第一節
「ミューネ・ルナッド・リューゼ、助手の分際でいい度胸だと思わないか?」
秘書官が退室するなり、彼はそう質問した。春の盛りだというのに、冬の湖に張った薄氷のような声音。ミューネが答えに窮していると、彼は羽ペンを置いた。そこで初めて目が合う。
宮廷魔術師エルト・カール・デューの赤い瞳を前に、ミューネはただただ萎縮するしかなかった。彼の恐ろしさは最強の魔神ディアテクロアにも匹敵すると、ミューネは冗談抜きに考えている。否、この世のどこかにあるニアトルケレの牢獄に囚われているという魔神の方がまだ安心安全といえよう。
エルトはミューネにとって絶対的な存在――魔術の師匠であった。
「へ? えっと……あの、師匠、どういう意味、ですか?」
怒られているのはわかる。だが、理由が判然としない。質問に質問を返すのはためらわれたが仕方なく問い返した。
「命令書には〝すぐに〟と書かれていたはずだ。違うか?」
生まれた直後に親元から引き離されて入学させられる魔術師にとって、師弟とは親子にも等しい。場合によってはそれ以上だ。もう十年も彼の元で修行しているミューネには、彼が遠回しに「遅い」と言っているのがわかる。
「いや、だから、その……可能な限り早く来た……と、思うんですけど?」
声が掠れる。古い本の表紙を指でとんとんとんとんと叩き続けるエルト。
「本当か? 本当に最善の努力をしたのか?」
エルトの片眼鏡がぎらりと光った。
そうは言っても、ミューネはエルデルドー砦から全速力で帰還したはずだ。
「へ、あ、はい。最善の努力で登庁しました……」
馬で駆け、南方鉄道に飛び乗り、帝都に着くやいなや全力疾走で、ここ赤龍館のエルトの執務室を目指したのだ。クロスフェール駅で外国人とぶつかったが、それでも歩みを止めたのはほんの一瞬だった。これ以上、どうすれば早く来ることができるというのか?
「大地の精霊と風の精霊の加護があれば馬の脚は速まったはずだ」
いつだって偉大なる師父の指摘は的確だ。しかし、それがミューネにできるかというと話は別である。
「はい……でも、精霊言語は、その――」
「ああ、苦手だったな」
ミューネが口を開くのを待っていたかのように、エルトはぴしゃりと言った。
「……はい」
小さく肯定するしかなかった。師匠の言うことはいつだって正しい。気まずい沈黙が訪れた。舶来品の時計がこちこちと秒針を進めている。それに合わせるように、エルトは本の表紙をとんとんとやるのだった。
エルトがたっぷりと時間を取るのは思考が遅いからではない。ミューネを虐めるために他ならない。
「鬼人語を極め、〝バッソグザルクの護符〟を身につければ翼龍を使役することもできたはずだが?」
さすがにそれは難しすぎる技術なのだが、もはや反論できる雰囲気ではない。
「はい……でも、鬼人語というか亜人言語も、苦手で――」
「ああ、知っている。お前は古代言語以外すべてを苦手にしているからな。もちろん、護符など作れない」
「……はい」
もうそれしか答えようがない。不可能を可能にするのが魔術師とはいえ、今のミューネには無理難題すぎるのだ。
昨年、二十八歳という若さでエルト・カール・デューは宮廷魔術師に任官した。これは最年少記録であり、ミューネも師の出世を喜んだものだった。魔術に限らず有能なエルトは、高齢の宮廷魔術師長を差し置いて帝国の魔術行政を差配しているという。宮廷魔術師の制服――金糸で刺繍された白いローブもすっかり馴染んでいる。
かつて、神童とも呼ばれた師には凡人の苦悩などわからないのだろうか。否、彼はその分、努力を積み重ねていた。寝食を忘れて研究や業務に没頭するあまり、頬がこけるほど痩せている。そして、齢三十を前にして髪は真っ白だ。どれほどの修行を積んできたのか、ミューネには想像もつかない。
「では、お前の努力不足だ」
だからこそ、彼はそう言い切れるのだ。
「……ごめんなさい」
超人たれと言われるのも何となく納得できず、ミューネは口を尖らせることで小さな抵抗を試みた。当然ながら、冷徹な師匠相手に効果などない。
「となると、更なる修行が必要だな?」
「は、はい……」
嫌な予感がする。
「ふむ。そうだな、〝タネコイガル修験洞〟に挑戦するか」
「へ!? そんな、いくらなんでも死にますよ、それ!!」
生還率二割未満の苦行である。今まで萎縮していたミューネもさすがに声を荒げた。
「では、ケンデンス先生の合宿に参加させてもらうとするか」
「ちょ!! 殺す気ですかっ!? 私に死ねって言ってるんですかっ!? 師匠ぉ!!」
今度は生還率一割未満だ。決して冗談を口にしない師父にミューネは詰め寄った。
「しかし、お前も自身の努力不足を認めているわけだからな。師としては何か課題を与えなければならないだろう?」
「えー、それおかしくないですかぁ? 死んだら修行も無駄になるんですよぉ?」
涙目のミューネを見返す冷ややかな赤い瞳と片眼鏡。情けも容赦もない視線。
「えっと、じゃあ、その、もうちょっと、ほら……中間みたいな課題、ないですか? とりあえず生きていられれば何でもしますから!」
その瞬間、室内の空気が変わった。秒針の音がやけに大きく感じられる。エルトも本の表紙を叩くのをやめた。
「そうか……」
あのエルト・カール・デューが微笑んだ。
「あ」
彼の微笑みは魔神ディアテクロアの怒りよりも恐ろしい。気づいたときにはもう遅い。
「そうか、何でもか。何でもしてくれるのか」
「へ、あ、いや、その、それは、言葉の弾みというか、その……」
大量の汗が噴き出した。言ってはならないことを言ってしまったのだ。
「ふむ。よかろう」
冗談を言わない男が過激なことを言う場合、真相はふたつ。本気か、罠か、である。
「ミューネ・ルナッド・リューゼ、お前に頼みたい仕事がある」
嫌な予感はいつだって的中する。この場で泣き崩れるべきなのではないかとさえ、ミューネは思うのだった。