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2. 役立たずな英語力


はあはあと荒い息遣いが、繰り返し耳を打つ。

喉もひりひりと痛んで、あえぐように呼吸しながら、私は必死に真っ暗な中を走り回っていた。


熱い。

寒い。

痛い。

怖い。

悲しい。


ごちゃごちゃな感覚で頭の中は混沌としていて、確かな事は、ハッピーな状況では無いという事だけだ。

とにかく無我夢中で走る私は、何かを追いかけているのか、追われているのか、それすらも分からない。

暗闇の中、恐怖に慄きながら、それでも全力で走る私の顔面を、ヒヤッとした何かがなでる。

舌だ。何か真っ黒くて、ぬめぬめした物が首筋を捕らえる。


私は絶叫して―――飛び起きた。





「・・・・っ!?」


目を開けると、まず飛び込んできたのは、真っ白い天井だった。

視界が黒くない事に安堵して、強張った身体から一気に力が抜ける。

荒くなった呼吸はなかなか整わず、頭も靄が掛かったように重くて、とにかく熱かった。


あぁ、きっと、私は風邪を引いたんだ。

ほっとして、苦笑が漏れる。

なんていう悪夢だろう。

真っ暗闇に閉じ込められる夢。

しかも、めちゃくちゃリアルだった。

石の床や壁の感触も体中に残っている気がする。

何より、木の扉(?)を掻き毟った感覚も鮮明で、今でも指先がズキズキする。

とんでもない夢だ。


そう結論付けてぼんやりと天井を見つめていた私だったけれど、声が聞こえた気がして、ふっと視線を横にずらした。

ずらして、言葉を失う。


―――どこだ、ここ?


そこには、中世ヨーロッパの世界が広がっていた。

繊細な柄の絨毯が敷き詰められた床に、重々しい猫足の椅子や大理石の天板のサイドテーブル。

壁紙はアンティーク調の花柄だが、全く調子が違う絨毯とも上手く調和していて、こちらも重みがある。

よく磨かれた扉も、彫りが施されていて、高そうだ。

そして何より、私の目の前で固まっている椅子に座った白人女性の服装は、完璧なメイド服だ。コスプレなんかで見かける、ふわふわと可愛らしいものでも、破廉恥なほど短い丈でもなく、クラシカルで品がある。


私がロサンゼルスでホームシェアをして暮らしている家は築5年の、わりとモダンなアパートだったし、私のルームメイトはイラン人男性とインド人女性で、どちらもこんなに白くない。当然コスプレ趣味も無い。彼らの友人かもと一瞬思ったけれど、アメリカでは人種間に隔たりがあって、肌色の濃い人の友人はやっぱり肌色が濃いことが多い。なにかが違う。


目を丸く見開いて未だにフリーズ状態のメイド姿の女性の手には、白いタオルが握られていて、先ほど顔や首に感じた冷たい感触は、これだったのかもしれないと思い当たり、看病してくれていたのかと気付く。


「Thanks for taking care of me(看病してくれてありがとう)」


お礼を言えば、かっさかさに掠れた自分の声に驚く。

でも、お礼を言われた方はもっと驚いたようで、その女性はがたりと音を立てて立ち上がり、タオルを放り出すと、慌てて扉の向こうへ駆けていった。


なんだ、あれは。


留学してから、何度か「なんだお前は」的な視線を向けられた事があったが、あそこまで恐慌をきたされたのは初めてだ。

たとえば、渡米してたった3日目に、仮住まいのホテルの前の通りで、郵便局の場所を聞きたくて、通りすがりのメキシコ系のおっちゃんに、つたない英語で「Excuse me(すみません)」と声をかけたら、変なものを見るような目でにらまれ、ひどいスペイン語訛りの英語で「ノーイングリッシュ」といわれたのだ。アメリカの公用語が英語なのだから、全員英語が話せるものだと思っていたのに、メキシコ移民が多いロサンゼルスでは、英語が話せない人が居ると知って、衝撃的だったから良く覚えている。


今となっては笑い話の一つだが、さっきの彼女の顔は、あのおっちゃんの「何言ってるんだ」的な目を思い出させた。

部屋のインテリアも自宅とは違うし、もしも私が行き倒れて、誰かのお世話になっているのだとしたら、このバリバリの日本人顔が割りと綺麗な英語を話したから驚いているのかもしれない。

