第十三節
アニエミエリは漠然とした不安を感じていた。
無謬園からここまでの道程は順調だった。満身創痍の近衛騎士たちの士気は高く、皇帝旗に引き寄せられた鬼人たちをばったばったと打ち倒した。いつしか、アニエミエリの射撃とも息が合うようになり、一人も欠けることなくここまで進んだ。
そのうえ、アルフリュート川を越えた辺りでは、もはや鬼人族の姿を見なくなっていた。このまま行けば、問題なくマスティールガー城へ皇帝を送り届けることができる。
だが、これが嵐の前の静けさに思えてならない。
鬼人族は本拠地から遠く離れた一路勇躍の決死隊である。撤退したとは思えないし、死骸も転がっていない。都内の治安維持に乗り出した騎士団にも出くわしていない。帝都クロスフェールという戦場に何か大きな変化が起こっているようだ。
「おお! あれは……マリエスタの新式軍!?」
皇帝旗を掲げる旗手長が最初に気づいた。翻る連隊旗を認識したのだろう。すぐにアニエミエリの目にも、見慣れた近代の軍隊の姿が映った。彼らを教育するためにアニエミエリははるばる海を越えてやってきたのだ。
マリエスタ陸軍教導連隊歩兵第一中隊は着剣した歩兵銃を腰だめに構え、横列のまま行軍していた。この道を通せんぼする形である。
いつでも斉射できるように戦列を維持したまま進軍するとはなかなかの練度だ。両翼が極端に弱い陣形だが、ここに到るまでの戦闘で大きな被害は出ていないようだ。
アニエミエリはまだ二日しか彼らを教育していないが、教官として鼻が高い。
「ケルトケッハ子爵の軍隊ですな」
トリスロス侯が呟く。連隊長であるカージルト・ヨハイツ・モデルトレデト大佐のことだ。
「近代陸軍に助けられるのは不満か、トリスロス侯よ」
皇帝が少しだけいじわるに訊いた。異国かぶれの装備に平民の兵隊たち。騎士道と伝統を重んじる彼らには受け入れがたい援軍であろう。
「そうですな……」
しかし、言葉に反して近衛騎士団総長は微笑んで見せた。その視線はアニエミエリに向けられている。
「ですが、鉄砲もまたいいものだと、今宵は思い知らされました」
「それは良い。のう、アニエミエリ」
騎士や貴族とは相容れないと思っていたが、アニエミエリも共に戦う内に彼らに信頼を寄せていた。結局のところ、戦友というものに文化や思想の差は関係ないのだ。アニエミエリも彼らに自然と微笑みを返す。
「ええ、陛下」
そうして、一個中隊百五十の兵隊とたった十七人の皇帝一行は、闇夜でも互いの顔が見える距離まで歩み寄った。
いや、しかし、なぜだ?
なぜ、横列のまま前進する?
皇帝旗がある以上、敵ではないとわかっているはずだ。戦列を敷き、斉射する必要がないのだから縦列でいい。駆け寄って皇帝との合流を急ぐべきだ。そもそも、銃剣の切っ先や小銃の銃口を友軍に向けるなんておかしい。
「まさか……」
さすがのアニエミエリも青ざめた。
「中隊、止まれッ!」
戦列の背後から号令がかかった。モデルトレデト大佐である。
「構えッ!!」
彼は鬼気迫る貌で命令を下し続け、兵らはそれに従った。
「狙えッ!!」
「陛下、伏せて!」
「撃てッ!!」
アニエミエリは皇帝に飛びつき、そのまま押し倒す。
歩兵銃が一斉に火を噴き、銃声が響き渡った。
皇帝を含むたったの十七人に百五十の弾丸が襲いかかる。
鉛の暴風が過ぎ去ると、近衛騎士も近衛兵もばたばたと倒れた。悲鳴をあげている者は辛うじて生きているが、それすらも多くはない。ほとんどが一瞬にして絶命した。
衝撃を振り払い、アニエミエリは半身を起こす。胸に抱えた皇帝に傷はない。自身の体の痛みも、白影岩の石畳に打ち付けたものだけだ。
なぜなら、甲冑を纏った大柄な騎士が壁となったからだ。
「と、トリスロス侯……!?」
剣も矢もはじき返す分厚い胸甲をも弾丸は貫く。だからこそ、旧大陸では鎧が廃れたのだが、この国の騎士は鎧と肉体で弾丸を受け止めたのだ。己の命と引き替えに。
近衛騎士団総長たるトリスロス侯は主君の呼びかけに応じることなく倒れ伏し、そのまま動かなくなった。
