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汝の零した青き涙に  作者: 嘉野 令
第八章 夜襲
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第四節

 客間のテーブルに帝都クロスフェールの地図が広げられた。皇帝の軍議に使うものだから高価そうではあるが、旧大陸の地図よりも精密さに欠く。だが、オリビノエイタはこの方が好きだ。

「ゲリークフェン宮殿はここ、帝都の中心じゃ」

 甲冑を纏った皇帝は地図の中央に女王の駒を置いた。

「焼き討ちにあったのが至聖殿と厩舎とシュレージル兵営、ここと、ここと、ここ」

 白魚のような細い指が宮殿の周りを順々に指差す。地図上の至聖殿を指してエルルティスが訊く。

「で、ホントならここにいたんだよね?」

「さすがの敵も陛下がお忍びでここにいるとは気づかなかった、と」

「然様」

 アニエミエリの言葉に皇帝が大きく頷いた。威張れたことではないと思うが、そのおかげで命拾いしたことは確かだ。ところで、皇帝はアニエミエリたちに何の用だったのだろうか?

 オリビノエイタが口を挟めないまま軍議は続く。

「この宮殿が帝都の中心にあるということは脱出はほぼ不可能」

 アニエミエリは何か作戦を考えているようだ。

「宮殿の守備兵力は?」

「今宵、朕は至聖殿にいることになっている。良くて三十」

 三十の兵といっても剣や槍を持った兵隊だ。銃の一丁もない。

「このままだと落ちる、か」

 アニエミエリと皇帝の言うとおりなのだろう。外から聞こえる戦場の喧噪は、明らかに人外の声が勝りつつある。

「移動したいところね。陛下、どこかに軍事拠点は?」

 いつの間に仲良くなったのだろう。アニエミエリと皇帝は通じ合っていた。

「ここ、エナスフール王のマスティールガー城じゃ」

 皇帝は城塞の駒を地図に置いた。

「もっとも近くもっとも堅牢で、何よりエナスフール王の誇る瑞泉騎士団が駐屯して居る」

 地図で見る限り、宮殿裏手の庭園〝無謬園〟を抜けてアルフリュート川を越えて少しのところにあるようだ。それほど遠くはないが、敵がどこにどれほどいるのかわからない。素人目にも困難な道程が予想できる。

「しかし、陛下」

 アニエミエリが渋い貌をする。

「エナスフール王は信用できるので?」

 言いにくいことを言い切った。

 鬼人族は遙か南、灰の砂漠に住むと聞く。過去何度かヴェリアル大平原への侵攻を試みるも、さすがに帝都まで攻め込んだことはない。それが、大城壁の内側へ一気に侵入し、狙い澄ましたように要所を潰している。

 誰か力ある人間が手引きしたのは間違いない。それは、保守・守旧派の領袖にして、七百諸侯で唯一王位を世襲する、選帝侯の筆頭ではないか、という疑惑。

「できる。それは杞憂じゃ」

 若き皇帝クラリーク一世は言い切った。まるで睨み合うように、アニエミエリと視線を交わす。いつものアニエミエリならじっくり根拠を求めるだろうが、ここはもはや戦場だ。彼女は将校として瞬時に判断を下さねばならない。

「わかりました。陛下を信じましょう」

 オリビノエイタの目にはふたりが微笑んだように見えたが、実際はどうだっただろう。後に思い出そうとしても、その自信はない。だが、そう見えるほど、彼女たちは互いを信頼しているようだった。

「あ、あのあの!」

 今まで遠慮していたらしいミューネが手を挙げた。授業で発言する生徒のように。古今、軍議でそんな風にして発言した者はいないだろう。

「なんじゃ?」

「帝冠は守らなくていいんですか?」

 その通りだ。戴冠前の皇帝を狙ってくる以上、戴冠前の帝冠も狙われていると考えていい。

「えっ、帝冠っていまどこに?」

 士官学校を次席で卒業した秀才アニエミエリも、戴冠式にまつわる知識は持ち合わせていなかったようだ。

「帝都最大の教会、楽土大聖堂にあるんだよ」

 オリビノエイタが解説する。思わず得意げになってしまって、少し恥ずかしい。

「楽土大聖堂?」

「えーっと、どこだっけ?」

 地図で探すも見つからない。得意げに口を挟んだ手前、更に恥ずかしい。

「あ、ここです、ここ。赤龍館の近く」

 ミューネが指差して教えてくれた。言われてみれば、赤龍館へ行ったときに楽土大聖堂の鐘の音を聴いている。その後の誘拐騒動が衝撃的過ぎて忘れていたのだ。

「それも守らねばならない?」

「帝冠がなければ、戴冠できん」

 皇帝の即答にアニエミエリは眉間にしわを寄せた。

「目標のマスティールガー城の――」

 城塞の駒からつーっと地図をなぞる。アルフリュート川を越え、無謬園を越え、楽土大聖堂のある官庁街へ。

「逆方向か……」

 楽土大聖堂の位置に王の駒を置く。オリビノエイタが見ても、王の駒と城塞の駒が遠すぎることはわかる。そのうえ、女王の駒はその中間だ。

「大聖堂には二百からなる僧兵が居るが、近衛騎士団の守る至聖殿がすでに落ちている」

「翼龍相手ですからね……」

 皇帝とミューネ、西新大陸人ふたりの貌が陰る。オリビノエイタがかつて読んだ書物にもこうある。鬼人の最大の武器はその蛮勇さと翼龍である、と。旧大陸の科学力でも空を飛ぶのは熱気球が限界だ。空を飛ぶ敵は恐ろしい。

「ならば、帝冠の守護は臣にお任せくだされ」

 突如、聞き慣れない男の声。侍従官長のものでもなければ、自分のものでもない。

「混戦の中、よくぞ参った」

「臣エルト・カール・デューは皇帝陛下の宮廷魔術師で御座います故」

 バルコニーに突然現れた男を皇帝は驚くでもなく労った。オリビノエイタはどうやってそこへやってきたのかと思ったが、その答えはすぐに知れた。何やら魔術を使って来たことは間違いない。

 その男は白皙白髪、金糸で刺繍された白いローブを纏い、赤い瞳に片眼鏡。

「あ、師匠……」

 ミューネがそう呟いたのを、オリビノエイタは聞き逃さなかった。

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