのか自信がなくなってきた)がメイドさんと一緒に入ってきた。
手には先ほどメイドさんにとられてしまった紙の束を持っている。
アレスの後ろからこちらをのぞくメイドさんの目が据わっている。
・・・やっぱりあの紙を使ったのは拙かったのだろうか。
私は再び意識を耳と目に集中させた。
けれどもアレスの方は穏やかに微笑んで「ヴィーチェ・デンテ、サリー」と声をかけてくれる。
あ、これは挨拶っぽい。
何はともあれ、鸚鵡返し戦法だ。
「・・・ヴィーチェ・デンテ。アレス」
後ろのメイドさんが驚いたように目を丸くする。
アレスは満足そうに微笑を深くしながら、私の隣に座った。
良かった。やっぱり名前はアレスであってるみたい。
「******。****、********?」
ほっとしたとたん、耳が音を拾ってくれなくなって、あっという間に音を失った。
それでも、紙をこちらに突き出してくるから、何が言いたいのかは大体分かった。
あぁ、謝れないって、色々と面倒くさい。
結局迷って、日本語で謝った。
「勝手に使ってごめんなさい」
私は両手を差し出して、紙を受け取る仕草をした。
少なくとも、書いてある事を説明する事で使用方法を分かって貰うことはできるだろう、という考えがあってのことだ。
アレスは素直に紙を手渡してくれた。
感謝を込めて微笑んで、文字を指で辿りながら読む。
書き留めた発音は、きちんと意味のある言葉として届いたらしい。
アレスが後ろに控えていたメイドさんに何事かを話しかけ、メイドさんがそれに応えると、“なるほど”というように頷いた。
「サリー*********」
最初に名を呼ばれた事しか聞き取れなかったけれど、私の行動には納得してくれたようで、アレスが私の膝の上の紙の束を一枚めくって新しいものにすると、ペンを握らせてくれた。
やってみろ、と言わんばかりの仕草で紙を示されたので、私はペンを紙の左上にスタンバイして、アレスの口元に集中した。
「ディート・テッセ・ベロヴィーチェ・シストメッサ・ミラーディア」
いきなり長文かよ、という愚痴は浮かんだけど、すぐに打ち消す。
集中力を切らすわけにはいかない。
楽しそう。あるいは、嬉しそうだな、という感情だけ受け取り、隣にざっとニコニコマークを書いておく。
「ラヴェール。ディート・ヘルツェ・フォルダ・ロスティードラン」
こちらは私に聞かせる、というより、独り言じみていた。
関心している風な空気を感じつつ、文末に“ひとりごと”と書き込む。
「フォン?ヴァルス・ジョッタ?」
今度は驚いた感じ。慌てた感じ。
今のはちょっと分かったかもしれない。
“え?今のも書き留めたの?”って感じじゃないだろうか。
予測として、それも横に書き留める。
そんな私を、じっと見下ろしていたアレスは、ふいに真面目な顔になって、「ディーラ・ヴォルジェッタ」と呟いた。
それも書きとめていると、アレスは私の書く手をさえぎり、メイドさんに向ってなにやら早口でまくし立てた。
確かにそのレベルになると、もう完全に耳が聴くことを拒否してしまう。
手持ち無沙汰な私の前に、アレスがメイドさんを呼び寄せた。
ポーカーフェイスなメイドさんの感情は読みにくくて、じっと見つめられるとやっぱり居心地が悪い。
思わず助けを求めるようにアレスを見ると、アレスが自分を指差して、「アレス」と言った。
そして私を指差して、「サリー」といい、その指がメイドさんに向けられたところで「マリエンヌ」と言った。
この流れなら分かる。
アレスは彼女の名前を教えてくれたのだ。
アレスは今度は、紙を指差し、私のペンを指差し、自分の口元を指差して注意を促した。
もう一度、自分を指差して、ゆっくりと話す。
「エル・レナータ・アレス」
反射的に、ノートを取った。間違いなく、「私の名前はアレス」だ。
確実に理解できる事の喜びが湧き上がってきたけれど、それを必死に押さえ込んで集中する。
アレスの言葉は終わっていない。
次は私を指差して、「ペル・レナータ・サリー」と言い、マリエンヌを指して「ペル・レナータ・マリエンヌ」と続けた。
書かれた3つの文章を眺めれば、明白だった。
「エル」は多分、「私は」だ。
私は自分を指差して「エル・レナータ・サリー?」と言ってみる。
語尾が疑問系なのはご愛嬌だ。
アレスが満足げに頷いてくれたから、通じたのだろう。
嬉しくて嬉しくて、何度もそれを呟きながら、紙に書きとめた文章を指でなぞる。
やっと挨拶らしきものと、自己紹介ができる。
ものすごい進歩だ。
何とかなるかもしれない!
喜びに浸っていると、大きな手がポンポンと頭に置かれた。
小さな子供に「良かったな」とやる感じだ。
慌てて顔を上げれば、いつの間にか立ち上がっていたアレスが、私の頭を撫でていた。
なんだか照れくさくて、とたんに目を逸らす。
「私は*******。マリエンヌ**********。******」
頭上からかけられた言葉に、もう一度顔を上げた。
まだまだ虫食いだらけの文章だけれど、雰囲気で「私は行くけれど、マリエンヌが傍にいるよ」的なことだろうと思う。
私は一つ頷いて、頭を下げた。確か、マリエンヌが以前、アレスがこの部屋を出るときに、腰を折って見送っていたのを思い出したからだ。
アレスはもう一度私の頭を撫でてから、部屋を出て行った。