7. 最初の一歩
次に気がついたとき、部屋は薄暗くなっていて、オレンジ色に照らされた天井からゆっくりと灯りの元をたどれば、ベッドサイドに置かれた机で書類に向き合う貴公子様が居た。
あまりよくは覚えていないけれど、日中、ここが自分の知っている世界ではないことに気がついて、大泣きした後は、気絶するように眠ってしまったのだろう。
人の目を憚ることなく、声を上げて泣いた事など、記憶が怪しい子供時代以外にあっただろうか。
体力の限りに泣いて喚いて、身体に溜まっていた色々なものが、綺麗さっぱり流れ出してしまった気分だった。
年甲斐もなく見っともない姿を見せてしまったと恥ずかしく思いながら、それを根気よく受け止めてくれた、この貴公子様には感謝の想いしかない。
机に散った書類をじっくりと眺めてみれば、丸みを帯びた可愛らしい文字で埋まっていて。
タイ語のようなそれを、ヨーロッパ人に見える貴公子様が扱っている様子に、やっぱりここは異世界なんだなと、だめ押しのように納得した。
ランプに照らされた横顔を静かに観察する。
寝台が高すぎて、うつむいた表情は、耳にかけられそうな長さの金髪に隠れてよく見えないが、何となく、その頬に不自然に陰ができているような気がしてじっと見つめる。
よく見れば、角度のせいにしても、目元が暗い。
その貴公子然とした容姿に不似合いなほど、そこには色濃い疲労が見えた。
メイドが居て。
帯剣した騎士が居て。
その二人に指示できる立場であるこの人は、きっとそれなりの地位がある人間に違いない。
さっき窓から見た限り、この建物は他のどの建物よりも高く、眺めのいい所にたっていた。
そんな館で、それなりの地位がある人間が、こんな異世界から来た小娘に付きっきりで居ていいのだろうか?
きっと、こんな所で、こんな時間に仕事をしなければならないくらいには、多忙な人間なのだろうに。
ありがとうと伝えたい。
もういいから、寝てくださいと、伝えたい。
ーーーだけど、私の言葉は通じない。
それどころか、言葉を発すれば、気持ちの悪いものに聞こえるかもしれない。
今まで、いつか通じるかもしれないと日本語で話しながらパントマイムをしてきたことが恥ずかしく思える。
もう日本語だって、英語だって、二度と通じることはない。
思わずため息をこぼしてしまうと、その寝息とは違う呼吸に気がついたらしい貴公子様が顔を上げた。
「*****」
穏やかに声をかけられて、内容は分からなくても、微笑んで頷き返した。
ゆっくりと体を起こして、ベッドに座ると、上から見下ろすような形になってしまう。
なんとなく申し訳ない気持ちになりながら、向けられた顔を真っすぐに見つめ返した。
やっぱり、目の下には隈ができているし、頬も少しやつれている。
"もう、寝た方がいいんじゃないんですか?”
のど元まででかかった言葉を飲み込んで、自分の目元をなぞるように触って、貴公子様の目元を指差す。
両手を合わせて、頬の横につけて、首を傾げて「寝る」ジェスチャーをしてみせた。
はっとしたように、彼は自分の目元に手をやり、苦笑を浮かべた。
「*********。*******。****、*********?」
ペンを置き、話を聞くように、体を自分に向けてくれた彼は、最後に何かを尋ねた。
何を言われたのか、必死に推理しようとするけれど、手がかりがなさすぎる。
必死の思いで貴公子様を見つめていると、彼はそっと、指先で私の喉元に触れた。
「****、********?」
今度は、その指が唇に。
「**、***?」
理解したい。
この人の言葉を。
この世界の言葉を。
そう思ったからだろうか。
今まで、耳を滑るようにして聞き取れなかった音が、きちんと脳に届く。
「ケセ、ラトーア?」
優しく唇をなぞる指先に促されるように口を開けば、彼が少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに破顔した。
「********。******。**********」
長文になると、あっという間に耳が拒絶してしまって、またアスタリスクの羅列になってしまう。
必死に集中力をかき集めて、相手の口元を注視すると、貴公子様は一言、「アレス」と言った。
短い単語は明快に耳に刻まれる。
「アレス」
鸚鵡返しにつぶやけば、やっぱり嬉しそうに貴公子様は微笑んだ。
そして、指をすっと伸びた秀麗な鼻先に向けて、もう一度、「アレス」と続ける。
私は特に深く考えずに、彼の仕草を真似て、自分の指を貴公子様の鼻先へ向けて「アレス」とつぶやく。
そしてハッとした。
ーーー名前だ。
多分、"アレス”というのは、彼の名前だ。
私の表情の変化で、私が理解したことを察したのだろう。
貴公子様ーーーアレスは、今度は私の鼻先へ指を向けた。
何も言わずに、微かに表情を動かして、私の言葉を促している。
「サリー」
私は簡潔に告げた。
それは留学中に使っていた、私の英語名だ。
小百合、というのは、英語圏の人には馴染みがない音らしく、思い切って、自分の名前の最初と最後の音だけとって、英語名として名乗っていたのだ。
私にとっては、もう5年も使った、本名と同じ位耳になじんだ名前だったのだが、アレスにとっては違ったらしく、その双眼がこれ以上ないくらい大きく見開いた。
ーーーえ?
「サリー?****、******?」
呆然とつぶやくアレスの様子は明らかにおかしい。
声をかけることもできずに、ただ静かに見守っていると、やがてアレスは揺れる瞳の焦点をしっかりと私に向けて、すっくと立ち上がった。
アイスブルーの瞳が、怖いくらいの真剣味を帯びて、私を見下ろす。
無表情に近いアレスは、造作が整っているために、無言のプレシャーがすごくて居たたまれない。
視線から逃げるように身じろぎしたけれど、両手で私の頬を挟んで固定されてしまって、動けなくなる。
そしてアレスは、誓いを込めるような、祈るような表情で瞳を閉じると、静かに私の額にーーー口づけた。
額に触れる、温かな感触に頭が真っ白になる。
この世界に来て、いろいろ驚くことの連発だったけれど、一番理解ができない状態かもしれない。
名乗ったら、驚かれてーーーキスされた。
どれくらいそうしていただろう。
やがてゆっくりと離れたアレスは、まっすぐに私を見つめて、「サリー」と呼ぶ。
「********、******」
困惑を浮かべるしかできない私に、アレスはまた何かを告げた。
もちろん何を言っているかは皆目見当がつかないけれど、最後の音だけ、特別に響く。
ログス デローチェ。
それは何故か、とても重々しく聞こえた。