第十二節
大きな手だなぁ。
オリタに手を引かれて走るミューネはそんなことを思っていた。この手で髪を編んでくれたんだなぁ、とも。もっと考えなければならないことはいっぱいあるのだが、どうにも腑に落ちず、無意味なことについつい気を取られてしまう。
赤龍館になにが待っているか、わからないでもない。しかし、そんなことがあり得るのであろうか?
答えはこの角を曲がった先に待っている。
「見えたっ!」
オリタが言う。
幸い、赤龍館の周りに鬼人族はいない。その代わり、衛兵もいない。
「正面の入口でいいのかな!?」
「えーっと」
エルトには赤龍館に行けと言われただけだ。広い館内、どこへ行けばいいのだろうかと思い、目を凝らす。
すると、正面入口からこそっと半身を覗かせるチェリス・ポルマーネ・マンシュテンの姿が見えた。扉を少しだけ開き、おいでおいでしている。
「あ、誰かいるよ!」
「師匠の秘書のマンシュテンさんです! 行きましょう!」
ここぞとばかりにミューネも全力疾走。今まで歩幅の差のせいで引っ張られていたが、やっと肩を並べて走ることができた。それも少しの間だけで、すぐに引っ張られてしまったのだが、そういうことにしておこう。
扉に辿り着く頃には息が上がっていた。
「リューゼ先生、こちらです!」
魔術師ではないため学位のないマンシュテンはミューネを先生という敬称で呼ぶ。倍の年齢の人間にそう呼ばれるのには未だに慣れず、それどころか面映ゆいのだが、今日ばかりはそれどころではない。
招き入れられた庁内は真っ暗だった。宮廷魔術師の役所である以上、衛兵や魔術師を召集して防衛することもできるのだが、そうはしなかったらしい。むしろ、無人にすることで鬼人族の目を逸らしたのだろうか。
「マンシュテンさん、師匠がここにって! どういうことですか?」
案内されて奥へ奥へと進む。
「あいつなら見ればわかると仰っていましたよ」
要領を得ない返事。オリタも疑問に思っているらしく、顔を見合わせて首を傾げた。
目的地は地下らしい。階段を下る。レーナリーク王立魔術院の分校は帝都にあるにも関わらず、地下には魔術らしいおどろおどろしい部屋がいっぱいある。しかし、お役所でしかない赤龍館の地下には倉庫くらいしかないはずなのだが。
「ここは?」
案内されたのは地階の最奥。マンシュテンが開錠する間にオリタが訊いた。
「倉庫、のはず、です」
ミューネの記憶が確かならそのはずである。広い室内に木箱や樽が山積みになっているのを一度だけ見たことがあったからだ。
しかし、扉が開かれるとそこはがらんどうだった。
広い室内に何もない。否、真ん中にぽつんと何かが置かれている。
「へ?」
それは何かなどではない。ミューネはそれが何か知っている。誰よりも詳しく知っているが、あまりに信じられず、駆け寄って確かめてしまった。
「どしたの、ミューネちゃん!?」
背後から問い掛けるオリタ。
「そんなはずないのに……!」
ミューネの目の前には破邪銀の燈籠が置かれていた。それも、大きくて品質がいい。エルデルドー砦で使ったものの比ではない。一流の職人がお金と時間をかけて作り上げたものに違いない。そのうえ、燈籠を中心に巨大で緻密な魔術陣が石畳に描かれている。それだけでも魔力を宿すラハイロスの白墨でくっきりと。
燈籠も魔術陣も〝マアハピオロンの燈明〟という新しい魔術のためにミューネ自身が考案したものである。
確かに、燈籠の発注書は事前にエルトへ提出している。実際に用いた魔術陣も報告書に添付した。
だからといって、これはおかしい。
「だって、これだけの準備、すっごく時間かかるんですよ……?」
オリタに言っても仕方ないが、口にせずにはいられなかった。
「前もって準備してたってことじゃないかな?」
「でも、この魔術、〝マアハピオロンの燈明〟は――」
そこに恐ろしい真実が含まれている。
「……鬼人族にしか効果ないんです」
誰が予想し得たというのか。戴冠式の前夜、この帝都クロスフェールに、遙か南方から鬼人族が攻めてくるなど。
涙神プラニラムとて気づきはすまい。
「え、それって……」
つまり、エルト・カール・デューはこの奇襲を知っていたということだ。
「マンシュテンさん! これってどういうことですかっ!?」
「知りません! 私はただデュー先生の指示通りに――」
マンシュテンに詰め寄ろうとするミューネの手を、オリタが再び握った。
「今はそれどころじゃないよ」
この大陸にはない鳶色の瞳が見つめる。
「その魔術で鬼人族をやっつけられるってことだよね?」
そうだった。いま大事なことはそれだけだ。
騎士が、兵士が、皇帝が、アミーが、エルティーが、師匠が、鬼人族相手に今も戦っているのだ。もしかしたら、戦い敗れ死にかけているかも知れないのだ。その誰もが自分より年上で、偉く、格好良く、優秀で力もあるから、自分が彼らを助けるだなんて思ってもみなかった。
そして、オリタはそれをミューネに期待し、求めている。
ここには帝都の鬼人すべてを倒すだけの武器がある。
私にしか使えない武器が!!
「はい!」
ミューネは燈籠の前に立ち、深呼吸を一回。エルデルドー砦で成功させたときの感覚を思い出す。持てる魔力をごっそり吐き出さないとこの魔術は発動しない。
集中しろ! 集中しろ、私!!
相手は獣神マアハピオロン。獣でありながら気位が高く、獣であるからこそ本来ならばどんな言葉も通じない。だから、今までどんな呪文もマアハピオロンには届かなかった。その解決策を編みだしたのが、魔術師ミューネ・ルナッド・リューゼである。
絶対に、できるッ!!
「遙かなるかな、地の果て海の果て。千里を越え、万里を越え、偉大なる汝へ申し奉るお赦しを頂戴すべく、我はここに言の葉を紡がん」
ミューネが古代龍言語で詠唱をはじめた瞬間、帝都中の鬼人族が古の戒めの気配を感じ取った。祖先と故郷を焼き払ったあの災厄がまたもやってくる、と。それだけは何としても防がねばならない。
鬼人族は一斉に赤龍館、否、ミューネの元へと駆けだした。




