1. 全ての始まりは闇の中
気が付いたら、暗闇にいた。
上も下も分からない空間。
まだ目が覚めていないだけだろうかとも思ったけれど、お尻の下の固くて冷たい感覚ははっきりと分かる。
「寒いし。・・・っていうか、どこ、ここ」
呟いた言葉が反響して、ここが閉ざされた空間なのだろうともぼんやりと思った。
何度も瞬きを繰り返し、確かに見えている感覚はあるのに、自分の手を広げて、見つめようとしても、高々30cmほどしか離れていない自分の手さえ分からない有様だった。
意識がはっきりしてくるにつれて、恐怖がせりあがってくる。
「誰か・・・っ・・・誰か、居ませんかっ!?」
声を張り上げれば、震え交じりの自分の声に、ますますパニックになる。
―――怖い。
誰か、誰か。
とにかく声を出し続けて、現実逃避をしていたけれど、一向に変わらない現状に口を閉ざした。
落ち着け、自分。
ゆっくりと深呼吸をして、こうなるまでの経緯を必死に思い出してみることにした。
一番、最近の記憶・・・
考えてみて、頭が真っ白な事に、また愕然とした。
もう一度深呼吸をして、思い出せる自分のプロフィールを確認する。
たとえば、自分の名前は分かる。
鈴木小百合。23歳・・・だと思う。
高校卒業と同時にアメリカに留学してもうすぐ5年経つはずだ。
苦労して英語を習得し、必死に通った大学も、ようやく卒業の目処が立った所だった。
身長は160cmと日本人の平均よりは高いけれども、「背が高いね」と言われるほどではない微妙なサイズ。渡米してからはむしろ「Like a child(子供みたい)」と言われる状態だった。
外見に関して言えば、凹凸に乏しい・・・よく言えば伝統的な日本人体型で。
背中を覆うストレートの黒髪もあって、外国人ウケが良さそうな、ザ・ジャパニーズな容姿をしている。
実際のところは、アメリカの美容院で一度、こけしのようなパッツンカットをされて以来、絶対に帰国したときに髪を切るようにしていて、前回帰ったときから2年経ってしまったため、ここまで伸びただけなのだが。
最近の事に思考を持っていけば、今期履修していたクラスも、教授の名前も覚えている。
期末試験の日程も、卒業に必要なペーパーワークの締切日も、卒業式の日取りだって覚えている。
それなのに、今日が何日なのか。
昨日。おととい。あるいは先週。何をやっていたのか。
詳細を思い出そうとすれば、それだけがすっぽりと抜け落ちている。
無意識の内に、自分を守るように両手で肩を抱きしめる。
脚を縮めて、うずくまった。
アメリカ。
それも治安が悪い部類に入るだろう、ロサンゼルスに住んでいれば、犯罪に巻き込まれる事もあるかもしれない。
誘拐された?
必死に思い出そうとするけれど、いくらなんでもこんなに綺麗に何も覚えていないのは不自然だ。
麻薬とか、変なクスリを飲まされた?
「・・・寒い」
呟いてみて、はっとする。
触れている肩がむき出しだ。
暗闇の中、慌てて身体をなでるように確かめれば、指に触れるのは滑らかな手触りの服。
ドレス?
