第十五節
夜明け前の静けさを存分に感じることができた。帝都のあちこちで敵襲を知らせる鐘の音もどこか遠くに聞こえるようだ。
なぜなら、いつまで待っても銃声が轟かないから。
アニエミエリと対峙する近代歩兵一個中隊はモデルトレデト大佐の下命に応じず、ただ銃口を向けたまま動けずにいる。副官の大尉が復唱しないことが最大の理由なのだろう。では、その彼が復唱しない理由は何か。
教官として教育してやらねばなるまい。
「大佐殿、自分はお教えしたはずです」
アニエミエリは居並ぶ戦列歩兵を恐れず、高らかに告げた。
「近代戦において兵卒は敵よりも士官を恐れなければならないと」
たたみかける。この言葉は百五十の勢力を押し留める威力があるはずだ。
「あなたの軍隊はあなたよりも皇帝を、たったひとりの少女を恐れたのですッ!」
この大陸で最も尊いとされる貴族の毅然とした態度を目の当たりにし、大佐ほどの覚悟も野心も思想もない兵たちは従うことを拒んだのだ。
「もはや、あなたに勝ち目などありません! 投降してください、大佐殿!」
モデルトレデト大佐は投降しても死罪は免れないだろう。だが、兵たちは違う。そういう選択肢をここで示す必要がある。
アニエミエリと皇帝というたったふたりで勝つにはこれしかない。
思った通り、中隊は動揺している。アニエミエリの言葉に、皇帝の瞳に。
「れ、連隊長殿……」
軍規や軍律で言えば本来素直に復唱すべきであった大尉。彼は大逆の罪を恐れ、すがるようにモデルトレデト大佐へと近寄った。
「君を解任する。ご苦労だった」
大佐のその行動に、アニエミエリはむしろ感心してしまった。非道であっても、戦場においてその行動は正しい選択だ。
拳銃の銃声と、力なく倒れる大尉。
中隊長も小隊長も下士卒も皆、驚いている。モデルトレデト大佐はついに部下までも撃ったのだ。彼らが感じたのは、抗命すれば次は自分などという短絡的な恐怖ではない。大佐の持つ強固で苛烈な意志に恐怖したのだ。
彼らは、敵よりも、死よりも、士官を恐れた。
「目標ッ! 前方、ヴェリアリープ皇帝クラリーク一世ッ!!」
大佐ははっきりと敵の名を口にした。
「復唱の要なしッ!!」
言い換えれば「ただ俺に従え」といったところか。復唱などなくても必ず引き金を引けと命じているのだ。
「構えッ!!」
いつの間にか、一兵卒に至るまで目を血走らせていた。モデルトレデト大佐の覚悟と狂気が伝染している。
「狙えッ!!」
アニエミエリは覚悟した。
その瞬間には、せめて気高くありたい。
ただひとつの後悔は、オリビノエイタに想いを伝えていないことだけ。
彼は無事だろうか。
無事でいて欲しい。
「撃てェ!!」
モデルトレデト大佐の嗚咽にも等しい命令。
だが、その苦悩も報われることはなかった。
「異人に続けェ!! 遅れをとるなァ!!」
何をどうしたというのだろうか。委細は何もわからない。
ただこの瞬間、裏路地や建物から一斉に騎士たちが躍り出た。いや、騎士だけではない。先頭は見知った顔、幼馴染み。
「よっ。ほっ。はっ」
相変わらずの間抜けな呼気と共に歩兵を次々と斬り進むエルルティス。
「はああああああああああああああァ!!」
そのままエルルティスに斬りかかりそうな勢いのピアニエ。甲冑を着ていないだけでぐっと印象が変わる。印象だけではない。なるほど、女であることを隠していたのか。
「皇帝陛下をお救いしろォ!!」
「碧空騎士団!?」
皇帝の声に応えるように、青いマントがいくつも翻る。
人数は中隊に遙かに及ばないが、横合いから一挙に白刃で襲いかかる彼らを止める術はない。戦列を組めずに放たれるまばらな銃声など恐るるに足らない。
横列を敷く以上、左右両翼には騎兵の布陣が必要であった。そうでなければ、このように襲撃されてしまう。モデルトレデト大佐とて知らぬ訳ではないだろうが、残念ながら教官として指摘する機会はすでにない。
戦列の崩壊、突然の白兵突撃。この戦いの勝利は決まった。
あとは、決着をつけるのみ。
なんとか指揮を執り、体勢を整えようとするモデルトレデト大佐の姿。距離はある。それでも、アニエミエリには自信があった。
「お願い。もう、終わらせて」
誰にも聞こえないからだろう。隣に立つ彼女が皇帝ならぬ少女の願いを口にした。
「そうね」
片手で騎兵銃を構え、狙う。アニエミエリは揺れる馬上で敵を撃つ龍騎兵である。この大陸に住む、本物の龍とて撃ち抜いてみせるつもりだ。
騎兵銃が火を噴き、カージルト・ヨハイツ・モデルトレデトの眉間を弾丸が穿った。