―――そうなのだ。

自慢じゃないけれど、私の英語は割りと訛りも少なく綺麗だ。

最初の一年は死ぬ思いをして、ほぼゼロから習得した英語だったが、生来の耳のよさで、5年でここまで仕上げたのだ。


また改めてちゃんと御礼を言わないと。

ここ、結構立派そうなお屋敷だし。


そんな風に暢気にしていた私だったが、次の瞬間全てが吹っ飛んでしまった。

バタバタと慌しい足音が近づき、音を立てて開かれた扉の向こうから現れた男性の言葉が、全く理解できないものだったのだ。


「*******!***?********?」


最初、自分が熱でおかしくなっていて、脳の言語野が正常に機能していないのかと思った。

でも違う。

私の耳も言語野も正常だ。


―――これは、英語じゃない。


驚愕で頭が真っ白になる。

いまだにがなり立てる男性の表情と言葉のトーンから、何かを詰問しているのだろうことは分かった。

怒っているし、不振がっているし、敵意を持っている。

こういうことは、言葉が不自由だった留学最初の1年で、観察のみで理解できるようになっていたから、良く分かる。


それでも初対面でネガティブな感情をぶつけられて、戸惑う事しか出来ない私の耳に、また別の男性の声が入る。


「****。********?*************」


柔らかく、落ち着いたトーンのそれを放った男性を見れば、これまた「ハロウィンのコスプレですか」と突っ込みたくなるような格好だった。金髪・碧眼の貴公子然とした彼は、濃紺のジュストコールに同色の膝丈キュロットを着ていたのだ。歴史・美術には疎いけれど、イメージ的にはアレだ。モーツァルトとか、ナポレオンとか、なんかそんな感じだ。


先ほどの言葉は、帯剣した・・・そう、最初の怖いおじさんは、なんと帯剣していたのだ!・・・おじさんに向けて放たれたものだったが、貴公子のような彼は、今度は私と視線をあわせながら、何かをたずねるようなトーンで話しかけてきた。


ダメだ。

さっぱりわからない。


語学学校にいたときに、フランス・ドイツ・タイ・ブラジル・台湾・韓国、あらゆる国の言葉を耳にしたが、そのどれにも似ていない気がする。いや、あえて言えば、高校時代に歌で覚えたイタリア語っポイかもしれない。

だが、何語か分かったところで意味は無い。

とにかく、分からないのだから。


私はとりあえず、自分がこの言葉を話せないと主張する為に、英語で答えてみることにした。


「I don't speak your language. I'm sorry, but would you mind speaking English? (あなたの言葉は分からないんです。申し訳ないんですが、英語で話してもらえますか?)」


貴公子・・・もう面倒だから、“のような男”は省略する・・・は、冷静に私の顔を見つめて、じっくりと私の言葉に耳を傾けたかと思うと、「ふむ」と考えるような仕草をした。

そして、後ろに控える、先ほどのメイドさんとおじさんに向けて、また何かを話す。

おじさんの方が興奮した様子でそれに言葉を返し、また私に敵意の篭った視線を向けてきた。


あぁ、もう。

自分のことを話されているのに、理解できないというのは本当にストレスだ。

5年掛けてやっと、そのストレスから開放されたと思ったのに、今頃それを追体験することになるとは思っても見なかった。


でも、英語は昨今の世の中では共通言語だ。

この貴公子様は学がありそうだし、間違いなく英語は話せるだろう。

これで問題は解決だ。


そう、思っていたのに。



「*****。**********?**************?」



また貴公子様に何かを長文で聞かれた。

やっぱり英語は話してくれない。

眉根を寄せる私に、貴公子様は単語を区切るように、「**。***?」とゆっくり聞いてきた。

確か、その音は、長文の中に出てきた気がする。

中心となる単語だけを抜き出して、同じ質問を繰り返しているのだろう。


だから、分からないんだってば。



「Stop joke with me. You know English. Right?(ふざけないでください。英語くらい分かるでしょう?)」


声に苛立ちが混じってしまう。

看病してくれた恩人かもしれないのに、この態度は拙いと、理性では分かっているのに、頭の隅でもやもやとしていた不安が膨れ上がってきてしまって、抑えられない。

頭がぐらぐらしてきた。

必死に相手を理解しようと、かき集めていた集中力が切れていく。

目元が熱くなって来て、視界がぼやけてきた。


すると貴公子様は、おもむろに私が寝ているベッドに近づくと、先ほどまでメイドさんが座っていた椅子に腰を下ろした。

後ろで、おじさんとメイドさんが慌てているが、何かを言って黙らせてしまった。

貴公子様は放り出されていたタオルを、私の額に乗せると、そっと髪を梳くように頭を撫でた。


「***。******」


やっぱり理解できない言語だったけれど、穏やかな口調や表情には敵意は無く。

ひんやりとした手のひらが、瞼を閉じるのを促すように目元を覆うと、体力・気力の限界だった私は、肩の力を抜いて促されるままに目を閉じた。



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