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4. 水にこぼした一滴の墨

何度か、悪夢を見ては目を覚ました。

身体のダルさと、頭の重さ、汗で湿った服の不快感、強烈な喉の渇き。

どれも自分が高熱を出している事を示していて、ままならない身体にイライラする。

聞きたいことも、確認したい事もたくさんあるのに、意識があるうちにできる事と言えば、貴公子様が差し出す、陶器でできた小さな急須のような吸い飲みから、甘酸っぱい液体を飲む事だけだった。


意外なことに、あの割と偉そうな・・・私はこの屋敷の主人だと思っている・・・貴公子様は、自分の傍に付きっ切りで居てくれた。


サイドテーブルが、最初に目を覚ましたときに見かけたものよりも大きなものに入れ替わっていて、その上に山のように紙が・・・少し黄ばんだ、私が小学生の頃に見かけただけのわら半紙のような紙だった・・・積まれていて、彼はそれを読んだり、何か書き加えたりしながら時間をつぶしているようだった。


言葉は一言も発さず。ただ私が目を覚ますたびに、私の様子を観察しながら、吸い飲みを口元に持ってきたり、額のタオルを入れ替えてくれたりしてくれる貴公子様をぼんやりと見つめながら、また引き込まれるように眠りに落ちる。

それを何度繰り返しただろう。



今回目が覚めたのは、指先に感じた痛みの性だった。

ズキズキとした痛みに、うめきながら視線を下げれば、やっぱりそこには貴公子様が居て。

銀色の洗面器から私の左手を掬い上げて、コーヒーのような色の液体をタオルで拭っているところだった。


「***。********。**************」


あれから、彼の声を久しぶりに聞いた気がする。

しょっぱなから容赦の無い長文だったが、穏やかな口調はこちらに緊張を強いない。

良く分からない言葉はスルーして、とにかく、彼の手に収まっている自分の手に焦点を定めようとするが、濃い茶色に染まった手は、どういう状態なのかさっぱりわからなかった。

とにかく痛くて、手を引っ込めようとすれば、手首を握る貴公子様の力が強くなる。


「*****。*************」

彼は私の視界をさえぎるように立つと、指先から丁寧に包帯を巻いてから、私の手を布団に戻した。

鋭い痛みが、じくじくとした痛みに変わってくると、右手にも同じ感覚があることに気付く。

指先を外側に向けて布団から出してみると、白い布が見えた。


痛みの性か、今回は、少し頭が冴えている。

やっとまともに話ができそうだ。

・・・いや、言葉が通じないのだから、話にならなさそうだけれど。


聞きたいことは山ほどある。


ここはどこなのか。

今日はいつで、あれから何日たったのか。

どうして自分はここに居るのか。


特に日にちは死活問題だ。

何しろ卒業試験までに戻らなければ、今学期で大学を卒業できなくなる。

留学中の学費は馬鹿にならないから、一学期でも早く卒業したかったのに。


記憶が確かなら、彼はもう10回近く着替えをしている。

最初に見かけた仮装状態の正装姿はあの時一度だけで、他はブラウスとキュロットという姿だったが、ブラウスに結ばれたクラヴァットの色がそれくらい変わった・・・と、思う。


クラヴァット。

そうなのだ。彼は未だにそんなものを身に着けている。


意識はうつろだったが、何度も目を覚ましているうちに、おぼろげながらこれが夢でも妄想でもなく、現実なんだと理解した。

言葉も、通訳を呼ぶ事も含めて、英語を全く理解する様子が無いから、ここがアメリカではないことはほぼ確定だ。


ヨーロッパのどこかの、懐古主義なお金持ちの屋敷。

・・・そんなところだろうか?


どうしてそんなところに自分が居るのか、やっぱり全く分からないけれど、もうこうなったら仕方が無い。

どうせ通じない英語ならばと、私は日本語で話す事にした。

ちなみにそれでも話すのは、こちらにコミュニケーションの意思があるというポーズだ。


「あの・・・。ご迷惑をおかけしてすみません」


どうにか身体を起こそうと身じろぎすると、貴公子様は私に何か声をかけた。

多分、「まだ寝ていたほうがいい」的なことだろうが、いつまでも寝そべったままと言うのはあまりに失礼だ。柔らかすぎるベッドに苦戦しながら、それでも身を起こそうとする私に、彼は諦めたように背中に手を添えて、私を起こしてくれた。


「・・・ありがとうございます」


通じなかろうが、御礼を言うのは最低限のマナーだと思う。

感謝を視線に込めて、穏やかに笑いかける。

言葉が通じないときには、表情・仕草、全部を使うしかないのだ。

文化が違うから通じるかどうかは怪しかったが、頭も深く下げた。

ぐらりと視界が傾いたけれど、ここでベッドに戻ってしまってはカッコ悪いから必死で耐える。


「****。**********?」


気遣いが篭った言葉をかけられた気がしたけれど、やっぱり分からない。


「ダンケ。スパシーバ。グラッツェ。グラッシアス。メルシー」


知っている限りのヨーロッパ圏の「ありがとう」を口にしたつもりだが、貴公子様はじっと私を見つめるだけで、表情が変わる様子は無い。


「シエシエ。カムサーミーダ。ナマステ。コープクン・カー」


ダメもとでアジア圏の言葉も入れてみる。

ダメか。・・・じゃあ何語なんだ?

