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第二節

 烏兎の間隙に住まう母なる女神よ

 汝の零した青き涙に

 今も我らは感謝を捧げん

 願わくば再びの慈悲のあらんことを


 堂内は戴冠したばかりの皇帝を祝福する祈りで満たされた。

 時にクラリーク帝二年愛華月十七日――旧大陸革命暦一〇三年四月二十日。ところは帝都クロスフェールの楽土大聖堂。

 盛大な戴冠式を目の当たりにして、ミューネは息を呑むしかなかった。

 貴族たちは煌びやかな衣服を纏い、皇帝の頭上には金銀宝石で彩られた神聖なる帝冠。涙神プラニラムへの祈りが終わると、百人を超す詠隊が荘厳な聖歌を歌い出す。もっとも、実は音痴なミューネにはその良さがいまいちわからないのだが。

 それにしても、昨夜の戦いが嘘のようだ。

 帝都に侵入した鬼人族はミューネの魔術によって全滅した。早朝から住民をも駆り出して、およそ千もの遺骸を焼いた光景は早いところ忘れてしまいたい。

 叛乱を起こしたマリエスタ陸軍は碧空騎士団らの活躍によって鎮圧されたらしい。大城壁の外側にいた部隊に叛意はなかったようだが、今朝一番の東方鉄道でマリーワールに帰されたという。

 そして、モデルトレデト大佐と共謀し、鬼人族を帝都に連れ込んだパウマス・サット・ジェランは、ミューネの師匠エルト・カール・デューによって討たれた。聞けば、翼龍四騎だけでなく百五十ものマリエスタ陸軍ともひとりで戦い、そのすべてを惨殺したとか。

 師匠には訊きたいことがたくさんある。

「あ、あのあの……師匠?」

「なんだ?」

 隣に立つ、深くフードをかぶった師匠に話しかけた。

 まず、何を訊くべきか。

「えっと、あ、翼龍とか新式軍隊とかとどうやって戦ったんですか?」

 いや、それも気にはなるけど!

 自ら突っ込みつつも、師匠の答えを待つ。

「魔術師がおいそれと手の内を明かすなと教えたはずだ」

 むぅ。やっぱりそう簡単には教えてくれない。

「……訊きたいことはそれだけか?」

 さらっと言われて、ぎょっとした。響き渡る聖歌のおかげで他の誰にも聞こえはしないだろう。やはり、訊くべきか。

「……いつから、準備してたんです?」

 何を、なんて言わずもがな。破邪銀の燈籠に魔術陣、魔術〝マアハピオロンの燈明〟のことである。鬼人族にしか効果がなく、エルデルドー従軍前のミューネが編み出した新しい魔術。

 いや、訊くべきは時期のことではない。

「あ、いえ、その……なんで、準備してたんですか?」

 その理由だ。

 わかってはいる。ミューネを虐める以外の無駄なことはしないエルトだ。わかってはいるのだが、師匠がなんと答えるか、ミューネは聞きたかった。

「お前は、傘を持つ者に理由を尋ねるのか?」

 それは詭弁だ。

「そんな! だって、雨じゃないんです! 鬼人族が攻めてくるなんて誰も予想できない――」

「黙れ」

 勢い込んで声の大きくなったミューネをぴしゃりと遮るエルト。幸いというか何というか、何やら周囲の諸侯がざわついている。ミューネたちの会話は喧噪に飲み込まれた。

 式部官長エナスフール王が進み出て呼びかける。

「紳士諸賢! 皇帝陛下は諸侯とのシャシンサツエイをご所望であらせられる!」

 明らかに不本意そうに告げている。だから諸侯は動揺していたのだ。陛下の異国かぶれにも困ったものだ、などという声すら聞こえる。

 写真と写真機なる技術はミューネも知っている。あれがあれば魔術陣の記録とか楽になるのになぁ、なんて考えたこともある。

 皇帝と並んで写真に写る栄誉ある名前が次々と呼ばれている。

 だが、ミューネを呼ぶのは別の声。

「いいか、ミューネ・ルナッド・リューゼ」

 こちらを向くこともなく師匠エルトが語りかけた。ミューネは師匠の顔を見上げるが、片眼鏡のせいで表情は読み取れない。

「我らは不可能を可能にする魔術師だ。自らの意志で世の理を弄った程度でがたがた騒ぐな。それができなければ我らは魔術師たり得ない」

 それは、つまり――

「パウマス・サット・ジェランはそれができずに死んだ」

「それって!?」

「宮廷魔術師エルト・カール・デュー魔術博士!」

「ここに!」

 エルトが式部官に呼び出されてしまった。

「行ってくる。ここで待っていろ」

「はい……」

 再び同じ質問をしても答えてはくれないだろう。

 疑いは永遠に疑いのままだ。

 もし、この一連の事件の黒幕がエルトだったとして、それを解決したのは師匠に促されたミューネである。出世や栄達のための自作自演だろうか。否、彼はそんなものに困ってはいないはずだ。

 悔しいかな、何か陰謀があったとしても、ミューネの頭では理解できない。

 エルトを目で追うと、ふと写真機が目に入った。オリタみたいな背広を着た褐色の肌の男が撮影の準備をしている。異国の技術、異国の人間。

 開国から十七年。

 ヨッセル上流戦争の敗北から十五年。

 初の女性皇帝が即位して一年。

 戴冠して十分。

 大人たちは時代が変わったという。それを良しとする者もいれば、悪しとする者もいる。

 だが、齢十五のミューネにはよくわからないのだ。

 たとえば、パウマスやマリエスタ陸軍のモデルトレデト大佐が何をしたかったかは、なんとなくだがわかる。いわゆる革命というやつなのだろう。

 一方で、ポテルクワ城伯と碧空騎士団は対決したが、根っこは同じ忠誠や忠義といった騎士道だ。彼らの忠義の対象たる皇帝もまたそれに応えようとしている。

 アミーやエルティーは親切だが、異人には裏があることくらい誰だって知っている。列強各国は他国に先んじてこの大陸を手に入れようとしている。

 ミューネにだって、彼らの思想や情熱はわからないでもない。

 しかし――

 それって、命賭けて戦わなきゃいけないくらい、大事なの、かな……?