留学してこの方、勉強一筋だった為、着飾ることなど一度もなかった。
いつだって、ジーンズにTシャツだった自分が、くるぶしまで届くようなマキシ丈のホルターネックのドレスを着ている。
もちろん、そんなものを持っていた記憶はないのに、なぜかこのドレスが鮮やかなオレンジ色だったような気がした。
『―――――っ!!』
自分が、何かを叫んだような記憶が甦り掛けると、突然、激しい頭痛に襲われた。
こめかみを押さえて、呼吸を詰める。
ズキズキとした痛みは、全ての思考を飲み込んで、「痛い」としか考えられなくなる。
真っ暗だった視界が、真っ白に塗り込められていくようにして、私は気を失った。
◇◇◇
次に目が覚めたとき、やっぱり真っ暗な視界に、一瞬パニックになりかけた私だったけれど、身体の下の冷たくて固い感触に、先ほどのことを思い出した。
気が付いたら暗闇で、どうしてそうなったのか経緯を思い出そうとして、ひどい頭痛で気を失ったのだ。
頭に意識を集中させてみるけれど、もう痛みの欠片も残っていないようで安心する。
触れてみても傷があるわけでもない。
今度は思い出そうとするよりも、もっと積極的に現状を把握してみる事にした。
これでも大学では生物専攻。バリバリのリケジョだ。
冷静な観察は得意中の得意じゃないかと自分に言い聞かせる。
手始めに床に触れてみる。
冷たく、少し湿った・・・石だ。
さらにそっと表面を辿っていけば、タイルの目地のようなつなぎ目に指先が触れる。
レンガのように長方形に切り出された石が、敷き詰められているらしい。
恐る恐る腰を上げ、這うようにしてゆっくりと空間を進んでいくと、壁に行き着いた。
そちらも床と同様に切り出された石でできている。
壁で身体を支えるようにして、立ち上がってみた。
よほど長い間、冷たい床に転がっていたのだろう。
ぐらりと頭が傾いて、キーンと耳鳴りがする。
壁についた手を強く意識して、どうにか倒れこまずに立ちくらみをやり過ごすと、靴を履いていないらしく、はだしの足の裏に石のざらつきを感じた。
ゆっくりと手を上に伸ばしてみたが指先が天井や照明に触れることは無かった。
随分とゆったりとした空間のようだ。
深呼吸をしてみて、冷たく湿った空気なのにカビ臭くない事に気づいた。
日本だったら、地下室だってどこだってカビくらい生えるだろうが、留学中、パンを放置しておいても、1週間後にかちんこちんになるだけで、カビが生える事が無かった事を思えば、ここはやっぱりロスなのかもしれない。
壁伝いに、歩みを進める。
何かを蹴ったり踏んだりしてしまわないように、足運びはゆっくりと慎重に進むことだけに集中していたが、角に行き当たって、そういえばさっきのところから歩数を数えておくんだったと後悔した。
今度は歩数を数えながら歩く。
次の角まで、つま先をかかとにつけるようにして歩いて、44歩あった。
私の足のサイズが24cmだから、えっと・・・ざっと10mくらいあったことになるだろうか。
思っていたより広かった。
ゆっくりと振り向いてみる。
そこには、相変わらず闇があるだけで、何も見えない。
見えないけど、そこには10mの空間があるのだ。
背筋がぞくりとした。
何かが潜んでいそうだと考えてしまって、慌てて思考を中断する。
それを考えてしまったら、もう恐怖で冷静で居られなくなってしまうのは明らかだった。
子供の頃から、怪談とか、ホラーとか、大の苦手だったのだ。
気を取り直して、また歩数を数えながら進むと、25歩進んだところで、指先に何かが触れた。
角ではない。壁の切れ目。―――扉だった。
少しざらざらとした、木の扉。
扉があるなら、出られるかもしれない!
私は一気に希望を見出して、必死にその扉にこぶしを当てた。
どんどんと叩きながら、「Excuse me!(すみません!)」と叫ぶ。
だがどれだけ扉を叩いても、英語で叫んでも、日本語で叫んでも、誰も私をそこから救い出してくれる事はなかった。
だんだん、自分が縋っているものが、実は扉なんかじゃないんじゃないかと不安になってくる。
そうなるともう、だめだった。
必死に理性をかき集めて、状況を分析して、希望を見出したと思ったものが、何の役にも立たないかも知れないと思ったとき、心がポキッと折れてしまった。
半狂乱になって泣き叫び、扉じゃ無いかもしれないけど、石の壁に囲まれた空間の中で一番、自分の力でもどうにかなりそうな木の部分をかきむしる。
指先がズキズキと痛んだが、そんな事はどうでもよかった。
疲労で動けなくなっては蹲り、はっとしては扉と信じているものを叩く。
そんな事を繰り返していれば、時間の感覚も無くなってしまう。
空腹と寒さで、少しずつ身体の自由が利かなくなり、私はいつの間にか意識を失っていた。