第四節
客間のテーブルに帝都クロスフェールの地図が広げられた。皇帝の軍議に使うものだから高価そうではあるが、旧大陸の地図よりも精密さに欠く。だが、オリビノエイタはこの方が好きだ。
「ゲリークフェン宮殿はここ、帝都の中心じゃ」
甲冑を纏った皇帝は地図の中央に女王の駒を置いた。
「焼き討ちにあったのが至聖殿と厩舎とシュレージル兵営、ここと、ここと、ここ」
白魚のような細い指が宮殿の周りを順々に指差す。地図上の至聖殿を指してエルルティスが訊く。
「で、ホントならここにいたんだよね?」
「さすがの敵も陛下がお忍びでここにいるとは気づかなかった、と」
「然様」
アニエミエリの言葉に皇帝が大きく頷いた。威張れたことではないと思うが、そのおかげで命拾いしたことは確かだ。ところで、皇帝はアニエミエリたちに何の用だったのだろうか?
オリビノエイタが口を挟めないまま軍議は続く。
「この宮殿が帝都の中心にあるということは脱出はほぼ不可能」
アニエミエリは何か作戦を考えているようだ。
「宮殿の守備兵力は?」
「今宵、朕は至聖殿にいることになっている。良くて三十」
三十の兵といっても剣や槍を持った兵隊だ。銃の一丁もない。
「このままだと落ちる、か」
アニエミエリと皇帝の言うとおりなのだろう。外から聞こえる戦場の喧噪は、明らかに人外の声が勝りつつある。
「移動したいところね。陛下、どこかに軍事拠点は?」
いつの間に仲良くなったのだろう。アニエミエリと皇帝は通じ合っていた。
「ここ、エナスフール王のマスティールガー城じゃ」
皇帝は城塞の駒を地図に置いた。
「もっとも近くもっとも堅牢で、何よりエナスフール王の誇る瑞泉騎士団が駐屯して居る」
地図で見る限り、宮殿裏手の庭園〝無謬園〟を抜けてアルフリュート川を越えて少しのところにあるようだ。それほど遠くはないが、敵がどこにどれほどいるのかわからない。素人目にも困難な道程が予想できる。
「しかし、陛下」
アニエミエリが渋い貌をする。
「エナスフール王は信用できるので?」
言いにくいことを言い切った。
鬼人族は遙か南、灰の砂漠に住むと聞く。過去何度かヴェリアル大平原への侵攻を試みるも、さすがに帝都まで攻め込んだことはない。それが、大城壁の内側へ一気に侵入し、狙い澄ましたように要所を潰している。
誰か力ある人間が手引きしたのは間違いない。それは、保守・守旧派の領袖にして、七百諸侯で唯一王位を世襲する、選帝侯の筆頭ではないか、という疑惑。
「できる。それは杞憂じゃ」
若き皇帝クラリーク一世は言い切った。まるで睨み合うように、アニエミエリと視線を交わす。いつものアニエミエリならじっくり根拠を求めるだろうが、ここはもはや戦場だ。彼女は将校として瞬時に判断を下さねばならない。
「わかりました。陛下を信じましょう」
オリビノエイタの目にはふたりが微笑んだように見えたが、実際はどうだっただろう。後に思い出そうとしても、その自信はない。だが、そう見えるほど、彼女たちは互いを信頼しているようだった。
「あ、あのあの!」
今まで遠慮していたらしいミューネが手を挙げた。授業で発言する生徒のように。古今、軍議でそんな風にして発言した者はいないだろう。
「なんじゃ?」
「帝冠は守らなくていいんですか?」
その通りだ。戴冠前の皇帝を狙ってくる以上、戴冠前の帝冠も狙われていると考えていい。
「えっ、帝冠っていまどこに?」
士官学校を次席で卒業した秀才アニエミエリも、戴冠式にまつわる知識は持ち合わせていなかったようだ。
「帝都最大の教会、楽土大聖堂にあるんだよ」
オリビノエイタが解説する。思わず得意げになってしまって、少し恥ずかしい。
「楽土大聖堂?」
「えーっと、どこだっけ?」
地図で探すも見つからない。得意げに口を挟んだ手前、更に恥ずかしい。
「あ、ここです、ここ。赤龍館の近く」
ミューネが指差して教えてくれた。言われてみれば、赤龍館へ行ったときに楽土大聖堂の鐘の音を聴いている。その後の誘拐騒動が衝撃的過ぎて忘れていたのだ。
「それも守らねばならない?」
「帝冠がなければ、戴冠できん」
皇帝の即答にアニエミエリは眉間にしわを寄せた。
「目標のマスティールガー城の――」
城塞の駒からつーっと地図をなぞる。アルフリュート川を越え、無謬園を越え、楽土大聖堂のある官庁街へ。
「逆方向か……」
楽土大聖堂の位置に王の駒を置く。オリビノエイタが見ても、王の駒と城塞の駒が遠すぎることはわかる。そのうえ、女王の駒はその中間だ。
「大聖堂には二百からなる僧兵が居るが、近衛騎士団の守る至聖殿がすでに落ちている」
「翼龍相手ですからね……」
皇帝とミューネ、西新大陸人ふたりの貌が陰る。オリビノエイタがかつて読んだ書物にもこうある。鬼人の最大の武器はその蛮勇さと翼龍である、と。旧大陸の科学力でも空を飛ぶのは熱気球が限界だ。空を飛ぶ敵は恐ろしい。
「ならば、帝冠の守護は臣にお任せくだされ」
突如、聞き慣れない男の声。侍従官長のものでもなければ、自分のものでもない。
「混戦の中、よくぞ参った」
「臣エルト・カール・デューは皇帝陛下の宮廷魔術師で御座います故」
バルコニーに突然現れた男を皇帝は驚くでもなく労った。オリビノエイタはどうやってそこへやってきたのかと思ったが、その答えはすぐに知れた。何やら魔術を使って来たことは間違いない。
その男は白皙白髪、金糸で刺繍された白いローブを纏い、赤い瞳に片眼鏡。
「あ、師匠……」
ミューネがそう呟いたのを、オリビノエイタは聞き逃さなかった。