 誰かを殺してまでやらなきゃいけないことなの、かな……?

「おはよう、ミューネちゃん。少しは眠れた?」

「あ、おはようございます」

 思考を遮ったのは異国の青年オリタであった。顔に疲れの色が出ているが、鳶色の瞳は輝いている。おそらく、戴冠式に感動しているのだろう。彼は他の異人と違い、白き土の大地とヴェリアリープ帝国が大好きなのだ。

「さっき、少しだけ」

 ようやく寝付いたところをマンシュテンに叩き起こされ、師匠に連れられ参列したことは黙っておこう。実を言えば二日眠っていないうえに、魔力が空っぽでふらふらなのだ。

「あ、写真には写らなくていいんですか?」

 高位の貴族や僧侶、魔術師というこの国の支配者たちが、異人の指示で撮影に臨んでいる。曰く、動くな目をつぶるな、と。写真というのも魔術と同じように何やら面倒そうだ。

「僕はぜんぜん偉くもなんともないから」

 あはは、と笑う青年。

「ミューネちゃんこそ、鬼人族をやっつけた英雄なんじゃないの?」

 英雄だなんて単語で呼ばれるのは小っ恥ずかしい。マンシュテンや未だ学生の同窓生に先生と呼ばれるのだって恥ずかしいのだ。そも、師匠にはいつも愚か者扱いされているのに。

「あ、えっと、ですね。魔術師っていうのは、弟子のやったことは基本的に師匠の功績になるんですよ。あ、これって別に、功績の横取りとかそういうんじゃないですよ? ほら、魔術っていろんなのがあって、魔術師それぞれで専攻とか得意分野とかが違うんですよね。で、それってなるべく隠すのが基本なんです。昔は魔術師同士で戦争したこともあってその名残って言われてるんですけど、師匠に言わせればおいそれと手の内を明かしちゃいけないのは当たり前だろう、って。だから、っていうか、そのために、何か魔術で大きなことしたら師匠が自分か弟子か、はたまた自分の指示で弟子がやったのかとかやんわりとぼかして、偉い人に報告したりするんです。そうすることによって、誰がどんな魔術を使える、っていうか、魔術を〝持ってる〟っていうのを秘密にしてるんですよ。それに、たぶん私は師匠に守ってもらって――」

「ぷっ」

 ミューネがいつもの語りすぎをいつも通り省みる直前、オリタは吹き出した。

「へ?」

 一体何がおかしいというのか? 話の内容に冗談は含まれていないはずだ。

「な、何ですか?」

 以前にもあったことだが、いきなり笑われるとさすがに納得いかない。

「え、だって、前もそうだったけどぷっ」

「何なんですか?」

 ミューネは苛立った。

「あ、いや、ごめんごめん」

 そう謝りつつも、オリタは笑顔のままだ。

「いくら写真に写らないからって、やっぱりその髪はないよ」

 あっ……!

 ミューネは今も魔術師らしくフードを深くかぶっている。伸ばし放題の髪は顔を覆わんばかりである。

 それっくらいわかってる!

「へ、いや、これは、別にいいん、です……」

 後退るミューネ。追ってくるオリタ。

「それじゃあ、小熊の仮装みたいだよ?」

「なっ!」

 そんな風に見えてたの!?

「はいはい、ちょっとごめんね」

 オリタは笑顔のまましゃがみ込み、フードを捲り、髪に手を伸ばした。

「ちょっ!」

 うまく拒絶の言葉が出てこない。

「いいからいいいから」

 向こうでは今まさに歴史的な写真を撮ろうとしている。

「昨日と同じ三つ編みでいいかな?」

「へ? あ……はい」

 はい、って言っちゃった……。

 周りの諸侯から視線を感じる。皇帝や諸侯と並ぶアミーから何やら強い視線を感じる。それになにより――

 どうしよう!? なんかすっごく恥ずかしい気がする!!

 でも、彼がミューネのためにやってくれているのは明らかだ。せめて、お礼くらいは口にせねばならない。

「えっと、その、うんと……」

 髪を手繰る大きな手が気になってしょうがない。

「ありがとう、ございます。オリタビ……オリビタエ……お?」

 そこまで言って、彼の正しい名前を覚えきれず、また発音もできないことに思い至り、首を捻った。というよりも、何というか、大失敗だ。昨夜は互いに命を預け合ったというのに。

 だが、彼は笑顔で応えてくれた。

「オリタ、でいいよ」

 ミューネもその愛称なら覚えているし、発音に困ることもない。

「よろしくね、ミューネちゃん」

 春の陽射しのような優しい挨拶。オリタがその鳶色の瞳で魔力の宿る赤い瞳を覗き込むと、ミューネは頬を赤く染めた。

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