第七節
どうしていいかわからなかったが、訪ねられた以上は迎え入れるのが礼儀だろうと思って、アニエミエリはヴェリアリープ皇帝を部屋に招き入れた。
侍女のお仕着せを着て夜中に単身やってきたのだからお忍びなのだろうが、それを承知したところでどう対応したものか。何せ、相手はこの国の元首なのだ。
「こ……こんばんは、陛下」
とりあえず椅子を勧め、跪いて頭を垂れた。発した言葉は少し間抜けな気もしたが、夜間の挨拶といえばこれしか知らない。
「そんな、私の方からお邪魔しているのですから、畏まらないでください」
なんということだろうか。封建国家の貴族たちの頂点に君臨する皇帝が、あろうことか彼女自身に向けられる礼節を丁寧に断っている。先帝の開国政策といい、モデルトレデト大佐の言動といい、すでにこの国の変革は始まっているようだ。
「あーそーおー? じゃー、よいしょっと」
大人しくアニエミエリの真似をして畏まっていたエルルティスが立ち上がった。
「あ、こら! エルティー!」
皇帝の隣に腰掛け、長い両足を投げ出した。相手が皇帝でなくても無礼で馴れ馴れしい。
「いえ、いいのです。ルクスティーさんは悪くありません。さあ、フローナーストさんも楽になさってください」
「は、はぁ……」
調子が狂うが、そこまで言うなら仕方がない。とりあえず、別の椅子を引き寄せ向かいに座った。それにしても、皇帝が今朝見せつけた威厳や尊大な物言いが嘘の様な態度である。旧大陸であれば、資産家の令嬢といった風だ。
「して、皇帝陛下、自分に何か――」
「それで何しに来たのー? ってゆーか、どしたのー? 昼間と全然違うじゃん」
お前はー!! いくらなんでももう少し言葉とか考えろー!!
そんなアニエミエリの心配をよそに、皇帝クラリーク一世はエルルティスの非礼を咎め立てることはなかった。むしろ、それを喜んでいるようだ。
「私だって生まれながらの皇帝ってわけではありませんから」
「あー、そっか。皇帝って選ばれるんだっけ?」
「はい、去年の今頃はまだ〝普通の田舎貴族〟でした」
相手が誰であろうとエルルティスは臆しないことなどわかっていたが、よもやここまでとは。これではまるで、年の離れた友人か親戚だ。学校の先輩後輩のようでもある。
自身を田舎貴族と呼んでうふふと笑う若き女帝。
「ふぅ……しかし、陛下。今夜は沐浴をされているはずでは?」
宮殿に隣接する至聖殿とやらで一晩身を清めると聞いている。明日の神聖な戴冠式に備えての儀式だという。
「だって、沐浴してる間は誰にも会わないんですよ?」
「あー、それなら別にいてもいなくてもおんなじってことねー」
「はい!」
はい、じゃなかろう。エルルティスの言葉に笑顔で応える皇帝。今朝の姿からは想像できないほどの屈託のない笑み。
この期に及んで肩肘張ってる自分の方が間違っている気がしてきた。自らを「朕」と呼んだ皇帝としての姿と、今の穏やかな少女の姿。その二面性の意味に気づかないほどアニエミエリも無粋ではない。
「ま、その沐浴が宗教的にどれくらい大事かは知らないけどね。いいんじゃない?」
今夜くらい、仕事や身分を忘れて微笑み返してもいいだろう。
「あ、フローナースト中尉も笑われるんですね?」
「それ、私のセリフ」
先の戦役でたまたま活躍して以来、アニエミエリは英雄と呼ばれている。ある日突然、皇帝に祭り上げられた少女とどこか通ずるものを感じずにはいられない。
「皇帝だって笑いますよ、臣下の前でなければ」
老いたる大国を背負った少女と笑い合う。童話やおとぎ話、または歴史でしか知らない豪勢な宮殿なのも相まって、どこか夢のような非現実感。繊細な硝子細工のように、大切にしたくとも壊れてしまいそうな愛おしさ。
「それで……何故、私たちのところへ?」
「アミーとか一歩間違えば敵みたいなもんでしょー? 今朝もほら、嫌味ゆってたじゃん」
こればかりはエルルティスの言うとおりだ。
ケーネルキーあたりが革命勢力を支援しているのに対抗して、アルテプラーノは現政権のためにアニエミエリら教官団を派遣した。とはいえ、そういった構図がいつひっくり返ってもおかしくないのが西新大陸の現状である。今朝、皇帝が言ったように、アニエミエリが〝ゲリークフェン宮殿一番乗り〟の〝英雄〟にならないとも限らない。
「それは……しょうがないことじゃありませんか」
皇帝の微笑みは悲しみを湛えている。
「誰もが大義を背負ってる。それはお互いに相容れないものであっても、やっぱりそれはその人にとって大事なことですから」
燭台の炎が陰を揺らす。
「敵になり得ると言うのなら、あの部屋にいた誰もがそうです。悲しいことですが、すでにこの国は分裂しています。今に、私には止めることの出来ない大きな戦いが起こるでしょう」
「そう、ね」
やはり、お飾りの皇帝と呼ぶには聡明すぎる。もしかしたら、彼女はこの動乱の世を乗り切ってみせるのではないか?