皇帝旗を担う旗手長もまた倒れようとしていた。栄光ある旗を地につけぬよう抗うも、薄れ行く意識ではどうにもならない。そこへ寄り添うように駆け寄ったのは、自らも血塗れになった皇帝の侍従官長だ。
「爺……」
まだ若い皇帝が国元から連れてきた高齢の侍従官長。幼い頃から彼女の侍従だったのだろう。宮殿では皇帝を「おひいさま」と呼んでいた。そんな不敬が許される者など、地上に彼ただひとりであろう。
「爺ッ!!」
「爺なら常にお側に居ります故、戦場だからといって大きなお声をお出しにならなくともよろしゅう御座います、陛下」
皇帝の悲痛な叫びに笑顔でそう応えると、彼は旗竿に身を寄せて息絶えた。偉大なる皇帝旗は倒れることなくはためいている。
「装填ッ!! 装填急げェ!!」
モデルトレデト大佐の容赦ない号令が街路に響き渡る。もはや、動ける者など、皇帝とアニエミエリしかいないというのに第二射を放とうというのか。
俯き震える皇帝から手を離し、アニエミエリは立ち上がった。一個中隊と相対し、その奥にいるひとりの男を怒鳴りつける。
「大佐殿……これは一体どういうことですッ!?」
百五十対一。武器は騎兵銃一丁。
だからといって、膝を屈する訳にはいかない。眼下に倒れる戦友たちのためにも。
「ああ、フローナースト中尉」
言葉は平静を保っているようだが、大佐は目を血走らせていた。意を決しての反逆であることが伺える。
「よもや、外国の将校ともあろうお人が封建貴族を守るとは思ってもいませんでしたよ」
兵たちは弾を込めている。彼らはただ連隊長の命令に従っているだけだろう。大それたことをしているのはわかっていても、戦場における指揮官の命令というのは逆らい難い。悔しいが、大佐は兵をしっかり統率している。使い物にならないという酷評は撤回せねばならない。
「そんなことは訊いていないッ!」
アニエミエリの怒りが爆発した。
「なぜ撃ったァ!?」
「これが私の革命だからだッ!!」
モデルトレデト大佐も怒鳴り返す。
「百年前、あなた方の祖父母が成し遂げたことを真似ただけだッ!! 王侯貴族を倒し、万民が平等な国を作って何が悪いッ!!」
近代を知り、近代を学んだ彼の気持ちはわからないでもない。永遠の昨日を繰り返す、伝統と身分に囚われた時代――中世。
「時代遅れな騎士がこの国を支配したままでは、いずれ旧大陸列強に蹂躙されてしまう! 教官だと!? 笑わせるなァ!! いつの日かこの国を植民地にしたいのだろうッ!!」
確かに、旧大陸列強はそれを狙っている。アルテプラーノも例外ではない。
アニエミエリもマリエスタ陸軍の教練だけでなく、ヴェリアリープ帝国の内情を探るよう命じられている。これはオリビノエイタには秘密にしている。無邪気に礼を言うオリビノエイタを見るたびに胸が痛む日々。
モデルトレデト大佐の言うことはもっともなのだ。老いて死を迎えるだけの祖国を憂う気持ちはわかる。だが、それならなぜ、彼は――
「この……」
呟きながら、皇帝がゆらりと立ち上がった。
「この痴れ者めがァ!!」
王者の風格を伴った一喝。
「よかろう! 反逆もまた武勇の誉れ! それが貴公の掲げる正義なのであろう!」
これほどの死と暴力を前にして、十九歳の女の子が口にする台詞ではない。しかし、アニエミエリにはわかっている。彼女は死にゆく侍従官長に「陛下」と呼ばれた瞬間から、戴冠を待たずして本当の〝皇帝〟になったのだ。
「ならば、なぜッ」
湛える涙だけが、皇帝ならぬクラリークなのだろうか。
「なぜに貴公はそれほど苦しんで居るかッ!!」
そう、皇帝の言うように、革命家モデルトレデト大佐は己が反逆に顔を歪め、苦しんでいる。自分の正義を声高に叫ばなければ次なる命令を下せないのだ。祖国を愛するが故に、祖国の御旗を討とうというのだ。
東の空がうっすらと白み始めている。
「構え」
静かだが、力強い号令。やはり、大佐は皇帝の問いに答えなかった。
「狙え」
さすがに兵たちは動揺している。本当に引き金を引いていいのかと。
「撃て」
皇帝クラリーク一世とアニエミエリは百五十の銃口でなく、三百の瞳を睨み付けた。