がっくりとしたけれど、まだ手が無いわけじゃない。

伊達に留学していたわけじゃないのだ。


私はベッドサイドのテーブルに置かれた紙とペンを指差した。

彼は少し考えた様子を見せてから、白紙の紙とペンを手渡してくれる。

ペンは、所謂羽ペンで、インクに付けて使うタイプだ。

―――徹底した懐古主義だな。


私は紙に、つたない家の絵を描いた。


「家に、帰りたいです」


さらに、その隣に日本の国旗を書く。


「日本人です。・・・分かりますか?ジャパン」


国旗をまじまじと眺める貴公子様の様子に、ジャパン、ともう一度繰り返す。

え?だって、色々なスポーツの国際競技や、オリンピックの時だって使うし。

国旗が分からないのは・・・まぁ、アジアの小国だし、仕方ないけど、ジャパンも聴いたこと無いの?


流石に参ったな、と思いながら、やけくそになる。


「ソニー。東芝。ホンダ。トヨタ。寿司。マンガ」


外国人にも聞き覚えがありそうな日本語(?)を並べるが、貴公子様は真面目な顔で私を観察するだけだ。

最初は割りと温かみがあって親しみやすいと思っていた顔だったのに、いつまでたっても目元や口元を緩める事も無く、淡々とこちらを観察してくる鋭い碧眼に、ちょっと心が折れそうになる。

そもそも、黒人さんといい、白人さんといい、なじみの無い色合いの顔は、本能的に怖いものなのだ。


もう諦めよう。

電話さえ貸してもらえば、あとはどうにかなる。

ロサンゼルスの大使館のものだが、日本大使館の電話番号は記憶していたから、どうにか助けてもらおう。


そう思って、最後に電話の絵を描く。

ちょっと昔の、ダイヤル式の電話の絵だが、電話といえばこれだろう。

この人は超絶懐古主義みたいだし。


電話の絵を指差し、さらに、確かわりとワールドワイドだったはずの親指と小指を受話器に見立てた“電話”のジェスチャーも加えながら、「電話を、貸してください。日本大使館に連絡したいんです」と言ったのだが、10秒ほどかけて、じっくりと私の書いた絵を観察した貴公子様は、大げさにため息をついて口を開いた。


「****。**************。***************」


感情を読み取ろうと、相手の目を真っ直ぐ見つめて、意識を集中させる。


「****」


彼は最初に放ったと思われる言葉を繰り返した。

少し、悲しそうな。申し訳ない表情になる。

同情されている?こちらを、理解しようとはしてくれているが、私の希望が叶えられるわけではないらしい。


いや、電話くらいは貸してくれるでしょう?

だってお金持ちそうだし。

国際電話は高いヨ~、なんてケチ臭いことは言わないで欲しい。


分かった。

100歩譲って、国際電話は高いからお断りだと言うのなら、責めてネットを貸して欲しい。

今の時代、いくら懐古主義だからって、パソコンの1台も無く、インターネットも使っていないなんていうお金持ちが居るならば会って見たい。


私はキーボードを叩く仕草をしてみる。


「パソコンなら貸してくれますか?」

「******」


眉根を寄せて、首を横に振られた。

これは、多分、ノーと言うことだ。


―――もう埒が明かない。


「分かりました。今まで看病してくださってありがとうございました。とりあえず、外に出て、私の言葉を分かってくれる人を探して見ます。お世話になりました」


もう一度頭を下げてから、ベッドを降りようとすると、貴公子は慌てたように私をベッドに押し戻そうとした。


分かっている。

私の身体は、多分立ち上がれる状態ではない。

ましてや歩いて部屋を出て行くなんて、絶対無理だ。

上体を起こして座っているだけでも、頭がふわふわして、身体が頼りなさげに揺れている状態なのだ。


私はどうしてしまったの?


身体の不調を自覚してしまえば、それに引きずられるように、奮い立たせていた気力が、どんどんと削られていく。

両親の反対を押し切って、単身アメリカへ渡った時だって、こんな不安にはならなかった。

何が何でも、この国で一人、大学卒業まで頑張るんだと固い決意があった。

言葉だって、確かに不自由だったけれど、最初から「My name is Sayuri(私の名前は小百合です)」レベルなら言えたのだ。

現状とは雲泥の差だった。


もういやだ。泣きたい。


ぎゅっときつく目を閉じる。

今ここで泣くのは、なんだか違う気がした。

少なくとも、目の前の貴公子様は、自分を助けてくれようとしている・・・と、思う。

泣いたって何の解決にもならないのなら、体力の無駄だし。

女の武器を使うみたいで、癪だ。


でも実際問題、私はもう、思いつく限り全てのコミュニケーション方法を試したと思う。

―――どうすればいいんだろう。


途方にくれてベッドの端に座っていると、貴公子様が私と視線を合わせようとするように、膝を折った。

私がそうしていたように、自国の言葉をゆっくりと話しながら、身振り手振りで意味を伝えようとする。

まずは人差し指で私の肩を叩き、額を冷やすのに使っていたタオルを取って、自分の身体を拭くような仕草をする。

さらに、自分を指差して、扉を指差し。私を指差して、ベッドを指差した。


うーん。

自分がやったときは伝わってるだろうと思ったけど、やっぱりパントマイムじゃ意思の疎通は難しい。

とりあえず、身体を拭け、と言っているらしい事は分かった。

自分を指差し、ベッドを指差し、身体を擦る仕草をしてみる。

「私は、ここで、身体を拭くの?」

「**。*****」

貴公子様は、頷きながら、私の肩を二度叩いて、ベッドもぽんぽんと叩いた。

ここに居ろよ、と言われた気がして、頷いて見せれば、彼はすぐに部屋から出て行った。


とたんに不安が襲ってきて、苦笑する。

私ってば、あの貴公子様を大分頼りにしているらしい。



―――ダメだって。私は・・・一人なんだから。


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