「でも、あの部屋の中にあって、私をお飾りではないと評価してくれた方がいました」
「あー、アレ、聞こえてたのー?」
謁見の間でエルルティスは「これがお飾りの皇帝? そんなはずないじゃん」と呟いた。あのとき、アニエミエリはそれに頷いた。
「私、父が開明派でしたのでケーネルキーの言葉もアルテプラーノの言葉も話せるんですよ。それに、少し地獄耳なんです」
うふふと笑う可愛らしさ。皇帝クラリーク一世ではない少女の姿。
「……でも、私に、何か出来るのでしょうか?」
真剣な眼差し。皇帝クラリーク一世たらんとする少女の姿。
「この国のために、この国の皇帝として」
少しだけ早く生まれ、より少ない責任の下に生きる者として何かを伝えたい。微かでも、僅かでも、力になりたい。戦場で身につけたなけなしの強さを分け与えたい。国も身分も違えど、ひとりの人間として。
そんな思いに駆られたアニエミエリは、ひとつ質問しようと思い立った。
「……名前、教えてもらえる?」
アニエミエリの突然の問い掛けに皇帝はきょとんとした。今や報道を通じて、西新大陸のみならず世界中の誰もが知っている名前だからだ。
「え? クラリーク一世、ですよ?」
「それ、即位した皇帝としての名前でしょう」
親からもらった名と親から受け継いだ姓があるはずだ。
「あ……クラリーク・リネスマッヒ・アンジャーネスカ=リスペンリスといいます」
「クラリークは本当の名前なのね」
「はい」
聡明な彼女のことだ。自分の言わんとしたことは伝わっただろう。皇帝であると共に自分自身であること、あり続けること。十九の彼女には難しいことかも知れないが、誰かが教えてあげるべきだ。この国の誰もが彼女をお飾りとして扱うのであれば、自分が少女かつ皇帝として彼女を遇しよう。
「いい皇帝にお成りなさい、クラリーク」
「……はい!」
このとき、クラリーク一世の頬を伝い、青き瞳から何が流れ落ちたか。女神プラニラムの神話じゃあるまいし、それを記すのは野暮というものだろう。後年の歴史書にもアニエミエリの手記にもそれは記されていない。
ただ、月がゆっくりと地平へと向かう。時は深更。
しばしの沈黙の後、気持ちを切り替えた皇帝はすっくと立ち上がった。
「貴公らの好誼に感謝する」
「お役に立てて何よりです、陛下」
形式だけの儀礼ではない。アニエミエリもエルルティスも心から跪き、頭を垂れた。
「至聖殿に戻る。世話になった」
王者に相応しい足取りで皇帝は扉へと向かったが、エルルティスはそれを手で制した。
「ごめん、ちょっと待って」
雰囲気台無しであるが、あのエルルティスの貌が本気だ。何か危機が迫っている。アニエミエリも立ち上がった。
エルルティスの視線は窓の外に向けられている。そのまま、大股で歩み寄り、窓を開きバルコニーへ。まずは臭いを感じた。懐かしき戦火の香り。
「アミー、見て」
皇帝の横を駆け抜け、バルコニーへと飛び出す。夜の闇を赤々と照らし出す火の手。宮殿のすぐ隣の建物が炎に包まれている。
「至聖殿が燃えてる……」
呟いたのはエルルティスでも皇帝でもない。隣室のバルコニーでオリビノエイタが零した言葉だった。何故か彼の隣にはあの魔術師の少女。心がちくりと痛むがそれどころではない。
至聖殿――今お忍びでここにいる皇帝が、本来いるべき場所が燃えているのだから。




